Hello_AnotherWorld.log
死にそうになった事は、人間誰しも、生きているうちに何度かあるだろう。しかし、死んだ事のある人間はいない。
瀕死の状態から生還した人も厳密に言えば「限りなく死に近付いたが土壇場で踏みとどまった、ただ死にそうになっただけの人」であり、どこまで行っても実際に100%死んだ訳じゃない。
臨死体験から帰って来た人は、やれ三途の川だの、やれ永遠に続く花畑だのと幻覚じみた世界を見たと語る。だが、それが本当に死んだ人が見る光景とは限らない訳だ。
戻って来なかった人達、死んでしまった人達はどんな景色を見たんだろう。俺が殺してしまった人達はどんな景色を見たんだろうか。
何故そんな事を考えているかと言うと、今俺が見ている景色は死にそうになった奴が見る光景なのか、それとも死んだ奴が見る光景なのかが気になったからだ。
真っ暗な空間の中で緑色の燐光が浮かんでは消え、浮かんでは消え。虹の靄の中には地球の景色が見え隠れ。
泡沫のように明滅を繰り返す光と闇の世界で、唯一安定した光を放っていたのは中空に浮いたスマホの明かりだけだ。
無論、画面が光っているのは俺があのカプセルで拾った奴だ。元々持ってる奴は……手元にない。手元どころか手……いや、自分の体すらないのだ。
頭や目は無いのに、意識だけでスマホの画面を『見る』……深く考えると頭が狂いそうになるので、現在の俺に関する境遇について、今は真剣に勘案しない事にする。
『Cogito_Ergo_Sum.sysを読み込んでいます...ok
人格と記憶の保持に成功しました。
Demiurge.exeを起動しました。
基礎ルールに従って肉体の組成を開始します』
コギトエルゴスム。我思う、故に我あり。全てが偽りだったとしても思考している自分の存在は偽りようのない事実だと言う思想だったはずだ。デカルトだったか?
体が消失した今でも自我を保ったままでいられるのがこのスマホのおかげならば、今の俺は何と危うい存在なんだろうか。
存在に耐えられないほどの身の軽さに恐れを抱いている間にも状況は進んでいく。画面に表示されたプログレスバーが100%へ近づく程、意識だけで希薄だった俺の存在が物質的に肉付けされていく。
頭が生まれ、首が伸び、胸が現れ、胴や腰が出来る。手足が全て生えた頃には、プログレスバーは100%になっていた。
ご丁寧に服まで着させてくれている。長袖のシャツに灰色のとっくりセーター、濃い緑色のミリタリーコート、くすんだ色合いの裏起毛のジーンズ、かなり頑丈そうな褐色のブーツ。耳まですっぽり被れるニット帽までついて来た。……もしかしてこれから行く所は寒いんだろうか。
一応確認してみたが、愛しの我が息子も健在だ。サービスでもう少し大きくしてくれても良かったんだが。
キャラクタークリエイトはさせてくれないのか……いや、それが当然か。これはネットゲームなんかじゃない。れっきとした現実だ。認めたくないのはそうなんだが。
しかしDemiurge……デミウルゴスとは大きく出たモンだ。確かグノーシスの創造神だか何だかだったはずだ。
とは言え、こういった神々を模した名前を付けるセンスは古今東西どこかしらあるものだ。中二病と呼ぶ勿れ。hogehogeやpiyopiyoよりかは洒落ている。
『肉体の組成が完了しました。
人格と記憶のコピーを行います。......ok
Ouroboros.sysの読み込みに成功。魔力付与を実行します。
Loki.sysがシステムの一部に干渉しています。
迂回不可能。新規肉体の魔力回路が変更されました』
ビリッと電気の走る感覚を覚え、痛みに一瞬体を震わせる。震えは止まらず、どんどん強くなっていく。頭と内臓を強制的にシェイクされているような気持ち悪さが俺を追い詰める。
しばらく自分の体を抱きしめて堪えていたが、やがて体が慣れたのか、震えと悪心は治まった。
一体何だったんだ、アレは? 俺はスマホの画面に目を移した。
『Loki.sysによる改竄内容の調査が完了しました。
結果は以下の通りです。
・魔力保有量が増大しました。
・体外の魔力を吸収・貯留出来るようになりました。
・魔力変換効率が100%になりました。
・属性変換の制限が撤廃されました。
許容範囲内です。構築プロセスを継続します』
どうやらこのスマホは、現代人であるこの俺に魔力とやらを与えたらしい。俺はオタク文化にそこまで明るくは無い。こういう魔法がどうのと言うのは俺のハッカー仲間の方が食いつきが良さそうだ。
確かst@rm@nは電子書籍だけで数TBのHDDが埋まるくらいラノベや漫画が好きだったはずだし、gaokingは仕事をしていないのかと疑いたくなるくらいにTRPGとか言うアナログゲームに傾倒していた。himehimeは1日24時間と言う世界の摂理を超えてアニメを見ていた。
人間は1日に56時間分のアニメを視聴出来るようには作られていない。……だよな? そうだよな?
どいつもこいつもハッカーとしての技量は高いが、どこかしら変だ。俺が言えた義理ではないが。
本名も知らないハッカー仲間の事は横に置いておくとして、確かOuroboros……ウロボロスは無限の魔力を司り、Loki……ロキは北欧神話でイタズラが好きな神様だったはずだ。
中二病もここまで来れば大したモンだ。しかしまだ判明しているだけでもプロメテウスとヘルメスが控えている。
ややお腹いっぱい感はあるが、スマホは待ってくれない。次々に表示が切り替わる。
『Prometheus.sysの読み込みが完了しました。
スキルシステムの導入を行います。
最適化を開始します。...............ok
Cogito_Ergo_Sum.sysから読み取った人格・記憶に基き
最適なスキルの取得を行います。
Loki.sysがシステムの一部に干渉しています』
おい待てロキ、お前ちょっとイタズラが過ぎるぞ。またさっきの様な震えと悪心に苛まれるのか?
警戒している俺の体に、今度は熱が灯る。最初は体の一部分がスポット的な熱くなっていたのがどんどん数が増え、面積が広がり、結局は全身が高熱で焼かれていく。
叫び声を上げようとするが、声が出ない。いや、声は出てるのかも知れないが、聞こえない。空気が全く振動していない。
そもそも俺は今、息をしているのか……? などと考えると気付いてはならない事に気付いて正気を失ってしまいそうだ。誰かが言ってたSAN値減少とやらだ。
『スキルの最適化が完了しました。
Loki.sysによる改竄も含めたスキル構成を表示します。
・体術Lv-
・近接武器戦闘Lv-
・全属性魔法Lv-
・空間魔法Lv-
・魔法創造Lv-
・魔獣使役Lv-
・魔力操作Lv-
・魔力感知Lv-
・隠密Lv-
許容範囲内です。構築プロセスを継続します』
スキルの構成は何となく察しがつく。半分スパイみたいな仕事をしてた訳だから、物陰に隠れたり独学のCQCもどきで急場を凌いだりしていた。それは分かる。分かるのだが、スキルレベルが……何だこれ、変数が設定されていないのか?
ハイフンの意味が分からない。レベルが0未満なのか、スキルを所持こそしているが使用出来ないのか、表記出来ないくらい高いのか……?
スキルレベルと魔法関係のスキルは、何となくだがロキの差し金だろうと思う。
先程の魔力付与といい、都合が良過ぎる。人より多い魔力に強力そうな魔法スキル。偶然で片付けるには無理がある。
魔獣使役は……よく分からない。いつの頃からか家を留守にしがちだったので難しかったが、昔から鳥を飼いたかった。セキセイインコだ。青い奴。小学生の頃に友達の家で見て凄く欲しかったのを覚えている。
もしかしたらこれから行く世界で、ペットの枠を超えた相棒を手に入れる事が出来るかもしれない。それなら俺は鳥を選ぶだろう。
魔法の世界の鳥はさぞや美しい事だろう。いっそフェニックスでも飼えたらいいのに……などと考えているうちにも、俺の預かり知らぬ所で勝手に色々な物が詰め込まれていく。
『多言語習得モジュール BABEL.exe へようこそ!
転送先の世界の言語を読み込み中。Gimme a sec!
WorldB.dic ............................I did it!
Grammer.dat ..................gotcha!
新規肉体の第一言語を日本語に指定したよ。
今後向こうの言語は日本語みたいに見聞き出来るようになったよ、やったね!
Cogito_Ergo_Sum.sysを経由して設定中......
Done! そいじゃ異世界転移を楽しんで! ciao!』
……こいつだけノリがおかしい。やけに軽薄だし馴れ馴れしい。しかもファイル名がバベルって世界の言語がバラバラになった逸話のあるバベルの塔か?
今までは全部神様関連だったのに、ここに来て神への反逆をぶっ込んで来るとは思っていなかった。
軽く頭痛を覚えながらスマホの画面を見ていたが、そこから先は文字がとんでもない速さで進んで行ってしまってろくに読めなかった。8MComponent……まさか八百万の神までもおわすのか?
しかし画面の中の文章が流される度に、不安定な俺の体に根拠のない充実感を与えていく。足りないピースをはめ込んでいく感覚だ。
しかしその文字の奔流も数分で終わり、画面が停止した。そこにあったのは数行だけ残された文章と押しボタンの画像だ。
『新規肉体の構築が完了しました。
世界間転移システムHermes.sysの準備が完了しました。
仮装マナエンジンの挙動をシミュレートします。
過去の実測値とシミュレートの誤差は0.08%です。
転送を開始しますか?』
……ここに来て転送しませんと言うのは通らないだろう。俺は意を決して『転送する』ボタンをタップした。
押して直ぐにアクションがあるタイプでは無かった。最初は気付かない程だったが、徐々に周囲が明るくなっていった。
時々見え隠れしていた燐光や虹色の靄が青白い光に飲まれていく。スマホの輪郭が光の中に溶けていく。新しく生まれた俺の体も同じく。
眩さに目を開けていられなくなる。目を閉じても輝きがまぶたを突き抜けるように刺してくる。両手で顔を覆うと、ようやく閃光から目を守る事が出来た。
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……しばらくして、体の感覚が戻ってきた。木々のざわめく音。肌を刺す冷たい風。嗅いだことのない空気の匂い。
両手を顔から外して辺りに視線を移すと、そこはボロボロに朽ち果てた石造りの遺跡だった。古代の神殿だとか、発掘された祭儀場だとか、そんな趣を強く感じる。
存外に建物の風化が激しく、周りに立っている石柱のような物も本当に石柱だったのか、それとも何かしらの石像だったのかの判別も付かない。
天井や屋根は無く、夜の帳に包まれた遠い空には星が瞬き、赤い月と青い月がぼんやりと光を放っている。俺に天文学の知識は無いが、月が分裂したと言う話は聞いた事がない。
暗がりで見えにくいが、遠くに見える山々も見覚えがない。少なくとも、アトロポス日本支部のある県にこんな所はない。
これはもう、認めなくてはならないだろう。俺は――
「日本じゃない所に来てしまったみたいだ」