第八十二話【恐怖】
――嫌いなやつがいた。
別に、何という理由もなかった。なんだったら、最初は嫌いですらなかった。
“クラス”の中にいるひとりで、席も遠くて、話をすることもない相手。嫌いになんて、なりようがないくらい無関係だった。
だけど……いつか、そいつは嫌いなやつになった。気持ち悪い、意地の悪い、頭の悪い、性格の悪い、相手にするだけ損をする、嫌なやつになった。
そいつの何かが変わったわけじゃない。ただ、そいつと俺との関係が変わっただけ。
でも、俺のほうから何かを変えたわけじゃない。そいつからも、たぶん何も変えてない。
たまたま同じクラスにいる、無関係の、話をする機会もない、知らないやつ。ただ、それだけ。
俺にはそれだけに思えた。でも……そいつには、それだけには思えなかった……んだろう。
最初に変わったのは……いや、違う。変わったように思えたのは、違和感があったから。
仲のいい友達がいた。小学校のころからの友達がいた。部活が同じ友達がいた。
でも、それがみんな、俺を見て笑ってる……ような気がした。
別に、友達だから、話をしてれば笑顔になるし、笑い合うなんて日常茶飯事だ。
だけど……そういうのじゃなかった。みんなが、俺を見て、くすくすと隠れて笑うようになった。
俺が教室に入るだけで、俺が教科書を出すだけで、俺がカバンを開くだけで、くすくす、くすくすと、笑うようになった。
笑ってる友達のそばには……いつも、知らないやつでしかないハズのそいつがいた。
違和感はすぐ異変に変わって、そうなってから俺は自分の置かれた立場を……そいつが、俺を、どういう立場に置こうとしてるのかを知った。
教科書が、カバンが、荷物が、靴が、服が、行ったこともない場所に“置いてある”ことが増えた。
それをしてるやつが誰かは知らないけど、それを面白がってるやつが誰かは明白だった。
明白だった……けど、それを明かす相手はどこにもいなかった。
なんか気持ち悪いな。って、そう思ってたころからさして経たないうちに、状況は定められていた。
俺は……どういうふうに扱ってもいいやつとして、友達だったやつらの暇つぶしの道具になっていた。
別に、楽しくもないだろうに。ただ、靴を捨ててきて、それを仲間内で笑いあってるだけ。
面白くもないことで面白いと思って貰うために、ただそれだけのために、俺を使うようになった。
友達だった、小学校からの縁だった、部活でも顔を合わせてたやつらが、そいつを中心に、そういうくだらないことばかりしたんだ。
くだらない。そうだ。本当に、心底、どうしようもなく、くだらない。幼稚過ぎる、あまりにも程度の低い遊び。
だけど……程度の低い幼稚な遊びは、常識とか、超えちゃいけないラインとか、そういうのが存在しない遊びって意味でもあった。
物がなくなるのは当たり前だった。物を壊されるようにもなった。探して見つかる場所になんて捨てられなくなって、女子トイレの便器の中に詰め込まれてたこともあった。
くだらない。本当にくだらない。幼稚過ぎて笑うことも出来ない。腹を立てる気にもならない。
もう、どこにも友達はいなかった。友達だったやつは……友達だと思ってたやつは、俺のことをおもちゃとしてしか見てなかったから。
でも、そんなのは別にどうでもよかった。だって、そんなくだらないことでバカみたいに笑ってるようなやつ、一緒にいるだけでストレスだし。だから、どうでもよかった。
俺は、どうでもよかったんだ。そいつらがどんなでも、どうなろうとも、どうでもよかった。なのに……そいつらは、どうでもいいじゃ気が済まなかったらしい。
相手になんてしてなかった。徹底的に無視したし、いちいち文句を言ったり、騒いだりもせず、どうでもいいこととして受け流した。
だけど、俺のその対応が……反応が、おもちゃとしての動きが、気にくわなかったんだろうな。
最初は殴る真似から始まった。おどかして、それにびっくりする俺を見て笑う遊びだった。
次に、肩や太ももを殴ったり蹴ったりするようになった。それで痛がってる俺を見て、優越感に浸る遊びだったのかな。知らない。そんなバカみたいなこと、考えたこともないから。
そして……顔以外はどこも殴られるようになった。階段の上から蹴落とされそうになったこともあった。
このころになれば、流石に無視してるわけにもいかなくなった。無視しようにも、視界に入ってくるし、無意味に挑発的な喋りかたで絡んでくるから。
だから、ハッキリと、うざいって、キモいって、拒んだ。拒んで……それで、終わるわけないって、わかってたのに。
もう、学校には荷物を持って行かなくなった。持って行くだけ損だから。だから、通学路の途中に隠して、何も持たずに登校するようになった。
それでも、俺の持ち物は隠されたし、壊された。服が、服のボタンが、ベルトが、靴が。俺の身体から剥がれるものは、全部。
殴ったり蹴ったりも当たり前になった。教室ではやってこなかった、やれなかったことも、いつのまにかするようになってた。
いつのまにか……クラスの中にいる数十人全員が、そいつと同じになってた。俺は、数十人の中にたったひとりきりになっていた。
いや……違うんだろうな。数十人が取り合う、たったひとつのおもちゃだったんだ。
授業が終われば、掃除道具入れに押し込まれるのが当たり前だった。トイレに行く時間も奪われた。
給食もまともな状態では食べられなかった。いつだって、俺の机の上には雑巾が飛び込んできた。
もう、どうしようもないと思った。どうしようもなく、倫理観に欠けた、知能の低い猿の群れの中にいるんだと諦めた。
諦めて……誰も、人間の友達なんていないなら、そこにいる価値はないから。俺は、そこへ行くのをやめた。
清々した。たった一日、風邪も引いてないのに休んだだけで、ずいぶんと清々した。
その気分の良さがたまらなくて、だったらずっとこれでいいって思った。
なのに……あいつらは、それを許さなかった。
みんな、学校へ行っている。みんな、勉強をしている。みんな、つらいことがあっても我慢している。
あいつらはいつだって、みんな。って、言葉の前につけないと喋れない、頭の悪いグズだった。
ずっと家にいれば、グズのうちのひとりが、心配しているって顔で、部屋に入り込んできた。
みんな、やっていること。みんな、やって当たり前のこと。みんな、やっているんだから。
みんなと同じようにやっていなかったら、私が恥をかく。それが決まり文句だった。
もうひとりのグズは、夜遅くに帰ってきては、部屋に怒鳴り込んできた。殴ったり蹴ったりはしなかったけど、意味もなくデカい声で、ありがたがって欲しそうな文句を垂れ流した。
みんな、我慢している。つらいのは、みんな、一緒。そういう苦労を乗り越えて、みんな、大人になるんだ。あたかも、自分が立派な存在みたいに、そればっかり繰り返す。
気分が悪かった。いい気分になれるハズの休みが、部屋が、場所が、最悪の動物園に変わった心地だった。
けど……そこでしか俺は生きられない。ご飯も食べられないし、寝るところもここにしかない。
だから……その場所を確保するために、しかたなく、グズの言う通りにした。するしかなかった。
だけど……それで、もう、おしまいだった。
久しぶりに帰ってきたおもちゃを前にしたそいつらは、目を爛々《らんらん》と輝かせて近寄った。
心配してた。もう来ないかと思った。つらいことがあったら相談して。って、そういう言葉を、これっぽっちもおかしいと思わずに突き刺すために。
心配してたんだって言ったやつは、それから半日も経たないうちに俺のことを蹴飛ばした。
相談してって言ったやつは、蹴飛ばされた俺を見て笑ってた。笑って、睨んだとかなんとか、勝手な因縁をつけて殴ってきた。
やっぱり、ここは猿の巣だ。人間の俺がいるべき場所じゃない。たった一日でそれを確かめて、また部屋の中へと戻った。
戻って……そして、また、グズのくだらない妄言を聞かされる時間が来た。
けど、グズでも、頭の悪い敵でも、あんなのでも、親だったんだ。だったら、嫌な理由を、行く価値がないことを、ちゃんと伝えればわかってくれる……って、思った。
夜になって怒鳴り込んできたグズに、俺は全部打ち明けた。ぐちゃぐちゃにされた荷物も全部見せて、身体中の痣も見せて、目の逸らしようもない現実を突きつけて。
そして……グズは、親らしいことをしてやろうって気になったんだろうな。
翌日には二匹のグズが猿の巣に乗り込んで、これはなんだと訴えた。こんなことが起こっているのに、今まで誰も気づかなかったのか……とか、そんなこと言ったのかな。
たぶん、いいことをしたと思ってるんだろう。親だから、子供を守るのは当然だって。グズはグズらしく、まるで誇らしいことをしたみたいに、胸を張ってたことだろう。
そして……グズは家に帰ってきた。帰って……そして、今にも泣きそうな人間の真似をして、ニタニタ笑って繰り返した。
みんな、学校へ行くのが当たり前。もう嫌なものは取り除かれた。だから、私達に恥をかかせないために、立派な大人になるために、そこへ堕ちろ……と。
もう、居場所はなかった。親がここまでしたのだから、子がそれに背くことは許されない。それが、グズの中にある確固たるロジックだった。
もうダメだ。って、諦めた。あれは、人間じゃない。俺が知ってる限り、人間の大人の知能ではない。だから、もうあれと向き合うのは意味がないって。
諦めたら……もう、道はひとつしかなかった。けど……その道の先には、薄汚い猿の巣があるばかりだった。
当然だろう。だって、ただのおもちゃが、親なんて卑怯な道具を持ち出して、反撃をしようとしたんだ。そうしたら当然、猿は激昂するに決まっている。
先生からのありがたい説教を聞かされたんだろうな。ああ、違う。あれもグズか。それでどうにかなると思ってる、どうにかしておいてくれと目を背けてる、どうしようもないグズ。
グズに指揮された猿は凶暴さを増して、なわばりに迷い込んだ人間を壊すことにだけ執着していた。
もう、そこに理性で通じ合える相手は存在しなかった。
学校だった場所は、凶暴な人食い猿の巣になった。次にここへ立ち入れば、命すら保証されないだろう。
家だった場所は、グズが喚き散らす森になった。猿の巣へ行かなければ、またどれだけでも追い立てられることになる。
俺の居場所は……もう、どこにもなかった。
命からがら猿の巣から逃げだした俺は、その足で、隣の校区の河川敷へと流れ着いた。
別に、そこに何かがあるわけじゃない。ただ、そこは猿の巣窟からは遠いから。とりあえず、心を休めるには遠くへ行く必要があると思っただけ。
だけど……心を休めたら、あって当たり前の現実に目を向けてしまったら……もう、止まらなかった。
川の流れを夕日が照らして、きらきらと赤く輝いて見えた。
それがきれいで、もっといい場所で見たくて、川を渡す橋の上へと向かった。
まっすぐに続く長い川に、深い川に、赤い光がずっと続いている。その光景が、嫌なこと全部忘れさせてくれた。胸の中にあるものを全部洗い流してくれた。
そして……それが最後に見るものだったら、もう悔いはない……って、そう思えた。
そこからの記憶はない。記憶……されるべき場所が、残っていなかったのかもしれない。
気づいたときには、“この世界”にいた。この世界にいて……地獄みたいな光景と、女神様みたいなその人に迎えられていたんだ。
ああ。そうだ。俺は、その不快感を知っている。顔の上を虫が這うような、この不快感を知っているんだ。




