ぼく の お姉ちゃん どこ?
後味悪めです。
ショッピングモール内にある映画館の前。
千秋は年の離れた弟の修斗に手を焼いていた。
「やだやだ、映画観たい! 映画観なきゃ帰んない!」
「ちょっといい加減にしてよ修斗! 私だって久しぶりに帰ってきてゆっくりしたいんだから!」
千秋は大学進学を期に地元を離れ、一人暮らしをしている。
この日は夏休みで帰省した初日だった。
まだ八歳の修斗は千秋の帰りを心から楽しみにしていたのだが、彼女はすっかり疲れきっていた。
元気の有り余る小学生男子に広いショッピングモール内を連れ回されたのだから仕方ない。
「やだ! だって今観ないとお姉ちゃんすぐ大阪行っちゃうじゃん!」
「だぁーかーらー、まだあと一週間はこっちにいるっての」
生意気さと甘ったれが混ざる弟に、千秋は苛々を募らせていく。
互いの口調はキツいものとなり、あっという間に姉弟喧嘩に発展してしまった。
「もういいよ! そんな事言うお姉ちゃん嫌い! ばーか! デーブ!」
「何その言いぐさ! 折角ショッピングモールまで連れてきてやったってのにさ!」
子供相手に大人げないと理解しつつも感情が抑えきれず、千秋はつい厳しい態度を取ってしまう。
「そんな事言う子はアタシの弟じゃないよ!」
言ってしまってから「しまった」と気付く。
千秋がチラリと視線を向けると、酷くショックを受けた表情を向ける修斗と目が合ってしまった。
罪悪感が彼女の良心をチクチクと刺す。
(……やっば、どうしよ……)
居たたまれなくなり、彼女は逃げるように歩調を速める。
修斗は健気にも後をついてきているのが気配で分かった。
(ここは私が大人にならなきゃだよね……)
ショッピングモールを出る頃には千秋も冷静さを取り戻していた。
二人は無言でバス停に並び、バスを待つ。
姉弟とは言え、気まずい空気を破るのには少しばかり勇気が要る。
「あのさ。修斗……」
その時だ。
けたたましいブレーキ音が耳をつんざき、千秋は強い衝撃を受けた。
何が起きたのか理解する暇も無い。
彼女の意識はここでパタリと途絶えたのだった。
────────────
(あ、れ? ……ここ、どこ?)
最初に目に映ったのは白い天井と細長い蛍光灯だった。
眩しさに目を瞬かせていると、すぐに聞き慣れた声が飛び込んでくる。
「あぁ! 良かった、千秋! 起きたのね!? 大丈夫!?」
「母……さん……?」
体は重く、とても怠い。
違和感に首を傾げていると、左肘に鈍い痛みが走った。
どこかにぶつけたのか……アザが出来ているのかもしれない。
状況を飲み込めていない千秋を置いて、母親は看護師を呼んでいる。
パタパタと近付く足音は看護師の物だろうか。
少し黄ばんだカーテンと腕に繋がる点滴などからも、ここが病院だという事だけは理解する事が出来た。
「アタシ……どうしたの……?」
「あんた事故に巻き込まれたんだよ。覚えてない? トラックが近くに突っ込んできたの。大した怪我がなくて良かったよ、本当……」
「事故? トラック……?」
記憶を辿るも、思い出すのは激しいブレーキ音のみである。
あれが突っ込んできたというのか。
合点がいった千秋は隣にいた修斗の事を思い出し血の気が引く。
隣にも一つベッドがあるが、弟の姿はない。
「か、母さん! 修斗、修斗は!?」
「ちょ、ちょっと千秋、急に起きちゃ駄目よ! 落ち着いて」
無理やり起き上がって掴みかかる千秋を宥め、母親は重い口を開く。
「……あのね。修斗なら、」
バチン、と電気が切れた。
目が慣れず、一瞬視界が完全な闇に覆われる。
「や、やだ何? 停電?」
すぐに完全な暗闇では無いことに気付く。
よく見ると非常灯らしき小さな明かりが心許なく灯っていた。
それと同時に恐ろしい事にも気付いてしまう。
「母、さん……?」
返事はない。
当然だ。
薄暗い病室に、千秋以外誰も居ないのだ。
電気が消える直前まで母親が目の前に居たというのに。
先程まで聞こえていた足音や話し声も聞こえなくなっており、辺りは不自然な程静まり返っている。
「嘘、どうなってんの? だ、誰か、誰か居ないの!?」
ドクドクと心音が大きくなっていくのを自覚する。
千秋は恐る恐るベッドを抜け出し、震える腕で点滴スタンドを掴んだ。
「誰か居ませんかー!?」
薄暗い病室に千秋の声だけが虚しく響く。
スライド扉を開けると広い通路が広がっていた。
どうやら千秋がいた病室は一時的に寝かされていただけの小さな病室だったらしい。
通路の突き当たりに急患用の出入り口が見える。
かなり大きな病院のようだ。
地元の大きな病院は一つしか思い浮かばず、千秋の不安は更に膨れ上がった。
(どうして誰もいない訳? こんなデカイ病院が無人なんて、どう考えてもあり得ないでしょ!)
自分は夢でも見ているのだろうか──
いっそそうであれと千秋は頬を抓る。
「痛いし……」
早く帰りたい。
しかし、母親と修斗の事が気がかりだった。
それにこのまま帰ったら医療費等はどうなるのだろうかと彼女は悩みに悩む。
(仕方ない。受付まで行けば、流石に誰か一人くらいいる……よね……?)
祈る思いで彼女はガラガラと点滴スタンドを右手で押しながら歩き出した。
キャスターの音がやけに大きく響く。
道は全く知らなかったが、至る所にある案内のおかげで簡単に総合受付カウンターに辿り着く事が出来た。
「……誰も居ないし……」
だだっ広いロビーは人っ子一人見当たらない。
呼び出し番号と待ち時間を表示するパネルが強い光を放っているが、番号は何も表示されていない。
「どうしろっつーのさ……」
何となしに玄関口を見やり、彼女は息を飲む。
大きな自動ドア越しに見えた病院の外。
そこはくすんだセピア色のような薄黄色の世界だった。
「やだ、何なのこれ……!?」
道路も空も向かいの建物も、まるで古びた写真のような色合いをしている。
人は居ない。
目の前には大きな道路が通っているのに、車も走っていない。
異様な光景は彼女の「外に出る」という選択肢を簡単に挫く。
「もう、やだぁ…………母さん……修斗ぉ……」
千秋は力無くロビーの長椅子に座り込んでしまった。
どれ位そうしていたか──
耳が痛いほどの静寂は突如として破られた。
「……お姉、ちゃん……?」
背後からかけられる、どこか遠慮がちな声。
千秋は飛び付くように反応した。
「修斗! 良かった、無事だったのね! 怪我は無い!?」
点滴スタンドが倒れそうになるのも気にせず、千秋は勢いよく修斗の両肩を掴む。
しかし彼はいつになく暗い顔で俯いた。
「……お姉ちゃん……」
「何? ここ、気味悪いしさ、早く帰ろ。修斗は何も心配しなくて良いからね」
千秋は再度辺りを見回す。
幼い弟を守らねばという一心で彼女は奮い立っていた。
点滴がされていない左手で修斗と手を繋ぎ、何度も「誰か居ませんかー!」と声を張り上げる。
しかし何も変化は起こらない。
「……お姉ちゃん、もう良いよ」
「は?」
「ここにいようよ」
修斗は繋いだ手を軽く揺らしてボソボソと呟いている。
この状況で何を言っているのか──
カッとなった千秋は再び声を荒らげてしまった。
「ちょっと修斗……! アンタまだ拗ねてんの? 今は我が儘言ってる場合じゃないって分かんないの!?」
千秋の刺々しい言葉にも反応はない。
おや、と思うより早く、修斗は千秋の正面に向き直った。
「修斗修斗って、うるさいよ、お姉ちゃん。ぼくのお姉ちゃんならそんな事言わないで」
突然、ブチッとガーゼごと点滴の針を引き抜かれ、千秋は盛大に顔を顰めた。
「いっ、たぁ!」
思いもよらぬ乱暴な行動にただただ驚く。
咄嗟に押さえた右腕からはプクリと血が浮かび上がっていた。
「ばっっかじゃないの!? アンタ、何考えてんのよ!?」
点滴のチューブがダラリとぶら下がり、血の付いた針が生々しく光っている。
「信っじらんない! やって良い事と悪い事があんでしょ!?」
これだけ怒鳴られても尚、彼は顔色一つ変えない。
流石におかしい。
千秋の怒りはしおしおと縮こまっていく。
(何なのよ……修斗ってば、一体どうしちゃった訳?)
「ね、ねぇ? 修斗……」
「……もう、良いや」
修斗は虚ろな瞳で千秋を見上げた。
子供のする表情とは思えない顔だ。
「お姉ちゃんは、ぼくのお姉ちゃんじゃないんだね。だって、ぼくのお姉ちゃんならそんなひどい事言わないもん」
「な、にを……言ってんの……?」
数歩後退る千秋を追うように修斗も数歩歩み寄る。
コツ、と響く足音は一人分多く聞こえた気がした。
「ぼくのお姉ちゃんじゃないお姉ちゃんは、いらない」
ニタリと歪んだ笑みを浮かべる弟に、千秋はかける言葉が見つからない。
「ちょっと待ってよ、修斗……さっきから何言って、」
「……やっぱり、お姉ちゃんは要らないお姉ちゃん」
「修…………っ!?」
千秋の眼前に迫っていたのは、中心にポッカリと黒い穴の空いた弟らしき少年の顔だった。
全てを飲み込むような黒い穴──
それが目の前に広がっている。
本能が「捕食される」と判断するより早く、彼女は黒い穴にガポリと飲み込まれていった。
「……あーあ。……ぼくのお姉ちゃん、どこにいるんだろう……」
顔の無い少年は誰も居ない病院の中をコツコツと歩き出す。
「お姉ちゃん、早く来てくれないかなぁ」
あどけない声が病院内に反響する。
他には何の音もしない。
「お姉ちゃあぁぁん、どぉこぉぉおぉ? ここ、寂しいよぉぉ~」
少年は誰も居ない広い通路をさ迷いながら、来る筈の姉を待ち続ける。
「ぉお 姉ぇち ゃぁあぁ ぁんん?」
彼が満足する姉が現れるその日まで、彼は姉を待ち続けるのだ。
この「ぼく の お姉ちゃん どこ?」は拙作ホラー連載の最終章で登場した少年の前日譚(?)です。
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こっちの主人公はハッピーエンドです。