彼の話す浄土
「久しぶりだな」
「ああ久しきや」
日露戦争で戦死してきた彼が負傷兵として帰ってきた。そして、待ち合わせ、今バーで再会を果たした。彼が陣中にいたときも文通してきたが、直接会うのは、ざっと数か月ぶりである。
「調子はどうかな。」
「まあまあかな。」
久しぶりなので少しおどおどした感じで話が進んでいく。
だが、彼の服装に、これといった不審な点はなく、それなりに安定した生活を送れているようで安心した。
「どこを撃たれたんだ?お前が戦死したって聞いたときは、それは涙したものだったがな。お前はほんとにお前なんだな?」
話題も尽きかけていたので、一つこんな話題を出してみた。
「愚問だよ、第一、顔を変える方法なんてないし、別に自分は幽霊でもなんでもないぞ。正真正銘の自分だからね。」
少しむっつりとした感じで言った。
「いや済まない。どうであれ、戦死したと思っていたが、何より戻ってきたことはうれしいよ。ところで傷は・・・。」
「ここだよ。流れ弾かなんかだと思うよ。」
彼が洋風のバーに似合わない、寒色系の着物の胸の部分を少しだけはだけると、ミミズ腫れしたような、円形の傷が姿を現した。
「・・・。」
僕はしばし絶句した後、
「お前、即死だったろ・・・。その傷の位置からして、ふつう生きてるなんてことは・・・。」
彼の傷はまさにちょうど肺のある位置であった。胸の端やど真ん中であれば、幸い即死は免れるが、僕のような素人でもわかるほど、そのことは明確だった。
彼は、僕の反応を面白そうに見て、微笑を浮かべながら
「何があったのか知りたいかい?」
と聞いてきた。
「もちろん、自分が戦死しても生き返る方法を教えてくれるならね。」
とやや皮肉やジョークを言うような、挑発的な口調で返すと、変わらぬ笑顔で、
「じゃあ行くよ。」
といい、ことの仔細を語り始めた。
そもそも、補足として言っておくと彼は本来戦争に行くはずはなかったのだ。彼の宗教上の理由で戦争を絶対悪としてとらえていた。(実際には自分の死を極端に恐れていたことが最も大きな理由らしいが。ともかく彼は自分の命、宗門、家族を何よりも大事にしていた。)
そして、彼は長男なので徴兵の対象にはならない。
だが彼の「死」をはやめたのは、彼の国家主義かつ愛国主義者である父親であった。彼に対して
「志願兵として戦地へ赴け」
と言ったのだ。そして、家族思いの息子に向かい、
「戦地へ行って國のために貢献することが、何よりの孝行だ」
とも言ったのだ。彼は板挟み状態になった。だが彼の愚かだった点はあろうことか、彼の信じている宗門に決断をゆだねてしまったのだ。そこの坊主の話はこうである。
「進めば極楽浄土、引かば無間地獄(加賀一向一揆の旗印で、一揆軍の合言葉のようなもの)と申すではないか。今回の戦争は国の存続をかけた戦いだ。加賀の時のように、大義はこちらにある。ここでいかぬは、地獄に落ちようぞ。」
ちなみにいうと、その坊主も愛国主義者であったようだ。
(後日、彼の、信者を多く戦争に送り込んだことで表彰を受けていた時の恍惚とした表情を覚えている。)
あの坊主は実は、相応の報いを受けるべき悪党であったことは、彼からいきさつを聞いて、尾行、張り込み、潜入捜査を依頼した過程で露呈した。
しかもその宗門は、学校で習う有名なものや、伝統のある、ちゃんとした教理のある宗門とは違って、他の教理を剽窃してつなぎ合わせた、仏教の二番煎じのようなものであった。
そして、国と癒着して、金をもらっていたと聞く。そうして彼は戦争に行くことになった。そして、動員されて一週間ごに、旅順の戦いで戦死したのだ。
彼は、ワイングラスを持ち上げて、ぐるぐる回して一口飲み、いざ語らんとし、やや武者震いしていた。この様子を見る手前、あまりいいことを味わってはいないのだろう。
「僕は流れ弾を胸に受けて、倒れた。そしたら、僕は意識を失って、気付けば一尺先も見得ない闇の中にいたんだよ。地面は河原のような丸石ばかりだけど川は見当たらなかった。
ただ、近くに寂しげな木の看板が立っていてね、そこに極楽浄土と書いてあったのさ。」
「だいぶ話が違うよな。僕らが想像している内容と」
「そこでようやく、宗教の「洗脳」から解放されたのさ。
『どの宗門が言ってることも間違っている。信者集めのために甘い言葉を吐いているんだ。』
とね。」
「ショックだったろ?」
「ああもちろんだとも。親に裏切られたようなもんだ。かたく信じていたものを失うということは。」
僕の鈍い脳でも、彼が気丈にふるまって、故郷に帰ってくるために、何とか精神をコントロールしていることには気づいていた。武者震いは何とか抑えたが、その揺れは彼の足に転移し、表情の起伏があまりにもなくなっていたのだから。
なにせ、戦地で凄惨な殺し合いを見てからのあれである。正気を保てと言われても難しいのは容易に想像できる。
ぼくはこの暗い話題を何とか断とうと、そして、いち早く終わらせようと、
「もういい、やめるんだ。」
といった。一刻も早く切らなければ、彼がどうなるか、わかったものではない。冷や汗をかきながら、彼の反応を待っていると、
「いや、話させてほしい。そうした方が楽になれるんだ。話を聞いてもらった方が・・・。」
と一呼吸、彼はおいた後答えた。
僕はこの話題を振ったことをひどく後悔した。あそこで、何かしらの理由をつけて帰ればよかったのだ。彼に思い出させてはいけなかった。まるで、存在すら忘れかけていた苦手なものを再び食べさせるように仕向けたときのような罪悪感がした。
「結局、数日そこに留まっていたけど、結局、孤独に耐えかねて僕は逃げ出したよ。後ろを見ても、当然誰も追いかけてはこなかったけど、この現実から逃げ出したかった。
心の底から、助けを求めて叫んだよ。もちろん助けなんて来やしない。だけどね、運は自分を味方してくれたんだ。」
その時の緊迫感を思い出したのか、彼は少し胸に手を当てて、深呼吸した。少し汗が額ににじむ。「水を飲め」と勧めると、その水を一気飲みして続けた。
「走った先にね、神社があったのさ。まあ小さなお社という方が妥当かもしれないけど。そこで僕は祈ったんだ。
『どうか、我をこの最悪の世界からお救いください』
ってね。そしたら
〈我を生涯信仰するのであれば生き返らせてやろう〉
という声がしたんだ。僕は反射で、「はい」と答えてしまったよ。」
「結局お前はここにいるな。」
「僕の遺体は完全かつ、きれいに残っていたから、負傷兵として運び込まれていたんだ。まあ旅順要塞の攻略には、時間がかかっていたからけが人の回収があまりうまくいってなかったことも、けが人が多すぎて、死んでるか死んでないか(気絶や意識不明)は、だいぶ後からの判定になっていたことも奏功してね。
もう少し神社の発見が遅かったら、危うく火葬されてたかもしてないけど。だけどそっちの方がよかったかもしれないな。」
ここだけは、唯一彼が落ち着いて語った部分だった。だが、やはり物悲しい笑みは治らないまま、彼は再びいう。目から光がなくなっていた。
人の感情はおおよそ目で読み取ることが可能だが、読む気力もうせてしまい彼とは目を合わせないようにした
「人ってのは、永久に宗教とはおさらばできないらしいね。よくわかったよ。結局僕も、生涯邪教から離れられないのさ。この腕を見ろよ。」
彼はぼくから見て左側に座っていたため、いままで左腕が体の陰にあって、見えていなかった。力なく差し出された彼の手首には、黒い字で書かれた呪文が腕輪のように刻印されていた。
「悪魔との契約だよ。目が覚めたらあったんだ。どうやら、あれは神社を装っていたようだけど、悪魔のポータルみたいなものだったようなんだ。浄土と魔界をひそかにつなぐね。この世にも、あの世にも邪教ばかりだよ、まったく。なあ、面白いことだろう?」
もはや彼の微笑に、笑顔のニュアンスは何一つない。もはや諦めさえも感じて、感傷に浸っている。そして彼の左目に何かが輝いた。二人の無言な時間がただすぎていった。