全間違えヒューマン
うわあ、目が二つある人間たちから見られると効果二倍の圧力だ。ここから金玉の数を割り出すには女子の人数を二倍にした結果を引けばよい。
そうだ、百雲のヤツがまた読もうとしなかった。百雲は黒板の前で口をもぐもぐとさせ、隣に立っているあたしを見ようともせずに、手前の教卓に置かれたプリントをさっと滑らせてこちらに渡した。ちくしょう、文化祭でやれる出し物やルールを述べるだけの、簡単な説明じゃないか。
だが、百雲は読まないし書かない。その理由も説明しない。
積極的に行動しない人間はあらゆる責任を他者に押しつけている。顔がよいから目の保養になると微笑んでいた人間たちも今や百雲を前にすると百雲ライク、要するに押し黙ってしまう。
なんとこの人間、クラスメイトの名前すらろくに覚えていない。
「山下さん」
そのくせ、あたしの名前だけは正しく呼ぶ。
放課後、文化祭実行委員会の非・和やかな会合も終わり、ぞろぞろと出口に向かう人々に無心でついてゆき、廊下に出た瞬間に、背後から百雲が話しかけてきた。なぜか出口を塞ぐように立ち止まった百雲のせいで渋滞が発生、部屋にまだ残っていた会合の参加者が立ち往生し、面々から怒号が飛ぶ。
「百雲てめえ!」
「いや、山下様が百雲の前にいるぞ」
「山下様てめえ!」
あたしのせいみたいになっている。
ぼんやりと突っ立っている百雲を引っ張って廊下の端まで連れ出すと、堰を切ったように部屋から人々が流れだした。彼らはあたしたちの様子を横目や白目で窺いながらも昇降口だかどこだかへ。
「へへ、なんか騒がしかったね、山下さん」
百雲はふわふわと立っていた。歩いていても立っていても、不安定な雲の上にいるようだ。さっきは椅子に座っていても揺れていた。原理は不明。
「なに、あんたが勝手にじゃんけんに立候補したのに全負けしてクラスの出し物が第四希望になった話?」
「ごめんな」
「クラスのみんなの前で謝りなさいよ」
深い沈黙。いやだわあ、あたしから謝らせようとしてないか。
閑散とした廊下で、百雲のぼそぼそが響いた。
「ごめんな」
「理由を説明しなさいよ」
掠れるような声で「間違えるのがこわくて」と百雲は言った。あたしが視線で続きを促せば「知らない字を読めなかったら……はずかしいから!」と百雲は非の打ち所がない真面目な顔つきで主張した。謝罪の話はどこへ行った。
「知らない字があったらその場で聞けばいいでしょ。なんで最初の一文字も読まないのよ」
「みんなの前で聞いたら、読めないってバレるから」
なるほど、彼には悪しきクラスメイトたちから音読を笑われた過去があって読み間違いを恐れているのか。探りを入れてみると、百雲は「ううん」と幼げに否定した。
「ラジオとかで、お便りや提供読みがたどたどしいやつを聴くと、こいつ頭悪いなあって萎えるじゃん」
こいつが悪の立場だった。
「だから一文字も読まない。そしたら間違えなくて済むから」
「あんたさあ、間違えるから反省して覚えるんでしょ。間違いを避けていたら永久に間違うことになるわよ」
「問題に解答しないとばつになるけど、あくまでそれは無解答で、誤答ではないから」
「わからなかったから無解答だったと思うだけ」
「山下さんだって理由を聞くまでわからないことを知らなかったじゃん」
ぐう。
「次からは全部バレバレ。あたしに真相を話したのがすべての間違いだったのよ」
犯人のミスを指摘する探偵のように指を突きつけると、百雲は背筋を伸ばした。しかも胸を張っている。あまり胸板の厚いほうではない。
「山下さんにだけは知ってもらいたかったから」
どういう意味だ。考えているうちに百雲は小さな穴から空気が抜けてゆくみたいに縮んでゆき、いつものふわふわのへなへなに戻った。観察しているうちに合点がゆき、あたしは百雲をにらみつける。
「ははあん、あたしに教えても秘密をバラす相手がいないと思っているわけね。舐めんじゃないわよ」
「ち、ちが……」
「あたしの名前だけ呼ぶのも、あたしの名前が簡単だからでしょっ」
もぐもぐ百雲を放って、速やかに帰宅することにした。校門を出たばかりのあたしの耳元に通信用のノイズが走る。学校銘板の存在に居心地の悪さを感じながらも校門に寄りかかる。
『調査は順調かね』
「はい、統計は実態を正確にとらえていないように思われます。何も言わない、やりたくないふりをする、やらないふりをすることで、自らの無能が露呈する機会を回避する人間が少なくないようです」
『では、われわれが人間を支配下に置き、彼らの指導者となるのは正しいことだろうね』
「ええ。彼らも喜んで受け入れるでしょう。間違うことを恥ずかしいと思うだけの知性はあるようですから」
『そうか。だが、われわれのあいだでモグヤマのカプがキテてな』
「かぷ?」
詳細を聞く前に『だからもう少し様子を見たまえ』の早口で通信が切れ、そのかわりにドタドタと走ってくる音が近づいてきた。見なくてもわかる見事な鈍足だ。早く帰ろう。歩き出したあたしを必死に呼び止める声に、しぶしぶ振り向く。
「なに、百雲」
「お、おれ、間違えるのがこわくて……」
「言い訳はさっき聞いたわよ」
「あ、あのー、山下さんってそのー、もしかして……」
よぎる、最悪の続き。もしかして、敵性宇宙人なのか。そんなまさか。百雲はラジオ聴取によって研ぎ澄ませた聴覚で先ほどの通信を盗み聞きしたのか。聞かれていたとして百雲に少ない材料でその結論を導き出せるだけの頭があるか。ない。それに――。
「も、もしかしておれのこと、待っててくれた?」
「まあね」
それに敵性宇宙人でもない。おろかでのろまで頭の弱いこの星の民を救う、善なる知的生命体だ。