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第2話 流れのズレ

カザンさんの、乾いた炭に火が熾るような目。 その光は、一瞬の驚愕のあと、すぐに深い疑念に変わった。


「……今夜、だと? 正気か、ユウ」


カザンさんは、周囲を警戒しながら、声を極限まで潜めた。食堂にはまだ、夕食を終えた労働者たちがまばらに残っている。


「衛兵どもがどれだけいると思ってる。第一、この鉄の箱からどうやって出る。壁でも殴り破るってのか」

「殴りません。破りません」


僕は、自分の空になったスープ皿を見つめたまま、短く答えた。


「僕たちはずっと、この鋳造所の『流れ』の中で生かされてきました」

「流れ、だと?」

「はい。作業の工程、食事の時間、衛兵の巡回。すべて、紋機関のボイラーのリズムを基準に管理されています。……でも、その流れには『ズレ』がある」


僕はスプーンの先で、テーブルの木目に残った水滴をなぞった。


「その『ズレ』が一番大きくなるのが、今夜です。ボイラーの定期メンテナンスと、衛兵の交代時間が重なる、たった数分の間隙」


カザンさんは黙って僕の言葉を聞いていた。 彼は、この鋳造所では古株だ。三番炉の責任者であり、荒くれ者の労働者たちを腕力と経験でまとめてきた。だが、彼もまた「出荷」の恐怖からは逃れられない。


「……ユウ。お前の言う『響き手』とかいう力は、よく分からん」


と、カザンさんが唸った。


「だが、さっき衛兵を黙らせた。お前には、俺たちに見えねえモンが見えてるってことか」

「見えている、というより……聞こえています」


僕は自分の耳を指差した。


「呼吸。歩幅。心拍。機械の駆動音。その全部が、わずかにズレてる。僕は、そのズレを『整える』のが得意なんです」


「でも」


と僕は続けた。


「整えるんじゃなく、その『ズレ』を逆に利用します」


カザンさんはゴクリと唾を飲んだ。


「……計画を話せ。誰が、何をする」

「まず、人手が必要です。カザンさんが信頼できる人を、あと二人。口が堅く、肝が据わっている人」

「二人……分かった。三番炉のダグと、レンだ。あいつらも、いつ『出荷』されるかビクビクしてた」

「その二人と、僕とカザンさん。計四人です」

「四人だけか」

「多いと『流れ』が乱れて、衛兵に気づかれます。四人が、僕の《タクト》で同期できる限界です」


食堂の古い時計が、消灯前の予告鐘を鳴らした。 僕たちは食器を返却口に戻し、労働者用の雑魚寝部屋ドミトリーへと向かう。


ドミトリーは、鉄と石でできた巨大な空洞だ。 硬い寝床が何十と並び、古い油と汗の匂いが染みついている。 ここにも窓はない。通気孔から、錆びた鉄の匂いが混じった夜気が流れ込んでくるだけだ。


カザンさんが、ダグとレンを寝床の隅に呼び寄せた。 ダグは岩のような大男で、レンは逆に痩せて小柄だが、目が鋭い男だった。


「……話は聞いた。カザンさんが言うなら、俺は乗る」


ダグが低い声で言った。 レンは何も言わず、ただ僕を値踏みするように見つめていた。


「どうやって逃げるんだ、小僧」


レンが尋ねる。


「衛兵に見つからずに、あの鉄の門をどうやって開ける」

「門は使いません」


僕は、ドミトリーの壁を這う、太い配管を指差した。


「あれを使います。ボイラー室に繋がる、古い蒸気配管です」

「バカ言え」


とダグが即座に否定した。


「あれは高熱の蒸気が通ってる。触った瞬間に丸焼けだ」

「普段は、そうです。でも、今夜は別」


僕は、自分の記憶の中にある「鋳造所の設計図」を反芻した。 いや、設計図なんて見たことはない。 ただ、この場所の「音」と「空気の流れ」が、僕の頭の中に立体的な地図を描き出していた。


「今夜、第二刻(※夜10時頃)に、中央ボイラーの定期メンテナンスがあります。その時、この区画の蒸気は十五分だけ止まる」

「なんでそんなこと知ってる」

「ボイラー室の作業員たちの『呼吸』が、いつもと違うからです。メンテナンス前は、みんな手順を思い出して、呼吸が浅く、早くなる。……さっきの夕食の時、ボイラー室の連中がそうでした」


レンが「フン」と鼻を鳴らした。


「それが本当だとして、ボイラー室に入ってどうする。あそこは衛兵詰所に一番近い」 「ボイラー室の『床下』を通ります」


僕は続けた。


「あそこには、紋機関の冷却水と、燃えカスの『銀砂』を流すための古い廃棄ダクトがある。それは、壁の外……森の中にある『第七廃棄溜まり』に繋がってる」


第七鋳造所は、〈乗っ取り領〉の中でも特に高濃度の銀砂を扱う。 だから、廃棄ダクトも厳重に管理されているはずだ。


「……廃棄ダクト、か」


カザンさんが、苦い顔をした。


「あそこは、高濃度の銀砂が流れ込む場所だ。生きて外に出られたとして、奇病で死ぬかもしれねえぞ」

「このまま『出荷』されるのと、どっちがマシですか」


僕の静かな問いに、三人は押し黙った。


チリン、チリン。


遠くで、衛兵の巡回する鈴の音が聞こえる。 あの、錆びた鉄の音。僕は、あの音が近づいてくるたびに蘇る、首筋の冷たい感触を振り払った。


「……計画はこうです」


僕は、床の埃の上に、小枝で簡単な見取り図を描いた。


「第一刻半(※夜9時半)。消灯の時間です。衛兵がドミトリーを見回りに来る。僕たちは寝たフリをします」

「ああ」

「第一刻四十五分。衛兵が詰所に戻り、ボイラー室の作業員が準備に入る。この時、巡回衛兵と作業員の『流れ』が一瞬だけ交錯して、監視が一番手薄になる」

「……」

「僕が、ドミトリーの扉の『紋錠』を解除します」

「は!? 紋錠だぞ!?」


ダグが驚きの声を上げた。


紋錠は、紋の力で施錠される特殊な錠前だ。物理的に壊すのは不可能に近い。


「紋錠は、いつも決まった『リズム』で紋の力を循環させています。でも、ボイラー室の圧力が変動する瞬間、そのリズムが一瞬だけ『乱れる』」


僕は自分の胸を叩いた。


「その乱れに、僕の《タクト》を『同期』させる。そうすれば、錠は僕たちを『正規の管理者』だと誤認して、数秒だけ開くはずです」


これは、賭けだった。この脱走計画で、僕は最低でも二回、「強同期」を使わなければならない。 一回目は、このドミトリーの扉。 二回目は、廃棄ダクトの出口にあるだろう、格子戸。 使えば、激しい頭痛と耳鳴りがする。でも、構わない。


「……信じられねえが、お前がさっき衛兵を黙らせたのを信じるしかねえ」


カザンさんが決断した。


「扉が開いたら?」

「ボイラー室へ。そこから床下のダクトに降ります。ダクトは狭い。レンが先導、僕が二番目、ダグ、カザンさんの順で」

「ダクトの中は?」

「分かりません。銀砂の汚泥が溜まっているかもしれない。でも、進むしかない」

「出口は?」

「第七廃棄溜まりです。そこは森に面している。そこまで行けば、あとは森を抜けて……〈空冠国〉の境界を目指します」


「……待て」


それまで黙っていたレンが、鋭い目で僕を射抜いた。


「小僧。お前、なんでそんなに必死なんだ。お前は『響き手』の雛だ。俺たち『消耗品』とは違う。ここにいれば、いつかは高値で売られて、もっとマシな場所に行けたかもしれねえだろ」


その言葉に、僕はゆっくりと首を振った。


「マシな場所、なんてありません」


(僕は、転生する前の「知識」で知っている)。こういう場所で「商品」として管理される人間の末路を。 それは、家畜以下の扱いだ。尊厳も、未来も、すべて搾り取られる。


(ギィ、……ギィ、……) また、あの幻聴がする。 僕をここへ運んできた、〈運搬車キャリッジ〉の音。 あの音は、「出荷」の先にある絶望の音だ。


「僕は、家畜として売られるのは嫌です」


僕は、三人の目をまっすぐに見返した。


「それに……カザンさんには、借りがある」

「借り?」

「さっき、衛兵の前で僕の『保証』に乗ってくれた。あの時、カザンさんが僕を突き放していたら、僕は今頃、独房に入れられていた」


「だから、これは僕の『返済』です。……行きますよね?」


カザンさんは、僕の目を見たまま動かなかったが、やがてニヤリと口の端を吊り上げた。


「……借りの返済、ね。いいだろう。そのデカい借金、きっちり受け取ってやる」


ダグが拳を握りしめ、レンが短く息を吐いた。 三人の男たちの呼吸が、ほんのわずかに「整った」のを、僕は感じ取った。


カチャリ、と遠くで金属音がした。 ドミトリーの明かりが、一斉に消える。 消灯時間だ。


「……来たな」


カザンさんの低い声が、暗闇に響いた。 僕たちはそれぞれの寝床に戻り、固い毛布を被る。


チリン、チリン。


衛兵が、ドミトリーの扉を開け、中を見回りに来た。 錆びた鈴の音と、古い油の匂い。 僕は目を閉じ、呼吸を殺す。


(……大丈夫)


僕は、自分の心臓の音に意識を集中させた。 ドクン、ドクン。 この音を、衛兵の歩幅と「ズラす」。 衛兵は、僕の寝床の前を通り過ぎていく。彼は、僕が深い眠りに落ちていると認識したはずだ。


衛兵が去り、再び扉が閉まる。 あと、三十分。


僕の耳は、鋳造所全体の「音」を拾っていた。 遠いボイラーの駆動音。 蒸気の漏れる音。 そして、衛兵たちの、わずかに緩み始めた足音。


すべてが、「その時」に向かって収束していく。 僕は暗闇の中で、静かに目を開けた。


次回、真夜中の脱走開始。

第3話 廃棄ダクト お楽しみに!

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