君の軟水
「やっぱり、軟水だよね」
君は言った。
「軟水を飲むと、こう……救われた気持ちにならない?」
さすがにそれは言い過ぎだ。
「君も飲んでみれば、分かるよ」
そうは思えない。
「ほら、一杯だけでも」
注がれた水――何とか山脈の天然水だそうだ――を一口。
「どう?」
どうといわれても……。
「美味しい?」
分からない。
「そう……私は美味しいと思うけど」
君がどう思っていようと、僕に違いはわからない。
「残念。この喜びを分かち合いたかったよ」
そうかい。
「……じゃ、時間だから」
そう言って、君は四畳半から出て行った。
そんな君がいなくなって、もう半年。
別に、水の好みが原因な訳ではない。
悪く言えば、もっと些細なこと。人が二人で生活していれば、どうしても避けられないようなもの。
だから、君と別れたのは、きっと必然だった。
「いいや、そんなことない」
君がこの部屋にいたなら、そう言ってくれたかもしれない。僕も素直になって、喧嘩した日に頭を下げていたかもしれない。君も機嫌を直して、笑ってくれたかもしれない。
でも、あの日は違った。
何が違ったのかは、いまだに分からないけれど……。
とにかく、何かが違っていた。
僕も。そして君も。
「もういい!」
最後に聞いた声。
玄関から放たれた、ひんやりとした棘。
頭にカっときた喧嘩は、一度や二度じゃない。君が部屋を出て、数日帰らなかったこともある。
でも、今回は違った。
君は、帰ってこなかった。
僕は、待っていなかった。
開け放たれたぼろい扉が、音を立てて閉まるのを、ただ見ていた。
おしゃれな君の靴が一足減ったのを、ただ眺めていた。
それからしばらく経って、一回だけ連絡が来た。
「別れよう」
僕は、たっぷり十二分悩んで、同意した。
なんてことない、気を引きたいだけだったのかもしれない。遠回しに、よりを戻そうと言っていたのかもしれない。
でも、僕は別れた。別れることにした。
その方が、君の幸せになる……だなんて崇高なことは、何一つ考えていなかった。僕が決めた、僕のことだった。それが僕のためになるかなんて、考えもしなかったけれど。
君と別れて、何かいいことがあったわけではない。
これから起こるかもしれないが……。
今の僕には、何も分からない。
僕の幸せも、君の幸せも。
片付けよう。
半年間ほったらかしにしていた、君の荷物を。
いつか取りに戻ってくるんじゃないかと思って――いや、単に面倒だっただけだ。僕は掃除が嫌いだから。
掃除はいつも、君がやってくれていた。
「散らかすのが特技?」
なんて、笑いながらゴミを分別する君を、雑誌を読みながら見ていた。
だから、片付けよう。
足の踏み場もないほどに散らかった、畳の上を。ついでに、君の忘れ物も。
と言っても、そんなに量はない。
よくわからないものは、燃えるゴミへ。君との思い出も、燃えるゴミへ。
――いや、思い出は、燃やしちゃだめだ。こんなよく分からないものを燃やしたら、おどろおどろしい名前の毒が発生しそうだ。それはよくない。たかが部屋の片づけで、周りに迷惑をかけるのは、後味が悪い。
畳が終わり、台所。君が調理していたころは新品のように輝いていたけど、今はもう、その面影はない。
君の好みで買った調味料や、使い道が分からない器具……それから、もう使わないものを適当にゴミ袋に詰めた後、何の気なしに冷蔵庫を開けた。
そこには、一本の軟水があった。
僕には、分からない。この上水道が整備された場所で、わざわざ水にお金をかける意味が。水道で十分だと、常々思っている。
その天然水とやらは、そこそこな値段がするらしい。けれども、君が自腹で買ってくるから、あまり干渉していなかった。それでも何度か、水道水でいいじゃないかと言ったことがある。
「いいや、軟水は美味しいよ」
いつも僕の意見を尊重してくれた君だけれど、飲み水だけは頑なに譲らなかった。まるで、そうすることで自分を守っているかのように。
……せっかく、いい水――らしい――なので、少しだけ飲むことにした。
無色透明な液体が、台所の薄暗い光で、きらきらと波打つ。
持ち上げて、一口。口の中で転がして、喉を通す。
……苦い。やっぱり、この味は苦手だ。
世間や君がどう言おうと、僕の口にはやっぱり合わない。軟水は、苦いと思う。
蓋をきつく締めた。
やっぱり、僕には苦すぎた。年齢だけ重ねただけで、体はまだまだ子供なだけかも。……いいや、それでも、僕には苦すぎた。軟水独特の、後味が苦手だ。好きになれない。
電気代がもったいないので、さっさと冷蔵庫を閉める。
立ち上がり、洗面所の電気を探した。