月の兎
嘘。
例えば、月には一羽の兎が住んでいます。昔、その兎の瞳は躯と同じように真っ白でした。彼はアルビノだったのです。そのせいで地球を追われた彼は月へと逃げてきたのでした。月は、そんな彼を優しく迎え入れてくれました。初めて静かの海へ降り立ったとき、彼は興奮のあまりこう叫んだのです。
「もう、僕の瞳のことをバカにする奴はいないんだ!」
それから兎は何度も跳びはねました。夜空に向かって何度も、何度も。重力の低い月の大地を力強く蹴るたびに、兎は何て高く跳べるのだろうと思い、それからいつか星にさえ手が届くだろうと思いました。
兎は幸せでした。そして、自由でもありました。何て素晴らしいんだと兎は何度も呟きました。誰も僕の邪魔はしない。僕は何処へだって行けるし何だって出来る。彼はある時はアメリカの国旗を振り回して遊びました。またある時はピラミッドの形をした不思議な山へ登ったりもしました。そうやって月の上を駆け巡りながら、彼はまだ地球にいた頃の自分と今とを比べては、天と地ほども違う自分自身の姿に酔いしれ、自分は何て幸せなんだろうと思うのでした。
確かに兎は幸せでした。けれでも、半年もするとその幸せにも飽きてきました。彼は月のあらゆる場所へ行ったのです。地面に大きく口を開けた、深い深い峡谷の底にも、それから月の裏側にだって。そうして何処へ行ってもあまり景色が変わらないことに気がつきました。彼が眺める景色はすべて、ほんのりと紫がかった月の砂で色づけされていたのです。月の大地にはそれ以外の色は全くありませんでした。彼はひどくつまらない顔をしながらとぼとぼと静かの海へ戻って来たのでした。
それでも兎は幸せでした。彼は今度は月の大地に色々なものを描こうと思いました。月の砂は確かにそういった作業に向いているようでした。始めは小さくモンシロチョウの絵を描きました。そしてその出来栄えに満足しました。特に触覚の曲がり具合が素晴らしいと思いました。まだ彼が地球にいた頃、その真っ白な蝶がひらひらと舞う姿を眺めるのが、彼の一番の楽しみだったのです。
それから沢山のものを描きました。モンシロチョウの次に描いたのは菜の花畑でした。でもこれはあまり気に入りませんでした。左から二番目の菜の花の蕾が、どうも大きすぎるように思えたのです。けれども次に描いた大輪の向日葵はとても気に入りました。そしてその向日葵の隣に一匹の蝶を書き添えました。
そうやって作品が仕上がる毎に一喜一憂しながら、彼はどんどん描きました。花に飽きると今度は動物でした。彼は自分の知っている動物を全て描こうと思いました。そして、実際そうしたのです。キャンバスは無限でした。幾つも幾つも指先で描くうちに彼の絵は段々と大きく、そして大胆になってきました。彼は馬の絵を実際の二倍の大きさで描き、ヒツジの大きさはそれのさらに倍はありました。翼を広げたフクロウは鯨よりも大きかったのです。彼は心の中で密かに、月の表面を自分の絵で埋め尽くそうと思っていたのです。
それは途方もない企みでした。無謀といってもいいぐらいの。それでも、彼は諦めませんでした。呆れるほどに大きく、デッサンが狂うのも構わずにどんどん描いていきました。いつの間にか彼の周りは絵で覆い尽くされ、絵筆である右指は傷だらけになっていました。それでも、彼の手が止まることはありませんでした。やがて、その真っ白な指先がすっかり朱に染まると、彼はその指をぺろりと舐め、それから左指を大地に突き刺しました。
それでも、キャンバスは埋まりませんでした。無限の広さで彼に迫りました。彼はそこで、月に来てから最初の溜息をつきました。静かな、溜息でした。それから彼は途方もない大きさで一匹のハチドリを描き、唐突に絵を描くことをやめました。そうして疲れ切った表情でその場に座り込んでしまいました。彼が最初にモンシロチョウを描いてから四ヶ月が経っていました。その蝶は羽ばたくこともなくじっと兎を見つめていました。
次に兎は歌を作り始めました。彼は自分は優れた作曲家なのだと思い込みました。そして新しい曲を作っては、荒涼とした大地に自分の声を響き渡らせました。彼は実に沢山の曲を作りました。春の歌に始まる四季の歌や草花の歌、朝のタンゴや夕暮れのブルースや星のワルツ、それからモンシロチョウのためにバラードも作りました。それらの曲は確かに美しい旋律ではありました。そういった意味では彼は素晴らしい作曲家だったのでしょう。けれども、彼は決して良い歌い手ではありませんでした。彼の音域は明らかにバスだったのに、紡いだメロディーはどれもこれもキーが高かったのです。
それでも兎は満足でした。幾つも幾つも曲を作っては、声が掠れるのも構わずに歌い続けました。ここには僕しかいないんだ。誰も僕の歌声に文句を言う奴なんかいないんだ。そう思うと彼の喉はますます激しく震えるのです。月はまさしく彼の独壇場でした。彼が思っていたとおり、確かに誰一人として石を投げるものはいなかったのです。
彼は歌いました。思う存分、まるで何かに取り憑かれたように歌い続けました。そうして次第に、彼は歌うことを止めることができなくなりました。歌いながら次の曲を考え、新しい曲が思い付かないときは前に作った曲でその埋め合わせをするようになりました。彼が休むのはほんの一瞬、喉に絡まった月の砂を辛そうに吐き出すときだけでした。その砂にも少しずつ朱が目立つようになっていました。
それは兎が六十五回目にモンシロチョウのバラードを歌ったときのことです。その曲は彼には珍しく、キーの低い曲でした。そして彼は六十五回目にして初めて、完璧にこの曲を歌いこなしたのです。それは彼自身にもはっきりと分かるほどの見事な出来でした。バラードを歌い終わると、彼は久しぶりに口をつぐみました。そうして静かに目を瞑ると、待ったのです。込み上げてくる感動を押さえながら、ただ、じっと・・・。
けれども、幾ら待っても兎には何も起きませんでした。全く、何も。胸を打つ鼓動の速さに反して、静かに佇む彼の耳に届くのは、沈黙という名の歓声だけでした。彼は目を開けました。そして、沈痛な面持ちで両手を握りしめると、自分の手でゆっくりと拍手をしました。溜息にも似た拍手でした。そうしてまた沈黙が月を覆い尽くすと、彼は囁くような声で最後に「ふるさと」を歌いました。それっきり、月から音楽が消えました。
次の兎は陶芸家でした。でも、たった三日で諦めてしまいました。彼が何を作ろうとしても、それは五秒と保たずに崩れ去ってしまうのです。彼は打ちひしがれました。それからの二ヶ月を、彼は自分で決めた寝床の中で過ごしました。
・・・それは兎が月にやってきてから一年と半月が過ぎた、ある日のことでした。ふと、彼が空を見上げると、真っ黒な空に地球が見えました。それは驚くほどの青さで瞳に迫って来ました。彼はぽつりと「何ていう青さなんだ」と呟きました。まるで初めて青という色に出会ったような、そんな衝撃でした。それから暫くの間、彼は食い入るようにじっと地球を見つめていました。
そして次の瞬間、空に浮かんだ地球の輪郭がゆっくりと歪んでいくのを見て、彼はひどく慌てました。まるで誰かに頭の中を掻き混ぜられてしまったかのような、そんな慌て方でした。彼は言葉にならない呻きをあげました。それから、めちゃくちゃに走り出しました。何かに取り憑かれたように、何かから逃げ出すようにして走り回りました。彼は自分が何かにぶつかったことにさえ気がつきませんでした。その彼を夜空に舞った星条旗が眺めていました。
そうして散々月の上を駆け回ると、彼は荒い呼吸でその場に座り込みました。それから、自分を恥じました。めいっぱい、恥じました。彼は自分がどうすればいいのか分からなくなりました。自分がどうしたいのかも分からなくなりました。ただ空には地球がありました。月の上には彼と、折れた旗竿と汚れた星条旗しかありませんでした。噛みしめた唇からは微かに血が滲んでいました。沈黙が、月を包み込みました。
・・・それに耐えきれなくなった兎はすっくと立ち上がると、両足に力を込めて思いっきり跳びはね始めました。初めて月に降り立ったときと同じように力強く大地を蹴っては、虚空に向かって手を伸ばしました。けれども長い月面生活で彼の筋力はすっかり衰えてしまっていて、彼は自分が想像したように高くは跳べませんでした。自分の背すら、越えられなかったのです。
それでも彼は諦めませんでした。幾度となく跳びはねては、まるで何かを掴み取るように手を差し伸ばすのです。そうしてその度に、彼は自分の小さな掌が決してあの星に届くことはないということを知るのでした。
・・・やがて疲れ切った彼が月の砂に倒れ込んだ後、彼はさっきと変わらずに地球が青いことを確かめてから、絶え絶えの息でこう呟きました。
「もう、誰も僕の瞳のことをバカにする奴はいないんだ・・・」
それはあまりに低い呟きでした。ゆっくりと流れ去る刻のざわめきに、掻き消されてしまうほどに・・・。
そして、そのざわめきは最後には嗚咽に変わっていきました。
・・・兎の瞳は、今ではすっかり真っ赤だといいます。