1.「どっちかというと飛び降りるの俺じゃね(笑)」
眼下に広がる岩礁と白波。
夏の日差しを反射して、水しぶきがキラキラと踊っている。
ーーここから飛び降りたら、溺れて死ぬのかな?それとも、あのごつごつした岩場に身体を打ちつけて死ぬのかな。
追い詰められた2時間ドラマの犯人くらいしか立ち入らないくらいの崖の先の方で立ちすくむ男・海原 大は、シャツの袖で額の汗を拭いながらそんなことを考えていた。
後者は痛そうだ。でもまぁ、溺れるのも苦しいことに違いはないし、うまく頭などをぶつけてさっさと意識を失った状態で溺れるのがベストだな。
「随分運任せだな」
独り言ちて、笑う。なんだか情けない。これまでの人生、上手くいったことがいくつあっただろうか?片手で数えるくらいしかないだろう。
だからきっと、死に際すら上手くはいかないだろうという確信めいた予感があって、大はこんな崖上でくすくすと一人笑うのだった。
だって、なんとはなしに選んだ今日が快晴で、それこそドラマのワンシーンみたいな突き抜けた青空にくっきりした入道雲が浮かび、きらきらしい海が広がる美しい夏の景色の中、俺だけがみっともないのだ。太陽の熱に炙られて、シャツには汗のシミがまだらに浮かび上がっているし、海からの照り返しで目も痛い。飛び降りるためにここへ来たはずなのに、結局足元に気をつけて、そろそろと海を覗くことくらいしかできない、汗だくの、ちゃちな俺。
「ゲェーッ、先客?」
突然、背後から下品な声が聞こえて飛び上がるほど驚いた。
「びっ……くりした!落ちたら危ないだろ!」
落ちそうなくらいの崖の先に自ら立っていたことを、見事に脇に差し置いてそう叫ぶ。声の主を非難するために後ろを振り向いて、もう一度驚いた。見知った顔だったからだ。
「あれ?先生じゃん。死のうとしてた感じ?」
おおよそ場に似つかわしくない軽さで話しかけてくる少年は、大の見知った顔の中でも、とりわけ一番会いたくない顔だった。
先ほどの、死に際すらうまくいかないという予感が当たったことがちょっと面白いのが半分と、無駄に寂寥感に浸っていないでさっさと岩礁に頭を強く打ち付けておくべきだったという後悔が半分。言葉にならない感情に支配され、無言でいる大に、少年が言葉を続ける。
「ていうか、どっちかというと、飛び降りるの先生に振られたおれの方じゃね?まァでも、ここでバッタリ出会ったのも運命?ってやつ?一緒に海の藻屑になって、来世も同じ時代に生まれ変わるのもアリかも、先生となら」
少年がにこにこと笑うたび、八重歯がちらちら光るのを大はどこかぼんやりと眺めていた。
様子のおかしなことをペラペラと流暢に話し、その端正な顔立ちに人懐っこい笑顔で周りを魅了する少年。
「……お前、変わんねえなあ」
感心すらする心地で、そう呟けば、一瞬きょとんとしてからアハハと声をあげて笑う少年。そうそう、笑顔だけはかわいいんだコイツは。性根がおかしなだけで。
「先生もおれが好きな先生のまま、変わんないねぇ」
実に嬉しそうに微笑むその顔に、ハァとため息をつく。俺の今までの人生のうまくいかなさの全てはこの少年のせいで、それは今日という日にも同様に適用されるらしかった。
「俺は帰る。お前も帰るぞ」
「ええ?一緒に死ぬの、ナシ?じゃあおれ一人で飛び降りるか〜」
ニヤニヤと笑いながら、少年はまるで青信号を渡るみたいにすたすた歩く。先程まで恐る恐る歩いていた俺を馬鹿にするみたいに、崖の先へ、すたすたと。
「こら」
「……ふふ。なぁーに」
つい、幼い子を叱る口調になってしまう。それを察してか、少年は実に嬉しそうに応える。苦虫を噛み潰しながら、それでも俺は続ける。
「……とにかく、帰るぞ」
言いたいことも、言うべきことも、たくさんあった。
死ぬな、なんて正論とか、目の前で死なれると寝覚め悪い、なんて建前とか、説教も説得もなんなら背中を押す言葉も、同時に頭の中に溢れていた。それでも、口から出たのはそれだけだった。
今はもう、この子の教師ではないという自制心が、口を重くした。
「先生がそう言うなら」
またも軽い足取りで、踊るようにくるりと半回転して、海から遠ざかる。
「せーんせ、行くよ?」
音符が付いていそうな楽しげな口調でこちらに呼びかける少年。
もう一度、深く息を吐いた。時間が動き出すみたいに、全身の毛穴から汗がどっと吹き出した。ザパン、と嘲笑うような波音を背に、俺は少年の後ろを追うように歩き始めるのだった。
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