第七十二話【あまりにも弱い】
長い、長い時間の沈黙だった。
マリアノがフィリアを襲って……襲った……ふりをして……? ナイフを首に突きつけて、けれど突き刺さなくて、殺さなくて……それを、俺が守れなくて。
そんな一瞬の出来事から、誰も言葉を発さないまましばらくが経った。すごくすごく長い時間が。
そして……
「……はあ。参ったね、どうにも。こっちの気持ちはとっくに決まってたんだ。今更何がどうなっても……って話だよね」
「うん、わかった。一緒にやろう、フィリアちゃん。いんや、違う。助力をお願いします、フィリア女王陛下」
「――っ! はい、もちろんです」
ずっと冷徹な目をしていたゲロ男が、マリアノをけしかけたそいつが、心の底からの笑顔を……心の……底……からに思える、普通の笑顔を見せて、フィリアに手を差し伸べた。
フィリアはその手をすぐに掴んで、うれしそうに目を細めて笑っていた。こっちは、いつも仕事のとき以外に見る顔だから、本心から喜んでるんだろう。
だけど……俺にはそのどっちもがわからなかった。どっちも……全部、何もかも、わからなくて……
震えが止まらなかった。手が、足が、身体が、凍えてしまったようにしびれて震えて、治まる気配がなかった。
「姉さんもそれでいいよね。恨みも憎しみも忘れたわけじゃないけど、だからってそれに固執して目的を果たせないんじゃ意味がない」
「ここは一時休戦、利用価値があるなら乗っかってみる。こういう言いかたすれば、みんな納得するでしょ」
「……お前がそれでいいなら、オレ達はついてくだけだ。いちいち許可なんて取んな、うっとうしい」
俺が……俺ひとりが、そうだった。
ついさっきまで拒絶の意志を露わにしてたのに、ゲロ男は和解の申し出を受け入れて、フィリアはそれに感謝して。
マリアノはその件について文句も言わず、決定に従うって姿勢を示してて。
ここにいる全員が、今、この場所で交わされた約束を……和解を、いいことだとして受け入れてる。前向きに捉えて、喜び合ってる。なのに……俺だけが……
「……で、だ。おい、ユーゴ。お前、なんて顔してんだよ。お前の力をアテにしてこの話を飲んだんだ。そのお前が、なんだってそんな死にそうな顔してるんだよ」
「……? ユーゴ?」
――っ。また、びりびりと身体がしびれた。身体の……奥底の、内臓とか、そういうのが収まってる腹の中が、全部。
息が苦しくなって、指の感覚があいまいになってきて、そもそも……息のしかたがこれで正しかったのかもわからなくなって、どんどん顔が熱くなって……
「ユーゴ、大丈夫ですかっ。どこか痛みますか? それとも、苦しいのですか? まさか、病に罹ってしまったのでは……」
「あー、違う違う。フィリアちゃん、そうじゃないよ。うーん……そういう微妙にズレたとこ、見てて面白いけどちょっと不安になるな……」
そんな俺を見て、フィリアは不安そうな顔で近寄ってきた。さっきまで喜んでたのに、うれしそうにしてたのに、もうそれどころじゃないって顔で。
俺が……心配させてるのか。心配させたんだ。だって、俺が……守れなかったから。
マリアノに殺されそうになったから……不安で、怖くて、怯えた顔に……なったんじゃ……なくて……
「――ユーゴ。お前、いつまでビビってんだよ。いつまで後悔してんだ、いつまでそうやって塞ぎ込むつもりだ」
「ま、いくら力が強いって言っても子供は子供だ。あんま無茶言うつもりもないけどよ」
「――っ。違――俺は――ビビッてなんか――」
今にもどうにかなりそうなくらい動転したフィリアの肩を叩いて、ゲロ男は……ジャンセンは、俺に向かってそう言った。いつまでビビってるんだ、って。
それを聞いて、聞かされて、思い知らされて、思い出させられて……俺は、まだ吐きかたを思い出してない息を無理矢理吐き出して、その言葉を撤回させた。撤回……させたかった。
「――ビビってんだろ、どう見ても。フィリアちゃんが殺されそうになって――てめえの目の前で大切なものが壊されそうになって、防げるつもりでいたのにそれが間に合わなくて。今にもちびりそうなほどビビってんじゃねえかよ」
「違う――っ! 俺は――俺――っ……」
違わない。コイツの言ってることは、何ひとつとして違わない。
俺は……怖いんだ。フィリアを守れなかったことが……じゃない。フィリアを守れない可能性があることが……でもない。
フィリアを守るハズだった。なのに、守れなかった。守れなかった……のに、フィリアは生きていて、俺よりもずっと強いように見えて……いいや、違う。
俺よりも、フィリアのほうがずっとずっと強いって、思い知らされた。だから……怖いんだ。
俺は……フィリアよりも弱いんだったら、俺は……もう、必要とされないんじゃないか……って。
自覚はより深い恐怖になり、さっきまでよりももっと明確な痛みとして腹の奥をしびれさせる。
もう立ってもいられなくて、痛いのを我慢も出来なくて、腹を抑えてしゃがみ込むしか出来なかった。
そんな俺に、フィリアはまた心配そうな顔を向けて……心配……して……くれてる、大人の顔を……子供の俺に、向けているんだ。
「……私が殺されそうに……ユーゴ、それは違います。貴方の力は本物です。戦う力だけではなく、危険を感じ取る力こそが真に素晴らしいものなのです」
「先ほどマリアノさんが私に剣を向けるのを察知出来なかったのは、その力が本物だから。マリアノさんに殺意がなかったからこそ……」
違う。そうじゃない。マリアノを止められなかったことが悔しいんじゃない。止められなかった場合に起こる結果が怖いわけでもない。
俺は……今、こうして優しくしてくれてるフィリアが、どんくさいやつだと思ってた人が、こんなにも強いところを見せたのが怖いんだ。
アホなのに。のろまなのに。察しが悪くて、危機感も薄くて、サボりたがりなのに。そんなやつなのに、あんなにも恐ろしい出来事に平然と立ち向かってることが……
「……ま、いいけどね。そのほうが俺達としては安心だ。むしろ、それで平気な顔してるほうが気味が悪い」
「あとで裏切るとなったときにも、そういう明確な弱点が残っててくれるほうがありがたいし」
「――ゲロ男――っ。げほっ……お前――」
裏切る。って、その言葉が聞こえたときに、また身体がこわばった。今度は単純に、その出来事が恐ろしかったから。
フィリアが怖い。フィリアがこんなにも強いって知らなかったことが怖い。けど同時に、そのフィリアが殺されてしまうかもしれないことも、すごくすごく怖い。
俺は、この世のあらゆるものよりも強い……ハズだった。なのに……っ。
ヨロクでは魔獣に苦戦して、マリアノの攻撃も察知出来なくて、どんくさいフィリアよりも弱くて、守りたいものを何も守れなくて。
考えれば考えるほど身体の使いかたがわからなくなって、息をするのがどんどん難しくなる。
それでもなんとか前を……ゲロ男のほうを見て、睨みつけて……ううん、違う。怖いから、もう目を離すことも出来なくて。ずっと、その憐れんだ眼差しと向かい合ってた。
「おい、デカ女。今日はもう帰れ。明日また迎えに行く。それでいいだろ、ジャンセン。この調子じゃ仕事の話なんて出来やしねえ」
「うん、そうだね。任せたよ、姉さん。それじゃあね、フィリアちゃん。そいつ――ユーゴ、ちゃんと立ち直らせといてね。明日になってもその調子なら、さっきの約束はなかったことにさせて貰うから」
「いくらなんでも、そいつ抜きのアンスーリァには価値を感じない。またあの生意気なガキんちょに戻しといてね」
でも……その憐みの視線さえも俺に向けなくなって、ゲロ男はふいとそっぽを向いて片手を上げた。いや……手を振った……のか。俺達に向けて。
それからすぐにマリアノが近づいて来て……それで、また身体がこわばって。今度こそ守るんだって、頭ではそう思っても、指一本まともに動かせなくて。
だけど……マリアノは俺とフィリアをまとめて担ぎ上げて、そのまま砦の外へと放り出した。放り出した……だけだった。
殺すことも、殺せるって示すこともせずに、ただ……自分達のアジトから、弱くて役に立たない俺を追い出した……だけだったんだ。
「……歩いて帰れるよな」
そして、マリアノはひとり言みたいにそれだけ残して、すぐに砦の中へと戻ってしまった。
心配してた……わけじゃない。念を押された……のとも違う。ただ、それくらいはやってみせろって、そう言われたような気がした。
それは……最後通告だった……のかな。これ以上はもう、相手してられないって。それくらいも出来ないなら、容赦なく見限るって。そう言われたんだ。
「……ユーゴ、大丈夫ですか。帰りましょう。ここのところずっと苦労をかけてしまっていましたから、疲れが溜まっていたのですね」
「体力はそれなりに回復させてあげられたでしょうが……やはり、心のケアまでは私では出来ていなかったのですね」
ガコン――と、重たい扉が閉められた音がして、それからすぐにフィリアがまた声をかけてくれた。
これっぽっちも恐怖を感じてなさそうな顔で、俺に対する心配と不安だけを抱え込んだ声色で、優しく手を差し伸べながら。
でも……俺はその手を取れなかった。取るべきだと思った。取って、謝って、次は大丈夫だって、示す義務があるとわかってたのに。
「……なんなんだよ……っ。なんで……っ」
なんで……俺は、この世のあらゆるものよりも強い……んじゃなかったのか。
そんな言葉が喉の奥のとこまで出かかって、だけど……それを言う勇気さえ出なくて。
ひとりでゆっくり立ち上がって、まだしびれておぼつかない足で、それでも出来るだけいつもみたいに歩き始める。
大丈夫だって。ちゃんと強いって。フィリアのことを、次こそは……いや。今日、今、この瞬間から先のすべてにおいて、ちゃんと守るって、それを信じて貰うために。
でも……いつもよりもずっと遅く流れる景色を視界に収めながら、来た道をフィリアとふたりで戻った。
俺は……この世のあらゆるものよりも強い……力を貰ったのに、それでも弱いなら。俺は……




