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第3話 廃棄ダクト

暗闇。 ドミトリーの中は、数十人の男たちの寝息だけが響いている。 だが、僕の耳には、それ以外の無数の「音」が流れ込んでいた。


壁を伝わる紋機関の低いうなり。 遠い詰所から漏れる、衛兵たちの話し声。 通気孔を吹き抜ける、古い油の匂いを乗せた風の音。


僕は毛布の中で、意識を研ぎ澄ます。 カザンさん、ダグ、レン。三人の呼吸も、緊張でわずかに早い。


(……まだだ)


僕は、鋳造所全体の「流れ」が収束する一点を待っていた。 ボイラーの圧力が下がる音。 衛兵の交代の足音。 それらが重なり、互いの「流れ」を打ち消し合う、ほんの数秒の間隙。


(……ギィ、……)


不意に、耳の奥であの幻聴が軋んだ。〈運搬車キャリッジ〉の音。首筋に、冷たい金属の感触が蘇る。 僕は息を詰め、その感覚を意識の底に押し込めた。今は、集中するんだ。


――来た。


遠くのボイラー室で、「ゴウ」という重い駆動音が一段階下がり、代わりに「シュー」という高い排気音が混じり始めた。 定期メンテナンスの開始だ。 ほぼ同時に、詰所から交代の衛兵が出てくる足音が響く。


「……今です」


僕は毛布から静かに這い出し、三人に合図を送る。 四人は音を立てず、ドミトリーの鉄扉の前に集まった。


鉄扉には、中央に「紋錠」が埋め込まれている。 青白い紋の光が、一定のリズムで明滅していた。正規の管理者以外が触れれば、即座に警報が鳴る。


僕は紋錠の前に立ち、手のひらをかざした。触れはしない。


(……流れが、乱れてる)


ボイラーの圧力低下に反応し、錠を循環する紋のリズムが、コンマ数秒、乱れている。 この「ズレ」だ。


僕は自分の呼吸を、その「ズレ」に重ねた。 僕の心臓の音を、錠の明滅と「同期」させる。


ドクン。 ドクン。


「――《タクト》」


僕の喉から、かろうじて聞き取れるほどの小さな声が漏れた。瞬間、頭の芯を細い針で刺されたような、鋭い痛みが走った。 視界が白く点滅し、耳鳴りが響く。


カチリ。


紋錠の青白い光が、一瞬だけ緑色に変わり、小さな解錠音を立てた。


「……開いた」


レンが息を飲む。


「行きます。呼吸を合わせて」


僕は痛むこめかみを押さえながら、扉をゆっくりと押し開けた。 廊下は薄暗い。衛兵の姿はない。交代の「間隙」だ。


「ダグさん、前。カザンさん、後ろ。レンさん、僕の横」

「おい、小僧。先導はお前じゃ」

「僕が中央で、四人の『歩幅』を整えます。この廊下は、足音が一番響く」


僕は再び、意識を集中させた。 ダグの重い足取り。レンの性急な歩幅。カザンさんの、わずかに引きずるような癖。 それらすべての「ズレ」を、僕の呼吸を基準にして「同期」させていく。


四人分の足音が、まるで一人の人間が歩いているかのように、暗い廊下に吸い込まれていった。


ボイラー室の扉は、施錠されていなかった。メンテナンス中は作業員が出入りするためだ。 中へ滑り込むと、そこは地獄のような熱気と、機械油の匂いで満ちていた。 「シュー……」という蒸気の音が、先ほどより大きく聞こえる。 幸い、作業員たちは巨大なボイラー本体の向こう側で作業をしているらしく、こちら側には誰もいない。


「どこだ、ユウ。ダクトの入り口は」


カザンさんが低い声で尋ねる。


「……あそこです」


僕は、部屋の隅にある床を指差した。 そこには、他の床材とは色の違う、分厚い鉄格子がはめ込まれていた。


「紋機関の冷却水と、銀砂の廃棄ダクトです。メンテナンス中は、水も止まってるはず」


ダグが鉄格子に手をかけ、渾身の力で持ち上げる。 ゴウ、と。 鉄格子の下から、凝縮された「公害」の匂いが吹き上げてきた。 錆びた鉄の匂いではない。 もっと生々しい、金属が腐敗したような、鼻を突く悪臭。 「銀砂」の匂いだ。


「……クソ。こいつはヤベえ」


レンが思わず鼻を覆う。


「急いで。作業員に見つかります」


僕は、ためらわずに暗い穴の中へ足を下ろした。 約束通り、レンが続く。


ダクトの中は、立って歩けるほどの高さはなかった。 腰をかがめ、壁を伝って進むしかない。 床は、ぬるりとした感触がした。 「銀砂」の汚泥だ。


高濃度の銀砂は、肌に触れるだけで奇病を引き起こすと言われている。 僕たちは、作業服の裾をブーツに詰め込み、できるだけ肌を露出しないようにしていたが、気休めにしかならないだろう。


「ユウ、こっちで合ってるのか」


暗闇の中、先を行くレンの声がくぐもって響く。


「合ってます。空気の『流れ』が、こっちに向かってる」


僕は答えた。 このダクトは、外の廃棄溜まりへ向かって、緩やかに下っている。


(ギィ、……ギィ、……)


まただ。 閉鎖された空間のせいか、幻聴がさっきより大きく響く。 鉄の車輪の音。


(……やめろ)


僕は、転生する前の「知識」を呼び起こす。 パニックは、禁物だ。 閉所。暗闇。悪臭。 これらはすべて、思考を鈍らせるための「罠」だ。


僕は、自分の呼吸を整える。 そして、後ろからついてくるダグとカザンさんの呼吸も感じ取る。 二人とも、恐怖と悪臭で呼吸が乱れている。


「二人とも、呼吸を深く。浅くすると、銀砂の『毒気』にやられます」


僕の声は、自分でも驚くほど冷静に響いた。


「……おう」


カザンさんの応答が、頼もしく返ってきた。


どれくらい進んだだろうか。 五分か、十分か。 時間の感覚が麻痺していく。 汚泥は、次第に深くなり、足首まで浸かるようになっていた。


「……待て」


先頭のレンが、不意に立ち止まった。


「どうしました」

「……行き止まりだ。鉄格子がある」


最悪の想定だった。 廃棄ダクトの出口もまた、厳重に施錠されていたのだ。


「衛兵でもいるのか」


とダグがうなる。


「いや……音はしない。だが、分厚い鉄格子だ。ダグの力でも破れそうにない」


カザンさんが、懐から取り出した発火具(※火打ち石のようなもの)をわずかに灯した。 ぼんやりとした光が、行く手を阻む頑丈な鉄格子を照らし出す。 そして、その中央には。


「……また、アレかよ」


カザンさんが吐き捨てた。 鉄格子には、ドミトリーの扉にあったものと同じ、青白く明滅する「紋錠」が取り付けられていた。


しかも、ドミトリーのものより数段複雑な、強力な紋錠だった。 ボイラー室のメンテナンスによる「流れの乱れ」も、ここまで届いているかは分からない。


「……ユウ」


レンが、暗闇の中で僕を振り返った。


「お前の『アレ』で、開けられるか」


僕は、ズキズキと痛む頭を押さえながら、目の前の紋錠を見据えた。これが、二回目の「強同期」。 色々試して分かったことは、僕は1日3回しか使えない。失敗すれば、僕たちはこの銀砂の汚泥の中で、警報を聞くことになる。


「……やってみます」


僕は、鉄格子の前に進み出た。

ここまで来たら、もう戻れません。

第4話 共鳴の代償 お楽しみに〜

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