6.冷たい、温かい
それは、町を後にして、来た道を戻る途中、森の入り口の木をふと見上げた時のことだった。
――私の視線は、高い高い木の枝を見上げ、その枝の上には、みゃー、みゃー、と、切ない声音で鳴く、まだ小さい、ナツの姿。
不意に浮かび上がってきた光景。それが、私が幼い頃に家の庭で見た光景だということは、すぐに分かった。
そして、それが分かると、その時の思い出と感情が、少しだけ蘇ってくる。
そう、今の私なら、目一杯飛び上がれば指先が届く程度の高さの枝は、幼い私にはひどく高いところに見えて。
そこで動けずにただ鳴くばかりのナツが感じる怖さや寂しさを、きっと幼いなりに目一杯想像して。そして、そんな思いをしているナツを助けてあげられないことが悔しくて、悲しくて。
そんな思いがごちゃ混ぜになって、私は、大声を上げて泣いたんだった。
――思い出せたのは、それだけ。
きっとその後は、私の泣き声に気付いた母か父が、ナツのことを助けてくれたんだろう。
抱きしめたナツの柔らかさや温かさに、悲しい気持ちが和らいでいく――そんな、幼い頃に感じたはずの感触も思い出したけど、それがその時の記憶なのか、別の、悲しいことがあった時の記憶なのかは、曖昧で、判らなかった。
でも、何だろう、そういった、忘れたはずのナツとの思い出が、ちゃんと私の中に残っていたことが嬉しいようにも思うし、これまで忘れていたことを少し恐くも思う。
一方で、こちらへ来る途中、ナツが木に登った時に、不意に湧き上がった感情の原因が分かった点では、ちょっとすっきりもした。
でも、こうやってはっきりと思い出す前でも、ナツが木に登る姿を見ただけで強く感情が現れたというのは、私にとってちょっとしたトラウマ的な体験だったということなのだろうか?
それなら、あの時、もしも木に登ったナツが枝から飛び降りられなかったら、私は何らかの魔法を使ったのだろうか?
でもきっと、今の私なら、ナツをちゃんと受け止めてあげられる。それくらいのことなら、魔法は発現しなかったのかも知れない。
――私は、幼い頃よりも、強くなれたのだろうか。
ふと、そんな、疑問ともつかない考えが、脳裏に浮かんだ。
魔法について考えた後だったからだろうか。最初に高台から降りてきた場所に差し掛かる辺りで、「ちょっと喉が渇いた、といった程度の欲求では、奇跡など起こせない」という鈴木さんの言葉を思い出した。
思えば、結構な時間、何も口にしていない。空腹感はあまり感じないが、こうして意識すると、喉はだいぶ渇いていると感じる。そして、そう感じてしまえば、水を飲みたい欲求は強くなる。
「ねえ、ナツ。水は飲みたくない?」
「そう言われると、少し飲みたいね」
「うん、だよね。じゃあちょっと、魔法を試してみるね」
「うーん……、うん、分かった。頑張って、カノ」
そんな、ちょっと歯切れの悪そうなナツの返事に、上手くいかないんじゃないかと思っている様子が感じられる。
そう思われているなら、成功させてびっくりさせてやろうか。……と、思ってはみたものの、どうすれば良いのやら。
――水が飲みたい水が飲みたい水が飲みたい――。
取りあえず、そう強く念じてみるが、バリアを張った時のような不思議な手応えはなく、やはり水も発生しない。
“大気に満ちる不思議な力”とやらを意識してみたり、実際にバリアを張って、その感覚を真似するように念じてみたりと、試行錯誤してみるが、やはりダメだった。
今なら、ちょっと、というレベルではない欲求だから、もしかしたら、と期待してみたが、これでもダメなのか。
駅まで行ければ飲み水もあるのかも知れないけれど。そんな風に考えながらナツを見ると、ちょうど大きな口を開けて欠伸をしていた。
――せめてナツには水を飲ませてあげたい。
そんな想いが湧き上がると同時、直感的に、来る、と感じた。
そして、次の瞬間。
――ビシャーーー!
「ギニャァーーーーーーッ!!」
「あっ……」
突然頭から水を浴びせられたナツが、今まで聞いたことの無いような凄い声を上げながら、私の顔の高さくらいまで、びょいーーーん、と勢いよく飛び上がった。
「シャーーーッ!!」
着地したナツは、めまぐるしい動きで四方八方に威嚇を放つ。
「……ナツ」
「カノッ!! 気をつけてッ!!」
「……ごめん、ナツ、私だわ……」
「…………にゃっ?」
「……ごめん」
「………………」
「………………」
――ブルブルブルブルッ!!
「ちょっ! あっ! 冷たっ!」
わざわざ足元までやってきてから身体を振るわせて水を飛ばし始めたナツの行動と、その水の思いがけない冷たさに、つい声が出てしまう。
ハーフパンツなので膝から下が素足の分、その冷たさをダイレクトに味わうことになった。
私だってわざとやったわけじゃないんだから、仕返ししなくてもいいじゃない、とは思いつつも、想像以上に水が冷たいので申し訳ない気持ちの方が大きい。
「……ナツ、ごめんね、わざとじゃないんだよ? ナツに掛けたのも、こんなに冷たいのも」
だから、改めてちゃんと謝る。
「……分かってる」
そう言うナツの様子からは、多少納得いってない感じはあるけれど、私が嘘を言っているわけじゃないのはちゃんと分かってくれているようだ。
「私がいくら『水が飲みたい』って思っても魔法は使えなかったんだけどさ、ナツには飲ませてあげたいな、って思ったら勝手に発動しちゃったんだよ。あと、飲み水は冷たい方が美味しいかな、って思ってたからそれも反映されちゃったみたいで……」
「……もう、しょうがないから許してあげる」
そう言ってから、ナツは私の足に首筋をなすりつける。
――もしかして、私がナツのためにという気持ちで魔法を使えたことに、照れてるのかな?
そんな風に思ったけれど、それをわざわざ指摘してまた機嫌を損ねても宜しくないので、そのナツの行為を黙って受け入れる。
ふくらはぎの辺りに感じる、まだ少しひんやりしっとりとした感触に、だけど心はほんのりと、温かくなった気がした。
魔法で発生させた水(常温。ナツはあまり冷たくない方が好きみたい)を私が両手の平で受け止める形で飲み、私もナツも喉を潤した後、再び道を東へと歩く。
幸いなことに、その道中でモンスターに遭遇することは無かった。
そして、どれほど歩いた頃だろうか、やがて前方に、横に長く続く建物が見えてきた時には、空は藍色を深めつつあった。
その空の色の移ろいと共に、相変わらず空を覆い尽くしているオーロラは際立ち、その幻想的な美しさは増していくように見える。
「綺麗だな……。ちゃんと帰れたら、これも良い思い出になるよね……」
そんな風に呟きながら視線を上空からナツへ移すと、ナツは空を見上げる私の方をずっと見つめていたのか、目が合った。
ずっと一緒に暮らしていたナツは、私と目が合ったくらいで嫌がったりはしない。だけど――。
「……さぁ、もう少しでゆっくり休めるよ。行こう、カノ」
ナツは、まるで目を逸らすように、建物に向き直って、歩き始める。
そんなナツの様子に、私の心は不意にざわめこうとするけれど。
私はそれを無理矢理振り切るように、ナツの後を追いかけた。