Master_and_Slave.log
「これは……何の騒ぎだ?」
現場に辿り着いた俺の前には、薄汚れたボロ布を巻き付けただけの怪我だらけの少女と、それに向かって棒を振り下ろす太っていて頭の寂しい中年の男性、それを遠巻きに囲む野次馬達だった。
「ああ、アンタは見ない顔だね。最近来たのかい?」
野次馬のうちの一人が話しかけて来た。頭に頭巾を纏って、小脇にツボを抱えた中年女性だ。これから水を汲みに行きますとでも言いたそうな格好で、この騒動を見ていたようだ。
「そうだな、今日来たばかりでね。これは?」
「ああ、オルバさんの悪い癖さ。奴隷の扱いがいつも酷いんだけど、今日は輪をかけて酷くてね。さっき奴隷の子が転んで荷物をひっくり返してから、棒でぶつわぶつわ……もう可哀想になってねぇ」
あの少女を滅多打ちにしている男がオルバだろうか。今も罵声と暴力を浴びせ、それでもなお怒りが治らない様子だ。
それよりも、奴隷か。奴隷と言えばA世界でも用いられた身分だ。扱いが酷く、基本的な人権すら認められない。有色人種だから、被差別民だから、人手が足りないからと人としての尊厳を貶め続けた負の歴史。
機械が作業の殆どを肩代わりする現代日本でも、奴隷制度は続いている……社畜や外国人労働者を見る度に、俺はそう思う。いや、それはいいとして。
「この街では、奴隷にああいう扱いをするのが普通なのか?」
「そんな訳あるかい! 奴隷だからってあんなに叩く奴なんていないよ!」
「そりゃすまない、てっきりアレが標準的な扱いなのかと」
「確かに奴隷は身分を制限されてるし、所有物として扱われるけどね。奴隷だってあたし達と同じ人間だろう? あんな酷い事、さすがに出来やしないさ」
俺と中年女性と話している間に、野次馬がかなり少なくなっていた。付き合い切れないと判断したんだろうか。
俺はつい、しっかりと見てしまった。薄くなった人垣の隙間から、奴隷の少女を。
年の頃は中学生くらいだろうか。亜麻色の短い髪はオルバに引き回されたせいかボサボサで所々抜けている。顔は酷く腫れていて素の顔が判別出来ず、体はあちこちが痣だらけだ。
「……亜璃亜……?」
そんな彼女を見たせいか、目の前が真っ白になり……俺の生きてきた中で最悪の記憶がフラッシュバックした。
—◇—◇—◇—◇—◇—◇—◇—◇—
「……その……気を強く持って下さい」
霊安室までついて来てくれた警察官が、俺に声を掛けた。
家族全員が乗った車が、崖から転落して死亡した。身元の確認の為、俺はテレビでしか聞いた事がないような地方の警察に呼び出された。
横たわる三体の遺体。一週間前、元気に出発したのが嘘のようにしんと静まり返っている。
顔を覆う布を取り外す。父さんだった。こっちは母さんだ。妹に間違いない。だが、それ以上何も出てこない。思い出したら俺の心がダメになってしまいそうだった。
俺は膝から崩れ落ち、立てなくなってしまった。しょうがない、俺はまだ高校生だったのだから。体も心もまだまだ未熟だ。しかし、本当にショックだと言葉も、涙も出ないのか。初めて知った。知りたくなんて無かったが。
突如として失った語彙で、何とか警察官に尋ねようとした。何を? 俺も覚えていない。
「……どうして……どうして……?」
「今、警察が全力で捜査しています。こんな言葉で慰められるとは思いませんが、どうか……どうか気を確かに」
その時の俺は、どうかしていた。
みんな実は俺を騙す為にわざと死んだフリをしているんだろう? 実は全部特殊メイクで、警察官も仕込みなんだろう?
そんな事を思いながら、三人の体を確認した。確認してしまった。
父さんの体はあちこち骨折した骨が突き出ていた。母さんは首が千切れていた。妹の……亜璃亜の遺体は傷や痣にまみれていて、とてもじゃないがまともな精神で見れたモンじゃなかった。
せっかく警察が見えないようにと隠しておいてくれたのに、俺は若さ故の浅はかさから、わざわざ自らを狂気の淵へと追いやったのだ。
そこから先は、よく覚えていない。俺は半日ほど、半狂乱で泣き、叫び、暴れ続けたそうだ。警察官が必死で抱き留めて、正気に戻るよう説得し続けてくれていたんだとか。
今思えば、なんとも恥ずかしい話だ。だが、俺はこの光景を忘れはしないだろう。
大勢を陥れて、殺して、復讐を果たした今でも。
……そして、俺が死ぬその瞬間まで、ずっと。
—◇—◇—◇—◇—◇—◇—◇—◇—
『……、……ター、マスター。大丈夫ですか?』
不意に聞こえた少女の声に、俺の意識は引き起こされた。シアだ。
ただでさえ通りの良い声が、頭に直接響いて来るのだ。これほど最良の目覚ましもないだろう。
先程までのフラッシュバックはさっぱり消えている。だが消えない物もある。それは亜璃亜の姿を思い出させるくらいに傷付いた奴隷の少女への憐憫と、その少女を今もまだいたぶり続けるオルバへの怒りだ。
腹の底に溜まるヘドロのようなむかつきと、身体中の関節が脱力してしまいそうな憎悪を必死で押さえ込み、それでもオルバを睨みつけたまま、シアに尋ねた。
(シア、答えろ。奴隷の判別方法は?)
『奴隷の証である紋章を肌に刻み込む決まりになっています。奴隷紋のない奴隷の所持は重罪です。背中や首に刻印する事が多いですが、彼女の場合は腹部です』
(紋章?)
『はい。魔力によって描かれており、一般的な手段では消せません。ディスペルへの抵抗も高く設定されています』
(魔力って事はWCEでアクセス可能か?)
『可能です。しかし、人の権限を縛る刻印です。強制的に消去すると何らかのプロテクトが働く事も予想出来ます。奴隷紋を掌握する為の解析には時間がかかりますが……』
(いや、いい。とりあえずいつでもアクセス出来るように準備だけはしておいてくれ)
俺は怒りを自覚している。だが、それを直接的な暴力に結びつける事は、あまりしない。俺の仕事は産業スパイ、そしてハッカーだ。
ただ殺すのは簡単だ。ヤクザやマフィアでも出来る。だがそれではもったいない。俺達には俺達のやり方があり、奪い方があるのだ。
その為には、修羅場を切り抜ける度胸と適切な情報がいる。前者は売りに出すほどあるが、後者は早急に必要だ。
俺は先程まで話していた女性に、もう一度声を掛けた。
「ちょっと聞きたいんだが、いいか?」
「何だい? あたしゃアレ見てて気分が悪くなって来たんだけど」
女性はげんなりとした顔で騒動を見守っていた。何だかんだで残っているのは彼女が善人だからか、はたまた井戸端会議のネタの為か……それはどうでもいいのだが。
「他人の所有する奴隷への暴行と、奴隷ではない人間への暴行。罪が大きいのはどっちだ?」
「そりゃあアンタ、奴隷じゃない奴を殴る方だろ。他人の奴隷を殴るのは当事者同士の問題だけど、奴隷じゃない一般人を殴るのは衛兵が出てくるから……って、アンタ、一体何を……?」
「分かった、ありがとう」
俺は人垣を抜けて、オルバと少女に近づいた。まだ二人はこちらに気がついていない。オルバは怒鳴る事に、少女は耐え忍ぶ事に必死だ。
(シア、俺の声にアンプを噛ませる魔法は無いか?)
『声量の増幅ですか? 可能です。詠唱しますか?』
(直ちに、5秒間だけ頼む)
俺は大きく息を吸い、怒鳴り散らした。
「衛兵! 衛兵は居ないか! 暴行事件だ! こっちに来い!」
街中に俺の声が響いた。どこまで届いたと言うのか、山彦まで返ってきた。遠くの人達は何事かと辺りを見回している。
オルバは俺の大声に驚いて腰を抜かし、少女はきょとんとしている。野次馬は皆、蜘蛛の子を散らしたように一目散に逃げていく。
オルバは人差し指を俺に突きつけ誰何した。
「な……何なんだお前は!」
「往来で女をぶち回すのがそんなに楽しいのか? 随分と良い趣味だな」
「……ハッ、お前も奴隷だって人間だとか抜かす偽善者か! 俺の奴隷を好きにして何が悪いんだ! 法律上何の問題も無ぇんだよ!」
「法律上、はな。それを見せられる俺の苦痛はどうしてくれるんだ? この国は公共の福祉ってモンが無いくらいに遅れた三流国家なのか?」
「何だ、貴様は旅人か? よそ者風情が偉そうに! 俺を誰だか知らないらしいな! 俺が出る所に出ればお前如きいつでも追い出せるんだぞ!」
オルバは唾を飛ばしながら俺に食ってかかる。腰を抜かしたままなのに、よくぞ大きな態度が取れるモンだ。
衛兵がすっ飛んで来たが……俺はその顔に見覚えがあった。
「門番?」
「ああ、アンタ……イザークさんか。何だ、やってきていきなり面倒事か?」
「当たらずと言えども遠からずってね。アンタはどうした、門番はクビか?」
「んなわけ無いだろ、今日はもう上がりだよ。詰所に帰る時にやたらデカい声が聞こえたからな……で、どうした?」
門番の男が辺りを見回し、オルバと少女を見遣る。肩を竦めてため息を吐く様からは「またか」と言う声が聞こえて来そうだ。
門番は未だに腰を抜かしたままのオルバの前で中腰になり、諭すように声をかけた。
「あーもう、オルバさん。いい加減にしてくれませんかね? あっちこっちから苦情が来てるんだ、それを受ける俺らの身にもなってくださいよ」
「衛兵ごときが偉そうに! お前らは俺の言う通りに働いていればいいんだ!」
怒りで耳まで茹でダコのようになっているオルバを尻目に、俺は門番に問いかける。
「なあ、奴隷ってどこで見分けるんだ?」
「何だお前、奴隷見たことないのか? 奴隷紋を見りゃ一発だろ。コイツのどこにあるかは知らんが、大抵は首回りか背中だな」
「なるほどな。俺はさっきからずっと見てたんだが……その方法だとこの奴隷、見分けが付かないじゃないか。他にないのか?」
俺はコートのポケットの中でSIを操作した。WCEから既に提示された項目にタッチするだけで、仕込みは終わりだ。
「……? おい、それってどういう……いや、まさか……ちょっと失礼、お嬢さん」
「おい、俺の奴隷に勝手に触れるな! お前の上司に抗議文を出すぞ!」
オルバの静止も構う事無く、門番が少女の体をくまなく調査する。肩や首、手足を確認し、ボロ布をたくし上げて隅々まで見た。一通り調べ終わった門番は、少女に深く頭を下げた。
「年頃のお嬢さんに軽々しくやっていい検査ではありませんでしたな。女性にご協力頂くべきでした。奴隷だと思っておりましたので、手荒な真似をしてしまいました。平にご容赦を」
「……え?」
少女は自分の腹部を見ては、何が起こったのか分からなさそうな表情をしていた。当然だ。この世界で俺が何をしたのか理解出来る人間は居ない。
俺はWCEを使って奴隷紋を構築する魔力を掌握し、奴隷の所有者情報を書き換え、正規の命令として奴隷から解放させた。
ディスペルやWCEからの強制解放は、奴隷紋自体のフェイルセーフ機構や潜在的な防御機構でこちらに都合の悪い反応が起こる可能性がある。
だが、消去が難しければ、上書きすればいい。ハッキングする場合、まず管理権限を乗っ取るのは常套手段だ。結果を見れば、俺の目論見は上手く行った。
今思えば、所有権を切り替えなければならないシチュエーションなんてごまんとある。すんなり行ってびっくりしたが、そこは奴隷紋を用意する施術者が見越した上で緩くしているのだろう。
少女に頭を下げていた門番がゆらりと立ち上がり、今度はオルバの方に向き直った。その表情は先程まで浮かべていた余裕のある表情ではなく、犯罪者と対峙する警官のような厳しい物だった。
「さて、と……おい、オルバ」
「な、何だ貴様、その口の利き方は! 俺は東街区の議員だぞ!」
「知るかバカが! 議員だからってやりたい放題で街のモンに迷惑かけて、挙句に一般人を奴隷扱いして乱暴狼藉だァ? それが奴隷堕ち確定の重罪だって知らねえお前じゃ無ェだろうが!」
門番の男が暗い色の水晶板を取り出した。俺がこの街に入る時SIをかざした板によく似ている。
「一般人だと? そんな訳がない! アレは俺が奴隷商から買ってきた奴隷だ!」
「じゃあ何で奴隷紋が無いんだ?」
「それは……そいつだ! そこの男がやったんだ! 俺に突っかかって来た、その男が!」
オルバが俺を指差して怒鳴り散らすが、門番は鼻で笑った。
「理由は? 証拠は? どうやってやった?」
「ぐ……それを調べるのがお前の仕事だろうが!」
「知ったこっちゃないな。あの兄さんを調べるより、お前を調べた方がいろいろ出て来そうだしな。さあ、言い訳は牢屋でしっかり聞こうか!」
おっとり刀で駆けつけた数名の兵士がオルバの身柄を拘束し、連行する。その間にも門番は水晶板を操作していた。
一体何をしているのかと不思議に思っていたら、シアが教えてくれた。
『戸籍システムに罪状を書き込むデバイスのようですね。魔力路が見えますので、通信中でしょう。データの送信先への追跡が可能です』
(そうか……書き込まれる罪状を増やせないか? 証拠が無ければ裁かれないだろうが、とにかくオルバへの心象を出来るだけ悪くしておきたい)
『可能です。傷害、婦女暴行、建造物侵入、殺人、放火、窃盗、詐欺、誘拐、違法薬物の使用・販売、贈収賄、反社会的勢力への利益供与あたりを追加しておきます』
(あの門番より先回りして書き込んでやってくれ。良い奴だから迷惑をかけたくない。書き込みの前後で疑われるのはマズい)
『はい。衛兵・アントニオ氏の端末からのアップロード・キューを最後に回し、端末番号を偽装したSIからのアップロードを緊急送信として割り込ませました』
(そういやアイツ、アントニオって名前だったな……宿屋の受付の坊主が言ってたな)
犯罪の立証とは、すなわち技術だ。痕跡や証拠を洗い出し、ロジカルに犯罪を立証するには高度な捜査能力と科学的技術が必要だ。
それが無かった時代には、A世界でも手を熱湯に浸して犯罪者かどうかを判別したり、疑わしきを魔女として断罪していた。論理的でない立証とはつまり、技術の敗北に他ならない。
この世界の技術水準が盟神探湯や魔女裁判時代の遅れた物であれば、俺にとっては都合がいい。数え役満のように積み上がった冤罪がオルバの首を狩るだろう。
警察……いや、この文化レベルなら衛兵、憲兵か? 捜査組織がまともな技術力を有しているのなら、少なくともオルバは死にはしないだろう。
しかし身分や名声は剥奪される。一度地に落ちた悪評は更なる悪評を呼ぶ事になる。
俺としては、どちらでも良い。SIの仕業を暴き出す技術が無いのは既に分かっている。
奴隷ではなくなったこの少女を保護し、回復させ、社会復帰させる時間稼ぎが出来るなら、オルバの処遇は埒外だ。
「あー、イザークさんとお嬢さんもちょっと来てくれるか? 事情聴取をしないといかんからな」
「それは構わないが……あの子はこれからどうなる?」
「非合法な奴隷だと、身分証が無い場合が多いな。出生地が分かれば取り寄せる事も可能だろうが、相当時間がかかるだろう。孤児院に入れるにも子供って年に見えないし、正直困ってる」
「その……俺が引き取っても構わないだろうか?」
俺の提案を聞いて、アントニオが目を見開いた。信じられない物を見るような目だ。
俺には見覚えがある。高校生の頃、親戚からの庇護を全て断って独り立ちすると宣言した時に投げかけられた視線……あれとほぼ、同じだ。信用されていない目だ。
アントニオは俺の目を見つめたまま、諭すように言葉を紡ぐ。
「……これは想像の話だ。あの娘は生まれ付き何かしらの障害を抱えてる。立ち方や歩き方もおかしかったが、多分目も相当悪い。正規の奴隷として売るのも難しかったから、こんな非合法な奴隷に身を窶していたんだろう」
「……ああ、分かる」
「彼女はまともな仕事には就かせられないだろう。引き取るって事はお前さんが養わないといけない。魔導師ならそこそこの稼ぎがあるかも知れんが、篤志家みたいにわざわざお荷物を背負い込む必要は無いんだぞ?」
「それも分かる、それでも引き取りたいんだ」
俺は真剣にアントニオを見つめ、静かに答えた。しばし見つめ合い、根負けしたアントニオが深くため息を吐いた。ガシガシと強く頭を掻きながら、彼はぽつりと尋ねる。
「……理由、一応聞いてもいいか?」
「昔、妹が死んだ。山道を馬車で転げ落ちてな。その時見た遺体がちょうど……あの子みたいな感じでな。つい思い出しちまった」
「……一つだけ言うぞ。お前さんの妹さんとあの子は別だ。そこだけは履き違えるなよ。……ったく、しょうがねえなぁ……聴取が終わったら身元引受人の話だけはしといてやる。身の振り方を決めるのはあの子の権利であり、義務だからな。嫌がるようなら、この話は無しだ。いいな?」
「ああ、ありがとう。感謝するよ」
「おいおい、感謝して話を終わりにすんのは早いぞ。お前さんにも事情聴取はあるんだからな」
俺達が話し込んでいるうちに、少女は兵士の一人が連れて行ったようだ。残るは俺とアントニオだけだ。
俺はアントニオに先導されるまま、兵士の詰所へと向かった。外壁沿いに進んだ先にある、街が一望出来る小高い丘の上の建物だ。
粛々と事情聴取が始まったが、俺の場合、ただ居合わせた野次馬に毛が生えたような物なので、実際の聴取には1時間もかかっていなかったと思う。
ただ、当事者である少女は違う。何だかんだで聴取が伸びているようで、なかなか出てこない。段々と日が落ち、街灯がぽつぽつと点き始めた。
俺は詰所の近くから離れないように心がけて、連絡を待ち続けるのだった。