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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

さびしい、おかえり

作者: 葉生

 帰宅すると靴紐の青い靴が玄関にあった。俺は一瞬だけかたまって、かたまっている場合ではないとすぐに荷物を放り投げて部屋へとあがる。三週間に及ぶ長いロケからやっと解放されて、大きな仕事をしたという充足感と基本的には気を休めることなく働き続けた疲労感で心身ともにぐったりとしていたところ、とんだご褒美だ。

 靴の持ち主、一至が来る前に連絡をしないのは珍しいことではない。ただこのマンションは全面禁煙で、かつ俺がいないときに俺の部屋にあがるのをきらう奴だから、渡した合鍵が活躍するのが一年に数える程度であるだけである。

 合鍵を持ちあおうと提案したとき、「ぜってーやだ」と笑いながら断ってきたが、自分の部屋の鍵はとりあえず押しつけた。無理矢理持たされてぶつぶつと文句を言いつつ、返してきたりぞんざいに扱ってなくしたりはしないところがかわいい。結局合鍵を持っていることで、口では何を言っていても一至は安心しているのだ。一至の部屋の合鍵はてこでも渡してくれないのが不満といえば不満だが、隣には彼の弟の朋希が住んでいるので心配の必要はないだろう。朋希は一至の合鍵を持っている、どころか、そもそも二人が住んでいるマンションのオーナーだ。

 廊下とリビングの間にあるドアを開けて、さらに奥の寝室に進めば、一至が夕日に当たりながらベッドで横になっていた。ばたばたした音に気づいていないわけはないだろうに、部屋の入口、つまり俺のほうを一瞥しようとする素振りすら見せない。ねむっている可能性もあるが、可能性だけだ。それはない、と確信していた。

 室内でも脱ごうとしない黒のロングワッチング帽が床に転がっている。けれど眼鏡はどこにも置かれていない。毛布にくるまって、ただじっとしている。

「一至」

 他のどの言葉よりも先に、名前を呼んだ。やっとぴくりと肩が動く。ほら、やっぱり寝ていなかった。確認するように思って、一歩中へと進む。少し掃除でもしてくれたのか、長く家を開けていたわりに埃くささがない。

「一至、ただいま」

 ベッド脇に腰かけて、髪をなでる。眼鏡が夕日に反射して光っていた。ツルの部分が喰いこんで痛くはないのだろうか。

 反応がないので、頬に唇を落とす。一至はさらにうつむくように体を動かした。軽い拒否だが、いつものことなので気にしない。毛布のなかに手をつっこみ腰をなでると、びくりとはねて、ついにこちらを振り向いたので俺はにんまりとする。と同時に、悪さをした手をはたかれた。どうせ肌に至るまではいつもの黒くてぶかぶかのパーカー、その下に着ているシャツをめくりあげないとたどりつけないのだから、服のうえであるだけいたずらみたいなものだと許されたい。

 久方ぶりに見た一至の顔は相変わらず美人だったが、基本日に当たらないため年々白くなっている気がする肌が、白いというよりじゃっかん青く見えた。眉根を寄せてこちらを睨みつけてきている細目には力強さがない。

 今回は相当だな。そう思ったのを顔には出さないようにして(ばれてるだろうけれど、しようとするのが大切だ)、今度は額に唇を落とした。だいたい一至が俺が不在であることを承知でうちに来てすきにしているのは、一至がよわっているときと相場は決まっている。というより、それしか経験がない。いつもどおりであれば合鍵を持っているにも関わらず部屋の外で待っているはずだ。

「いつからいんの?」

 起きあがろうとはせず、また横を向いて体を丸めようとする一至に問う。

「昨日」

 ロケに出ていることは、当然伝えていた。帰ってくるのが今日であることも。

 普段は飄々としている一至だが、こうしてたまに殻に閉じこもる。体は健康そのものだし、鬱というほどのものでもないのだが、深い海に沈んでいるみたいに心が沈黙する。

 青は昔から、一至の色だ。だから多少息苦しくても、青い海のなかであれば一至は呼吸ができてしまう。もっと自由にできれば問題はないのかもしれない。海は沈めば沈むほど青ではなく黒になってしまって、呼吸はできるのに息苦しい、という状況になる。一至自身はよわくていやになると言うが、よわいとは思わない。やっぱり昔から、一至はボスでリーダーで、一人でしゃんと立ち続けられるひとである。ただ少し、疲れやすいだけだ。

 原因はめぐりめぐって自分との関係にあることがわかっているので、そろそろいいだろう、と言い聞かせても、一至は罪だとでもいうように頑として首を縦には振ってくれない。

 それでも弱味だけを全面に出してきたり、すくってほしいと願われるのが自分だけだと思えば、正直にうれしさが広がる。たとえば朋希にはこんな姿、絶対に見せないだろう。兄として、弟にはいつでもすごい、と頼られる存在でありたいのだ。

「ねむい?」

 また髪をなでると、一至がおもむろにその手をとって口元に持っていく。うん、とうなずきながら、目を閉じてしまった。肯定ではなく、単なる相槌だ。この暑いなか長袖を二枚も着重ねそのうえ毛布にくるまっているわりに、伝わってくる体温が冷たい。このまま抱きすくめたら怒るだろうなと思いながら、上からじっと横顔を眺める。

 恋人、という言い方を一至はひどくきらう。何度も体を重ねていても「恋人ではない」と断固として言い張る。幼馴染で相棒で、言葉がなくても伝わりあい、お互いがお互いの半身のような存在だと思っているのは否定しないが、そこに恋という感情を添えたくないらしい。もっとも、付き合おうそうしようと話したことはない。それでも俺には一至が、一至には俺がいるから、他に恋人をつくったことも、関係を持ってから一度もない。

 言われてみれば、他人から問われないかぎり俺も一至との間にある感情を恋とは称さない。なにかもっと、本能に近い抗えないつよさをもって、惹きつけられている。たまたまそのなかに恋が含まれているだけだ。それを恋人などという不確定な関係に当てはめないでほしいという気持ちは、少なからずある。

 だけれど、間違いなく、恋だ。

 少なくとも、一至から俺に向けられている熱は。

「なあ、触りたいんだけど」

 拘束されていると言うにはよわすぎる力で手をとったままの一至に言う。聞いていないふりをしているのか、一至はじっと黙って目を瞑っていた。睫毛が長い。くっきりとした二重で、ここにアイシャドウを載せたらきもちいいだろうなと思う。職業病みたいなものだ。

「お前の体のラインをなぞって、なでて、ほてらせたいんだけど」

「お前ほんっとにきもちわるいな」

 無視しきれず薄目を開けた一至が、うんざりした様子で言い放った。性的な対象になってるのはお互い様だろうがと思うものの口にはしない。殴られてしまいそうだ。

 高校のときからだからもう約一三年だというのに、いまだに一至は俺に恋をしていることをはっきりと認めず飲みこまない。いや、認めてはいるのだが、そしていちばん理解しているのも一至自身なのだが、まるで不倫でもしているかのごとく認めてはいけないことだという風にふるまっている。

 だからその分、俺が露骨なくらいの表現を口にしてしまう。毎回きもちわるいと一蹴される。

 少し顔が上向きになったのを見計らって一至の眼鏡を外し、枕元にある棚に置く。特に抵抗はされなかった。するだけ体力の無駄だと思っているのかもしれない。体重をかけないように注意しながらキスをしたら、素直に応えてくる。こうしたいと最初から言えばいいのに、と乾いた唇を食みながら考えるが、こちらも頬だの額だのに落としていたのだから、これもお互い様か。

 しかし三週間の長期ロケで思いのほか疲労が溜まっていたらしい。急にぐらりと視界がゆがんで、激しい眠気が襲ってきた。一至の隣に横になる形で倒れこみ、頬をなでたら、瞼を開けているのもしんどくなって、いつの間にかねむってしまった。

 中学生のころ、一至にはかわいい彼女がいたし、俺も同じように彼女がいた。だから普段は常に下になっている一至も、童貞ではない。あのころまだ俺たちはただの悪ガキで、近所で有名な「赤青コンビ」で、なにも考えずにばかばかりやっていた。ダブルデートなんてしたこともあった。一至以外の男を性的に見たことはないし、それは一至も同じだろう。少なくとも俺たちはゲイには当てはまらない。たまたま、運命の相手が、同性だっただけだ。こんなことを言うと、朋希なんかは非常に機嫌を悪くする。

 そのころに戻らなくともいまでもばかはできるし、むしろそのころとは違って甘い空気の一至まで堪能できるなんて、俺はなんて幸運なんだと本気で思っている。一至は巻き込んだと思っているようだけれど、一至がそう思っていたのなら、俺が思うのもはなから時間の問題だったのだ。誰のせいでもなければ、誰のおかげでもない。遅かれ早かれこうなっていたのだから、一至もはやく諦めて受け入れたほうがいい。

 もぞもぞと胸のあたりで動く気配を感じて、目を覚ます。いつの間にか体には毛布がかけられていて、空気が涼やかになっている。クーラー入れたのか。今年まだ掃除していないけど大丈夫だろうか。

「起きたのか。もうひと眠りしようかと思ったのに」

 舌打ちでもしそうな雰囲気で、一至が言った。俺の胸元に収まろうと場所を探していた最中らしく、照れ隠しに悪態づいているのだろう。時計を見れば、三十分ほど寝ていたらしい。まだ夏の夕日は明るく部屋を照らしていて、眩しいくらいだ。

 先ほどより少し顔色のよくなった一至の頬をなでる。俺の傍で安心したんだろ、と咽喉から声が出かかったが、どう考えてもベッドから蹴り落とされるのでぐっと堪える。戯言だろうと加減なしに蹴ってくるので死ぬほど痛い。想像もしたくない。

 そのまま手を腰に持っていくと、今度ははたかれなかった。軽く腹を押さえるようにして、うわ、と今度こそ思わず声が出る。

「ほっそ。お前また痩せただろ。最後に飯食ったのいつ?」

「……昨日の朝」

 怒られると察して、ぼそりと落とすような返事。朋希が一緒なら無理矢理食事に連れ出されるか、あるいは朋希が何かつくるので問題ないが、昨日からここにいるためにそれが叶わなかったのだろう。いや、成人男性なのだから自分で自分の食事くらい用意できるのだが。

「なんでこんな着こんでて細いんだよ。夏バテでもないんだからちゃんと食べなさい」

 冷蔵庫、何が残ってただろうか。三週間も出るのだからと行く前にほとんど喰い尽くしたはずだが、米はあるはず。あと缶詰のコンビーフ。野菜は買いに行かないとないか。今日はもう面倒だから下のコンビニで何か見繕うかと思っていたが、予定変更だ。

 体を起して立ち上がろうとすると、ぐっと裾を引っ張られてまた体がベッドに逆戻りする。

「……先に、したいことがあんだけど」

 すばやくマウントをとられて、いつの間にやら押し倒されている恰好になっていた。顔が赤い気がするのは、ベタだが夕日のせいだけではないだろう。

「……俺、一応長期ロケ明けで、疲れてんだけど」

「準備したし」

「まだわりと明るいし」

 すねてもういいと投げ出したりするだろうかとじゃっかんどきどきしながら、顔には出さないように努める。さっき場所を探してもぞもぞしてたのは準備して改めて毛布に入りこんだからかと、内心は健気さにぎゅんとやられている。今すぐにでも抱きしめたい。だけど素直な一至は甘えてくる一至よりもさらにレアだ。

「さ、さ……さわ、って、ほし、い」

 瞳がぐらぐらと揺れて、頬は紅潮して、かすれた声には甘い欲が載っていて、こんな美人で、子孫繁栄、生物的に隣にあるべきは女だと言われても絶対に譲りたくない。

「上出来」

 襟元を引っ張って半ば強制的に唇を重ねれば、今度は潤っていた。

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