5.凶悪な正義
「この世界に於ける魔法とは、言葉にするなら、心の力が起こす奇跡、といったところか」
鈴木さんは、そう切り出した。
「心の中に宿る、強い想い、真摯な願い、挫けぬ意志、または、深い傷痕。そういったものが、空から降り注ぎ大気に満ちる不思議な力と反応して、奇跡のような現象を起こすのだ」
――深い傷痕。その言葉に、どこか他人事のように納得している自分がいる。
ナツを助けたい、ナツを守りたい、そういった気持ちが私の中に無かったとは言わない。それでもあの時、私に魔法を使わせたのは、あの瞬間にフラッシュバックした光景、それを呼び起こした、心に深く刻み込まれた痛みだったのだと、すんなりと受け入れていた。
「例えば、ちょっと喉が渇いた、といった程度の欲求では、奇跡など起こせない。よしんば起きても、良くて数滴の雫を生み出す程度だろう。だが、命の危険を感じるほどの渇望であれば、その渇きを潤すのに充分な水を生むにとどまらず、砂漠に小さな湖一つを生み出すくらいの奇跡は起こせるかもしれん」
「それでは、その欲求が満たされれば、同じ魔法は使えなくなるんですか?」
もしそうなら、心の傷が生み出す魔法は、トラウマを克服したら使えなくなるのだろうか?
「それにゃ、と言いたいところだが、分からん。吾輩にできるのは、こうして人と言葉を交わし合うことだけだからな」
そうか。ナツや鈴木さんが喋っているのも、魔法のおかげ。ナツが言っていた、願いが現実になるというのは、そういうことだったんだ。
「こっちの猫はみんな人と喋れるんですか?」
「みんな、とはいかんだろうな。だが、人間のことが大好きな猫であれば、意識せずともこの魔法を使ってしまうのだろう」
「鈴木さんも?」
「……ふむ。その呼ばれ方だと、長老としての威厳が無くなる気がするが……。しかし、大好きなパパさんやママさん、テル坊と同じ家族の証だと思えば、まあ、それも悪くないにゃっ」
悪くない、なんて言いながら、語尾は弾んでいるし、尻尾もぴぃんとなっていて、「鈴木さん」と呼ばれるのが結構嬉しいようだ。
そして私も――。
「ふーん。……もう~、なんだよぉ~、ナツぅ~。そんなに私が好きなら、好きってちゃんと言ってよぉ~」
奇跡を起こすのは、強い想い、真摯な願い。つまり、それだけナツの気持ちは……。
前に本人(本猫)から言われた時も嬉しかったけど、鈴木さんのお墨付きもあって、今度は嬉しさを我慢できない。
「そ、そんなんじゃ……。……もう、しょうがないなぁ……」
堪らずナツをサッと胸元に抱き上げると、ナツは最初こそ逃げようとするそぶりを見せたけど、そのまま背中を優しく撫でてあげると、しょうがない、なんて言いながらも、嬉しそうに身を委ねてくれたのだった。
その後、列車が待つという“駅舎”についての話を聞いて、そして最後に鈴木さんに御礼を言って、外に出た。
初めに太陽の位置から推測した方角は概ね合っていたようで、来た道を戻り、そこから更に東に向かえば、先ほどの話に出てきた“駅舎”があるらしい。
鈴木さん曰く「列車の車掌は猫だから、停車駅も発車時刻も気まぐれ」だそうで、列車に乗ったらそのままゴール、とはいかなそうだが、まずは駅まで行かないことには始まらない。
まだ見ぬモンスターへの恐怖もあるけど、身を守る魔法は問題なく使えそうだし、気配に鋭いナツもいてくれるので、油断さえしなければ何とかなりそうだという気はしている。
そういえば、ナツと一緒に旅をする、なんて経験は初めてだ。なんて考えると、どこかワクワクしている自分もいる。
そんなこんなで、元の世界に帰るために頑張るぞ! と、意気軒昂たらんとする私だったが、門へと戻る道の途中、そんな私の意気を挫かんとする恐ろしい存在が、目の前に立ちはだかった。
その存在は……、ててててっ、と私の近くまで来ると、「あなたはだあれ?」と言わんばかりに首を傾げ、そのつぶらな瞳で私を見上げる。
そう、それは、まだ生後三ヶ月を過ぎたかどうかの、凶悪なかわいさを全身に纏う、茶トラの子猫だった!
ナツのかわいさとはまた別種の、堪らない愛くるしさ。かわいいはなんとやら、とは言うが、過ぎたる薬は毒にもなるのではなかろうか、なんて考えが意味もなく頭によぎる。
私は思わず屈み込み、目線を直に合わせないようにその子の耳先や胸元、前足や尻尾の先などに彷徨わせつつ、おいで~、と呼びかける。
するとその子は、警戒心を好奇心が凌駕したのか、躊躇は一瞬、そしてすぐに私の足元までやってきた。
思わずその子の首元を指先でそっと、こしょこしょ、っとしてあげると、くすぐったいのか、気持ち良いのか、目を細め、みゃぅ、と、かわいらしい声を漏らす。
まだこのくらい小さいと喋ったりはできないのかな? なんて思ったが、ここでは人と触れ合う機会が無いからかも知れない、と思い直す。
だけど、そう考えると、長老の鈴木さんには飼い主の鈴木さんが居たはずで、昔この町に住んでいた人なのだろうか? とか、そもそもこっちの世界の人は日本人なの? とか、疑問は尽きない。
でも今はそんな謎はさておき、この子はいったいどこから来たのだろう、と、辺りを見回すと、近くの建物の入り口に、こちらをじっと見ているキジトラを発見。
その周りには、足元にいる子と同じくらいの大きさの子猫が三匹。きっとあれが、この子の家族なのだろう。その内の一匹は足元の子とそっくりな毛並みで、こちらを見ながらも、親猫(多分、母猫)にぴったりと身を寄せている。見た目は似ていても、足元の好奇心旺盛な子と違って、あっちは甘えん坊さんのようだ。
親猫はこちらを見ているが、私を威嚇しているわけではないので、こうしてこの子といることを、許してくれているのだろうか。
そんな考え事に気を取られて私がつい指の動きを止めると、子猫は「あれれ?」といった感じで我に返り、だけどもっとして欲しいのか、すぐに私の指に頬ずりをする。
そんなかわいいおねだりに私が抗えるはずもなく、このこの~、などと言いつつ、またこしょってあげる。
今度はわざと指を止めて、その反応を観察してみたり。
背中や肉球、おなかの方も触らせて貰ったり。
などと、私がそんなことを繰り返して子猫を構っていると。
――ぽむぽむぽむぽむ。
腰の辺りに、柔らかな、叩かれる感触。
振り向けばそこには、肉球パンチで無言の抗議を行う、ナツの姿。
私の方をじっと見るナツの目は、そんなはずはないのに、ジト目になっているように思える。
どうやら、思った以上に子猫に構うのに夢中になってしまっていたようだ。
ナツは手を止めて、更にじっと私に無言の圧力を加えると、ぷいっとそっぽを向いて、歩き出してしまう。
「あっ、もう……。ごめんね、私、もう行かないと。バイバイ」
私がそう言って子猫に軽く手を振ると、子猫は言葉を理解したのか、或いはただの気まぐれか、私に向かって、みゃっ、と鳴いてから家族の待つ建物の方へ、とてててっ、と帰っていく。
そのかわいらしい後ろ姿をもっと見ていたい気持ちもあったけど、後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、すぐにナツを追いかける。
「ナツ~、ごめんて~」
そんな風に後ろから声を掛けるが、御機嫌斜めのナツは振り向くどころか足を止めてもくれない。
なんだか、こっちに来てから、ナツの行動が余計に人間くさくなっているような気がするけれど……。それならそれで、露骨な御機嫌取りでもしてみようか、なんて思い付く。
「……マッサージ、フルコース」
――ピクッ。ピクッ。
相変わらずこちらも見ずに歩き続けるナツだけど、耳が、そして尻尾が、反応を見せた。
「さっきの子猫にしたよりも、丹念に、心を込めて努めさせて頂きますよ~」
そんな風に声をかけ続けていると、ナツはこちらに背中を向けたままだが、徐々に歩みを緩め、そして遂には足を止めた。どうやら許可は下りたようだ。
私は屈み込んでナツの背中側から脇の下に手を入れて、まずは肩周りから優しく揉みほぐし始める。
――結局。ナツが仰向けでトローンと蕩けるまであちこちを撫でて揉んで、ようやく私はナツに許して貰ったのだった。