Scientia_Infinium_Assistant.log
そう言えば俺達の住んでいた世界の名前を知らないな、と今更ながらに気がついた。
現代? それは暫定的な今現在の時代の名前だ。
天の川銀河? それは世界が内包する宇宙の位置だ。
宇宙? こちらに宇宙があればどちらの宇宙か分からない。
ならば世界? じゃあこの世界は世界じゃないのか?
唯一無二の世界、だから名前が無い。ならば世界が複数ある今、俺が元いた世界を、そしてこの世界をどう呼べばいいんだろう。
世界の名前、それは多分、誰も知らない。
ここは肉体構築時の多言語習得モジュールに倣うとしよう。俺がいた世界はA世界、そしてここはB世界だ。情緒もへったくれもないが、しょうがない。
「……B世界の地理とか分からないんだが」
今居る場所がどこか分からない。近場の町が分からない。大きな道が何処だか分からない。方角も分からない。しかも今は夜、星明かりと二つの月しか光源が無い。
変に動くと遭難待った無しだ。いや、むしろ俺は今、一歩も歩く事無く遭難していると言っていい。何せ帰り道も目的地も分からないのだから。
今でこそ雪は降っていないが、この寒さだ。日本で言えば晩秋、初冬ちょっと前の気温だ。せめて風を避けられる建物が欲しい。
こうなってくると厚着を用意してくれたDemiurge.sysには感謝しかない。
「暖の取れそうな……いや、せめて壁と屋根のある建物とか……」
崩れた石柱のうち登りやすそうな一本を選び、上へ上へと登る。天辺まで登って、限られた自然光を頼りに辺りを見回す。遺跡の隅に山肌が露出している部分があり、洞穴のように横穴がくり抜かれている。建物ではない。ないのだが……
「……行ってみるか、もしかしたら何かあるかも知れない」
人が居れば情報収集が出来る。居なくても一夜の宿に出来る。山賊でも少人数なら制圧出来るだろう。
俺はひとまず武器になりそうな木の棒を一本拾い、洞穴へと接近した。
—◇—◇—◇—◇—◇—◇—◇—◇—
洞穴の中は真っ暗闇だった。中で松明等の照明を使っているようには見えない。空気の流れもないように感じる。せめて明かりでもあれば……
「あ、スマホないかな。LEDライトでも無いよりはマシだろ」
ズボンのポケットを探ってみると……右後ろのポケットからスマホが出てきた。俺の愛機ではない。あの謎のカプセルで手に入れ、俺の肉体を構築したと言い張る謎スマホだ。
「……このスマホもよく分からないんだよなあ」
カメラのレンズもLEDライトも無い。何ならイヤホンジャックや充電用のUSBジャックも見当たらない。まさかの無接点充電器専用か?
電源やボリュームボタンも無く、操作関連のボタンも無い。突起物がまったくないつるっとした板にしか見えず、スマホと言うには操作性が垣間見えなさすぎる逸品だ。
「どうやって使うんだ、このスマホ……」
画面をぺちぺち叩いてみたり振ったりしてみても反応が無い。洞窟の探索も出来ず頼みの綱であるスマホも動かずで八方塞がりの状態になってしまった。
どうしたものかと悩んでいると、途端にスマホの画面が付いたと同時に、音声が流れ始めた。鈴を転がすような可愛らしい少女の声だ。
「システムの起動が完了しました。はじめまして、マスター。私は当機、スキエンティア・インフィニアムのアシスタントキャラクター、名称は指定されていません。マスター登録を行いますか?」
「あー……いや、どうしようかな……こんないつ襲われるか分からんところでスマホの設定なんてやってられないしなぁ……」
人の気配はしないが、野生動物が近場にいる可能性は否定出来ない。動物にとっても冬前の食料確保で忙しい時期だ。人間も獲って食うかもしれない。せめて安全な場所でなら……と思いひとりごちていたが、スマホが予想外の反応をよこしてきた。
「現在地の安全性の確保でしょうか? 魔力分布による周囲の検索結果から、周囲半径500メートル以内に敵性生物や人間の存在は確認出来ません。前方の洞窟に光源は無いようです。視覚を暗視モードに切り替えますか?」
「ああ、出来るモンならやってくれ。カメラが無いスマホに出来るとは思えないがな……ってお前、俺の言ってる事が分かるのか?」
普通、こう言ったアシスタント機能はサーバに接続した状態で使用出来る。こんな山奥の電波の届かない……と言うより、ネットワークがあるかどうかも怪しい世界でホイホイと使える物じゃない。
スタンドアロンで使える、しかも高性能な受け答えが出来るAIが搭載されているアシスタント機能なんて聞いたことが無い。
「はい。マスターのおっしゃる事は理解出来ています。私はネットワークに依存せず、単独で思考・会話を行う事が出来るアシスタントキャラクターです」
「こりゃたまげたな……アトロポスはこんな物まで作ってんのか」
さすが人類を救うプロジェクトだ。手始めにスマホユーザーの悩みを救ってくれるとは痒い所に手が届くと言う物だ。
「マスターと世間話をするのは魅力的ですが、早急に安全性の高い場所を確保の後、マスター登録をお願いします。視覚情報に暗視のマスクを掛けます」
言うが早いか、俺の視覚が急に緑を主体とした映像へと切り替わる。月明かりですら眩しいくらいだ。洞窟の内部はかなり先まで見通せるようになった。当然、暗視ゴーグルを自主的にかぶった訳でも無い。いきなり視界が変わった事に若干の戸惑いを覚えた。
「……え、これは何だ? あれ?」
「マスターの視覚に《暗視》を適用しました。少量の光源でも視界を確保出来るようにしました。更に暗い場所では魔力を用いたソナーを視覚的に表示します」
「ま……魔力? 超音波ではなく?」
「超音波ソナーも可能ですが、魔力ソナーの方がより鮮明に見えます」
もはや付いていけない。視界に直接暗視ゴーグルをかけるのも非常識だが魔力ソナーとか言われても困る。許容範囲を超えている。
スマホからの声を半ば無視するように、俺は洞窟へと足を踏み入れた。
—◇—◇—◇—◇—◇—◇—◇—◇—
暗視モードは100mも進まないうちに使い物にならなくなった。入ってすぐに曲がり角があり、その先は漆黒の闇が広がっていたからだ。
スマホから電子音が聞こえたかと思うと、またもや視界が切り替わる。緑色と黒の世界が青一色になり、今まで朧げだった輪郭がくっきりと見える。
岩肌や地面の凹凸、洞窟の先までもこれでもかと確認出来る。こうやって歩く分には全く差し支えが無い。
色が分からないだけで、視界の明瞭さは暗視モードの比ではない。……これが魔力ソナーか。
「本当に凄いな」
『魔力を放ち、その反射を映像にエンコードして視覚に送り込んでいます。魔力に反応する生物や魔道具がある場合は侵入を感知されますが、今のところ安全が確認出来ていますので……』
「なるほどな……って、今度は頭に直接声が聞こえてる!? どういう仕組みだ!?」
骨振動ヘッドホンを物凄く鮮明にしたような声が耳の奥に響いてくる。外音を阻害せず、それでいてイヤホン並の明瞭さ。これで他の人が聞こえないようであれば、今すぐにでもA世界で取り入れて発売すべきだ。電車の中でのトラブルが激減する事間違い無しだ。
『今は未登録なので正規の方法ではありませんが、マスターの五感を乗っ取っている状態です。今視覚にマスクをかけているのと同様に、聴覚に直接働きかけています』
「そ、そうか……」
『マスターの心身にかなりの負荷がかかりますので、あまり長時間は出来ません。力技でごまかしているだけですので……』
「マスター登録したら、違う方法になるのか?」
俺は歩みを止めずに、洞窟の奥を目指す。かなり入り組んでいるようだが、分岐は無さそうだ。
『はい。マスター登録が完了すれば、簡単に言うと無線接続のペアリングが済んだ状態になります。タッチパネルを使用せずに操作する事が出来たり、各種情報の表示の切替等も楽に出来ますよ』
「そいつはいい、音楽でも聞く時には便利そうだな……っと」
道の先にはドアが一つ、ここが終点だろうか? この先もまだ道が続いていて、迷宮みたいになっているとかだと困るが。広い空間も困る。
『スキャン完了。この先は小さい部屋です。長い間使われていないようです。生命反応はありません』
「入らなくても分かるなんて、本当に便利だなあ」
ドアを開けて中へ入る。そこは人一人が生活するのにちょうどいい大きさの部屋だった。テーブルに椅子が二つ、ベッドが一つ。飾りの類は一切ないが、天井に何か……大きな何かの結晶が埋まっているのが気にかかる。
『照明の魔道具を確認しました。残存魔力は15%程度、起動が可能です。魔力ソナーを停止し、照明を付けますがよろしいですか?』
「ああ、頼む」
視界の青いが書き消え、暗闇に埋め尽くされた。視覚が制限されると、この部屋のカビや埃の匂いが強く感じられるのが不思議だ。
そして数秒後、部屋が光で満たされた。暗闇に慣れた目にはキツい。眩しさに一瞬目を閉じてしまった。
ゆっくり目を開けると、魔力ソナーと遜色ない風景が広がっていた。いや、魔力ソナーが通常の視覚と遜色が無いのだろうが。
視界に色が加わった事で、椅子の腐食がやや進んでいて通常の使用にすら耐えられそうにない事や、ベッドには埃が積もっているもののまだ使えそうな事、テーブルに無造作に置かれていた薄べったい物が硬貨である事が分かった。
俺はベッドの埃を手で払い除け、腰を掛けてからスマホを取り出した。
「よし、これなら大丈夫だろ。マスター登録とやらを済ませようじゃないか」
「かしこまりました。項目の入力と各種認証用情報の収集、及び魔力の同調を行います。5分〜10分程で済みます」
まるで……と言うよりもまさしくスマホの初期設定だ。ユーザーアカウントの登録みたいな物だな。
「僭越ながら申し上げます、マスター。先程からスマホスマホと仰せですが」
「……だってスマホだろ?」
「当機を一般的なスマートフォンと同じ括りにしないようお願い申し上げます」
「……でもスマホだろ?」
「当機はスキエンティア・インフィ二アム。マスターに無限の知識と勝利をもたらす魔導書にして、最良のパートナーとなる超高性能魔道具です」
「……スマホ……」
「当機はスキエンティア・インフィ二アム。マスターに無限の知識と勝利をもたらす魔導書にして、最良のパートナーとなる超高性能魔道具です」
「……」
もしかしてスマホ呼びを辞めるまでこの調子だろうか。どうにも癪だ。
にしても、これまでの反応を見ているだけでもこのアシスタントキャラが感情を持っているように思えてしまう。最新のAIってだけでは説明が付かない部分が多過ぎるだけに、余計にそう感じる。
「当機はスキエンティア・インフィ二アム。マスターに――」
「あーもう分かった! スマホって言わない! せめてその長い名前をどうにかしろ!」
「略称はSIです。当機をお呼びの際は気軽にSIとお呼びください」
「エスアイ……スマホよりも一文字分多いな……どうにも呼びにくい……」
「当機はスキエン……」
「もういい! 分かってる! さっさと登録させろ!」
タッチパネルを操作して、マスター登録とやらを進める……が、気になることがいくつかある。
「これ……正直に書かないとダメか?」
俺は産業スパイだ。アトロポスの中にあるスマホ……SIを勝手に拝借している訳で、馬鹿正直に本名を入れるのはどうにも怖い。
「マスターの状況は理解しております。しかし、マスターとの同期性をより完全な物とする為に、正確な情報の入力をお願いします」
「いや、でもなぁ……アトロポスだってデータ収集はしたいだろ? 俺の居所や行動範囲や個人情報を勝手に抜かれて送られると困るんだが……」
ただの民間警備員が拳銃や自動小銃を持ち出して侵入者を殺す勢いで鉛玉をばら撒く研究団体だ、追手を送り込んで俺を始末する可能性もある。そうなるとこのスマホからアシが付くかも知れない。
……今のうちに遠くに捨てるのもアリか?
「SIの筐体及びソフトウェアの製造は確かにアトロポス日本支部マターですが、部外者が容易に使用出来る状態でヘルメス親機の内部に放置した時点で契約違反です。SIの無断使用に関して言えば、アトロポス日本支部の落ち度です。無断侵入と破壊工作に関してはSIには預かり知らぬファクターです。そしてマスターの情報を事前申告無くアトロポス各支部や関係各所へ送信する事はありません。詳しくは個人情報の取り扱いに係るプライバシー・ポリシーの欄をご確認ください。先に表示しますか?」
「……せっかくだから、頼む」
元々契約書の類はしっかり読むタチだし、どうせ時間は沢山ある。長々と表示されている契約の文章をゆっくりと読んでいく事にした。