第4話 共鳴の代償
カチ、カチ、カチ……。 暗闇のダクトの先。 鉄格子の中心で青白く明滅する「紋錠」が、冷たい時を刻む音だけが響く。 足首まで浸かった「銀砂」の汚泥が、体温を奪っていく。
「……おい、ユウ。どうなんだ」
僕の後ろから、ダグが焦燥のにじむ声で尋ねた。
「開けられるのか、そいつを」
僕は答えなかった。僕はただ、目の前の紋錠を凝視していた。 ドミトリーの扉にあったものとは、明らかに「流れ」が違う。
ドミトリーの錠は、鋳造所全体の紋機関の「流れ」と連動していた。だから、ボイラー室のメンテナンスという「乱れ」に同期して、解錠することができた。 だが、こいつは違う。
(……流れが、強すぎる)
この紋錠は、外部からの干渉を拒絶するように、それ自体が独立した強固な「循環」を形成していた。ボイラー室の圧力低下ごときでは、リズムは一切乱れていない。 「流れのズレ」を利用する、いつもの手が使えない。
「クソ……ダメか」
レンが鉄格子を掴んで揺さぶるが、びくともしない。
「ここまで来て、終わりかよ……!」
カザンさんが、僕の肩に手を置いた。
「ユウ。お前にしかできねえ。何か、手はねえのか」
その手は、恐怖でわずかに震えていた。 だが、それ以上に、僕を信じようとする「圧」が伝わってきた。
(……方法は、一つだけある)
「ズレ」を利用できないなら。 僕の側が、この錠の「流れ」に、完璧に「同期」する。 僕の呼吸、心拍、意識のすべてを、あの青白い明滅のリズムと完全に一致させる。
それは、流れに逆らって泳ぐのではなく、激流そのものに身を任せ、一体化するような行為だ。 そして、一体化した瞬間に、僕を「錠の一部」だと誤認させ、解錠の指示を送る。
だが、それは。ドミトリーで使った時とは比較にならない、本当の「強同期」。 僕の精神が、この冷たい紋の「流れ」に飲み込まれるかもしれない、危険な賭けだった。
(ギィ、……ギィ、……)
耳の奥で、鉄の車輪の音が鳴り響く。 あの〈運搬車〉の音だ。 出荷される。 あの冷たい荷台に、家畜のように積み込まれる。
(……それだけは、絶対に嫌だ)
僕は、ダクトの壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「……カザンさん」
「お、おう」
「僕が合図をしたら、すぐに鉄格子を開けてください。それと、もし僕がこの後動けなくなったら……引きずってでも、外へ」
「おい、ユウ。お前、何を……」
「いいから、お願いします」
僕は、再び紋錠と向き合った。 深く、息を吸う。 銀砂の腐敗臭が、肺の奥まで染み渡る。
カチ、カチ、カチ……。
錠の明滅リズムに、僕の意識を集中させる。
(……違う。もっと深く)
僕の心臓が、ドクン、と鳴る。 錠の明滅が、カチ、と光る。 まだ、ズレている。
(……合わせろ)
僕は目を閉じた。 僕の聴覚が、暗闇の中で研ぎ澄まされていく。 三人の男たちの、荒い呼吸音。 遠い鋳造所の、紋機関のうなり。 汚泥の中を、何かが這う、小さな音。 それらすべてを「雑音」として意識の外へ追いやり、目の前の紋錠の「音」だけを拾う。
カチ、……カチ、……カチ……。
(……掴んだ)
僕は、自分の心拍のリズムを、その「カチ」という音に重ねていく。 ドクン、……ドクン、……ドクン……。 僕の身体が、僕のものではなくなっていく感覚。 思考が冷えていき、指先から熱が奪われる。
(――今だ)
「――《タクト》ッ!!」
僕は、叫んでいた。 自分の喉から漏れたとは思えない、甲高い声だった。
ドミトリーの時とは比べ物にならない、凄まじい衝撃が頭蓋骨を殴りつけた。 まるで、焼けた鉄の杭を、耳から脳天に向かって打ち込まれたような激痛。 視界が真っ白に弾け飛ぶ。
キィィィィィン―――!!
耳鳴り。 世界から、音が消えた。 カザンさんたちの声も、ダクトの音も聞こえない。 ただ、錆びた鈴の音だけが、頭の中で反響している。 チリン、チリン、チリン――。
「……ユウッ!?」
カザンさんの叫び声で、僕は我に返った。 目の前で、ガコン、と重い金属音がした。 紋錠の青白い光が消え、鉄格子が、わずかに開いていた。
「開いた! 開いたぞ!」
ダグが、こじ開けるように鉄格子を押し開く。
「……っ、ぐ……!」
僕は、その場に崩れ落ちた。 激しい頭痛と吐き気に、胃がひっくり返りそうになる。
(……体が、動かない)
二度目の強同期の代償は、僕の思考と身体を完全に麻痺させていた。
「ユウ! しっかりしろ!」
カザンさんが僕の腕を掴み、肩に担ぎ上げる。
「レン、ダグ! 先に出ろ!」
三人は、雪崩を打つようにして、鉄格子の外へ転がり出た。 そこは、穴蔵の中ではなかった。 ひやり、とした夜気が、肌を撫でる。
「……外、だ」
レンが、呆然と呟いた。
「……本当に、出やがった……」
そこは、僕たちが目指した「第七廃棄溜まり」だった。 鋳造所の高い壁の外側。 月明かりに照らされた、広大な汚泥の池だ。 ダクトから排出された銀砂の廃棄物が、よどんだ水面を鈍く光らせている。 悪臭は、ダクトの中よりもさらに強烈だった。
だが、それ以上に。
「……空気だ」
ダグが、むさぼるように息を吸った。
「外の、空気だ……!」
カザンさんは、僕を担いだまま、慎重に汚泥の池の縁まで移動する。 僕は、彼の肩に担がれながら、必死に意識を保っていた。 頭痛は、まだガンガンと脈打っている。
「……警報は?」
レンが、鋳造所の壁を見上げる。 静かだ。 警報の鐘も、衛兵の叫び声も聞こえない。 僕たちの脱走は、まだ気づかれていない。
「……やった」
カザンさんが、低く笑った。
「やったぞ、ユウ……!」
(……いや)
僕は、かすれる声で呟いた。
「……まだ、です」
「あ?」
「……まだ、終わってない」
僕は、カザンさんの肩から降り、よろめきながら立ち上がった。
「……カザンさん。僕たち、何か匂いませんか」
「匂う? ……銀砂の悪臭のことか?」
「いえ……それとは別に、僕たち自身の『匂い』です」
僕は、自分の作業服の袖を鼻に近づけた。「響き手」の力を使った後、僕の身体からは、微量な「共鳴の残渣」が排出される。 それは、通常の銀砂とは質の違う、特殊な痕跡。 鋳造所の連中……特に、僕を「商品」として管理していた連中は、この痕跡を追跡する術を持っているはずだ。
二度も「強同期」を使った今の僕は、追手にとって、暗闇の中で光る灯台のようなものだ。
「……追ってきます。絶対に」
僕は、廃棄溜まりの先に広がる、暗い森を見据えた。
「ここにいたら、すぐに囲まれる。……森へ、走ります」
「森? あの森を抜けるのか?」
「はい。〈空冠国〉の境界を目指します」
三人の男たちは、一瞬顔を見合わせた。 鋳造所という「牢獄」から出た。だが、目の前には〈乗っ取り領〉の危険な森が広がっている。 それでも、もう戻る場所はなかった。
「……フン。どこまで行っても地獄か」
レンが吐き捨てる。
「だが、あの鉄の箱の中よりはマシだ」
ダグが、拳を握った。
「……よし」
カザンさんが、僕の前に立った。
「ユウ。お前が『流れ』を読めるんだろう。……どっちだ」
「こっちです」
僕は、森の奥深く、月明かりが一番届かない暗い獣道を指差した。
「行きます。僕の呼吸に合わせて。……僕たちが生き残るための、『流れ』を作ります」
頭痛はまだ残っている。 だが、僕たちは走り出した。 背後にある、古い油と錆びた鉄の匂いの「牢獄」から逃れるために。
森に入ってからが本番、次回も走ります。
第5話 盾と響き手 お楽しみに!!




