1.泥濘の棺桶
喉の奥で、ガラスの破片が擦れるような音がした。
肺からせり上がってくる熱い塊を、ハンカチで押さえ込む。咳き込むたびに、肋骨がきしむような痛みが走る。口を離すと、白い布には赤黒いシミが広がっていた。
「……最悪な天気だ」
俺、アラストル・クレイグは、泥水に足を取られながらそう独りごちた。
空を覆うのは、鉛色の雲。そこから降り注ぐのは、上空での魔導戦闘によって汚染された「灰色の雨」だ。肌に触れればじわりと痛み、吸い込めば肺を冒す。
「少佐。足元、ぬかるんでる」
背後から、衣擦れの音と共に気遣わしげな視線を感じる。
振り返るまでもない。俺の「影」である少女、ヴァルカだ。
彼女は言葉を発しない。石化した喉からは、風が吹き抜けるような掠れ音しか出ないからだ。その代わり、彼女は俺の身体が右に傾くよりも早く、小さな手で俺の脇を支えた。
その体躯には似つかわしくない、巨大な鉄塊――『対魔導重ライフル』を背負いながらも、彼女の足取りは驚くほど軽い。
「すまない、ヴァルカ。……まだ死ぬわけにはいかないな」
彼女は無表情のまま、首に巻いた包帯の上からボロボロのポンチョを被り直し、再び俺の背後に立った。
俺たちが歩いているのは、帝国の北部国境、「第103泥炭地帯」と呼ばれる最前線だ。
塹壕の中は、文字通りの地獄だった。
膝まで浸かる泥水には、油と汚物が浮いている。
兵士たちは皆、防毒マスクをつけ、泥人形のように壁にもたれかかっていた。その瞳に生気はない。彼らが抱えている小銃の魔石カートリッジは、湿気て使い物にならないだろう。
時折、遠くで重低音が響く。敵軍である連邦の砲撃だ。着弾するたびに地面が揺れ、パラパラと泥が降ってくる。
「……ひどいものだな。兵站が死んでいる」
俺は呟く。
ここへ来る途中、補給部隊のトラックが何台もスタックして放置されているのを見た。前線の兵士に届くべき食料と弾薬は、泥の中で腐っている。
それなのに、これから俺が挨拶に向かう指揮官は、「精神論」で突撃を命じようとしているらしい。
「ここだ」
半地下に作られたコンクリート製のトーチカ。その重い鉄扉の前で、俺は一つ息を吐き、杖で扉を叩いた。
中に入ると、湿気たカビの臭いと、場違いな安いコロンの香りが鼻をついた。
「遅いぞ! 貴様が参謀本部から来た増援か!」
怒声が飛ぶ。
作戦卓の前に立っていたのは、立派な髭を蓄えた男だった。軍服は仕立てが良いが、腹が出ている。この戦区の司令官、バーンズ准将だ。
「帝国軍参謀本部作戦課、アラストル・クレイグ少佐です。着任いたしました」
俺は敬礼もそこそこに、杖をついたまま答える。
バーンズ准将は、俺の痩せこけた体と、背後の小汚い少女を見て、露骨に顔をしかめた。
「なんだその貧相な体は。それに、その子供はなんだ? ここは戦場だぞ、ピクニック気分か!」
「彼女は私の護衛です。……それより閣下、状況報告を。前線の損耗率が40%を超えています。即座に戦線を後退させ、第2防衛ラインまで下がるべきです」
俺が単刀直入に切り出すと、准将の顔が真っ赤になった。
「馬鹿者! 撤退だと? この泥炭地は我が帝国の聖域だ! 一歩たりとも引くことは許さん!」
准将はバンと机を叩く。その上には、インクで汚れた地図と、半分ほど空になったワインボトルがあった。
「敵の魔導戦車隊が目前に迫っているのだ。我が軍の誇る魔導歩兵部隊を突撃させ、肉弾戦で押し返す!」
「……正気ですか。この雨天では、歩兵の魔導杖の着火率は3割以下に落ちます。対して、敵の戦車は密閉型の燃焼炉を持っている。突撃させれば、一方的な虐殺になりますよ」
俺は淡々と数字を告げる。
感情ではない。物理現象としての事実だ。
だが、准将にはそれが通じない。
「貴様のような青白いインテリには分からんのだ! 戦争とは気合だ! 忠義だ! 魔法とは、強き意志に宿るものなのだ!」
唾を飛ばして喚く准将。
俺は懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
13時59分45秒。
俺の計算が正しければ、あと15秒だ。
「……閣下。一つだけ訂正させてください」
「なんだ!」
「魔法とは、意志ではなく『燃焼反応』です。そして戦争とは、物量の『減算処理』に過ぎません」
俺は一歩、右へ動いた。ヴァルカの手を引き、コンクリートの梁の下へと誘導する。
「貴様、何をわけのわからんことを……」
「時間です」
俺がそう言った瞬間だった。
空気が歪むような轟音と共に、世界が反転した。
ズドン!!
凄まじい衝撃。天井のコンクリートがひび割れ、土砂と共に崩落する。
爆心地は、まさにバーンズ准将が立っていた作戦卓の真上だった。
敵の長距離榴弾砲による精密射撃。
このトーチカの位置情報は、敵に筒抜けだったのだ。無能な指揮官が定期連絡で垂れ流していた暗号文は、あまりにお粗末で解読されやすかったからな。
俺はそれを知っていて、あえて止めなかった。
土煙が充満する。
悲鳴すら上げる暇もなかっただろう。崩れ落ちた巨大な瓦礫の下から、准将の立派な軍服の袖だけが見えていた。
「……ゴホッ、ゴホッ……」
埃を吸い込み、俺は激しく咳き込んだ。
だが、俺とヴァルカが立っていた場所だけは、梁が支えとなり、奇跡的に――否、計算通りに崩落を免れていた。
静寂が戻る。
瓦礫の山となった司令部で、俺は杖をついて立ち上がる。
生き残った通信兵が、腰を抜かして震えていた。
「あ、あ……閣下……?」
「指揮官は戦死した」
俺は冷徹に告げる。そして、泥と埃にまみれた地図を拾い上げた。
「これより、本戦区の指揮権は先任将校である私が引き継ぐ」
通信兵が、縋るような目で俺を見る。
「しょ、少佐……どうすれば……」
俺は懐中時計の蓋を閉じ、ヴァルカを見た。彼女は無傷だ。ただ静かに、俺の次の指示を待っている。
「……掃除の時間だ。死にたくなければ、俺の計算に従え」
俺は泥濘の棺桶の中で、最初の方程式を組み立て始めた。




