第2話 触手先輩
こんにちは、ぼくはスライムです。
今は訳あって白い翼の生えた青年の姿をしていますが、本来の姿は、取り立てて特徴のない、透明でぷるぷるした種類のスライムです。
今まで触手先輩と過ごした洞窟内での生活で、ぼくはちょっとだけ強くなりました。
ですが、ぼくの師匠であり、憧れでもあった触手先輩が洞窟内での死闘に倒れてから、ぼくの心にはぽっかりと大きな穴が開いたようになっています。
さらに、そろそろ困ったことが起きてきました。
ぼくの活力事情についてです。
ぼくは雑食なので、栄養があるものならば基本何でも食べられます。
ところが、実力をあげるという面では、どうしても「アレ」が必要なのです。
「アレ」とは。
それは、人間の淫気です。
特に人間の女性の淫気は格別で、摂取すればするほど実力が上がっていく貴重なものなのです。
その淫気を、今現在お世話になっているバルターク家の女性たちに求めるわけにはいきません。
まず子供が生まれたばかりのエミーリアのお母さんには、貴族の優しいお父さんが甲斐甲斐しく付き添っています。
仲睦まじい二人の間を引き裂くことなど到底できません。
次に使用人の女性の方々もいけません。
あらぬ噂を立てられるのが落ちですから。
さらにエミーリアに至っては論外です。
え? エミーリアのことが好きじゃないのかって?
……すっすす、好きに決まってるじゃありませんか!
ほら見てください! あの柔らかでさらさらとした亜麻色の髪の毛を。
こんな絹のような手触りの髪の毛を、ぼくはいまだかつて触ったことがありません。
それにぱっちりとした菫色の瞳はぼくに対して全幅の信頼を寄せてくれているのです。
薄桃色の唇は、触れたらきっと柔らかそうだなと思います。
まだ触れたことすらありませんが。
「天使様!」
ああほら、彼女がまた花がほころぶような笑顔でぼくの元へと駆けてきます。
「エミーリア、転んだら危ないですよ」
そう言いながら心配して両手を差し出すと、彼女は笑いながらぼくの腕の中へと勢いよくダイブしてきたのです。
慌てて彼女を力強く抱きしめます。
それは決してよこしまな気持ちからではありま……いや、ちょっとうそをつきました。
彼女はぎゅーっと抱きついたあと、顔をあげて一言。
「ふふ、だって、天使様の腕の中が一番安全だもの」
彼女はぼくに密着しながら、恥ずかしそうに頬を染めて笑顔を向けるのです。
……た ま ら ん!!
……ああエミーリア、ぼくの腕の中は全くもって安全「じゃない」のですよ!
ぼく、最近実力を上げたくて気を抜くとうずうずとしてしまうのですから。
そんなに隙だらけで無防備な様子だと、ぼく、あなたを襲っちゃいますよ!
「天使様……? どうしたの?」
無垢な様子でこちらを見つめるエミーリアがいじらしくって、可愛らしいです。
でも、こんな触れ合いからでも、わずかな淫気は摂取できるのです。
それは彼女が幼いながらも「大人の女性」だからです。
言い換えればエミーリアはすでに子供を生める準備ができている体だということです。
さらに、彼女と最初に出会ったとき、ぼくは彼女から真名を奪いました。
この相乗効果で、ぼくはエミーリアから強制的に淫気を吸い取ることができるのです。
淫気とはすなわち好意にも通ずるものです。
だからなのでしょうか、エミーリアがぼくに向ける思慕は、ぼくが強制的に彼女を惑わしているからなのだろうと少し悲しくもあります。
エミーリアは彼女のお母さんに似ているので、おそらく今よりももっと美しく成長するでしょう。
でも、彼女が成長した時、隣に立つのはきっとぼくではありません。
触手先輩がそうしたように、エミーリアのことが好きだから、ぼくは身を引くと思います。
ぼくはまるで彼女の兄のような視線をエミーリアに向けました。
するとエミーリアはなぜだか寂しそうに笑うのです。
「天使様は……私のことがきらい?」
「どうしてそう思うの?」
ぼくはぎょっとしました。
ぼくが抱くよこしまな気持ちが、エミーリアに悟られたのだろうかと思ったからです。
ところがそうではなかったようです。
「だって、天使様はことあるごとにお母様のことをじっと見つめていらっしゃるから」
「エミーリア……」
ああ、またわずかに淫気が摂取できました。
エミーリアは、無意識下で自身の母親に嫉妬したのです。
「ぼくはエミーリアのことが大好きだよ」
これは嘘いつわりのないぼくの気持ちです。
「本当に?」
「ああ、本当だよ」
途端にエミーリアの顔が明るくなります。
また彼女から採れる淫気の量が少しだけ増えました。
それでも彼女が無垢な部分を大分残しているように見えるのは、やはり「まだ無垢な子供でいて欲しい」と願うぼくのあさはかな願望によるものなのでしょうね。
そこで僕は決めました。
街に出て女性を漁って来ようと!
今日は、はやる気持ちを抑えながら、街に出て来ました。
ああ、天使の羽は今消しているので、見た目は普通の青年ですのでご心配なく。
道行く女性が皆素敵に見えますが、さて、ひとつ困ったことがあります。
恥ずかしながら、ぼくは今まで触手先輩にくっついて近くにいただけだったので、アダルトな行為は全て先輩任せだったと言っても過言ではありません。
自分から女性を求めるなど、はっきり言いますがしたことがないのです。
DTですね、そうですね。
だって、触手先輩があまりにも見事なエロスを体現してくださっていたので、ぼくはたっぷりとした淫気のおこぼれにあずかることができ、淫気には別段不自由しなかったのですから。
今更ながら触手先輩の偉大さを痛感せざるを得ません。
先輩、格好良かったなあ……最初は嫌がっていた女性たちが、先輩の技でメロメロになっていく姿を見ながら、何度興奮したことか。
先輩は人間の女性に対してはとことんフェミニストだったので、いつも濃い淫気が摂取できていたのだけれど、その根底にはエミーリアのお母さんという存在がいたというところも、また格好良さに拍車をかける次第なのです。
しかし、その先輩はもういないのです。
バルターク家の女性は、ぼくが守りますから、先輩は心配せずに天国で見守っていてください。
と、そう決意したところで。
「おい、俺を勝手に殺してんじゃねえよ」
「え……?」
若い声です。
声のする方に振り向くと、そこには15歳程度の黒髪の少年が立っていたのです。
どことなく妖しい雰囲気を醸し出している少年は、つかつかとぼくに近づくと、にやりと笑いかけました。
「久しぶりだな、相棒」
「ま……まさか……!!」
ぼくは言葉を失いました。
だって、死んだと思っていた先輩が、今目の前にいるのですから。
「先輩……うそじゃないですよね?」
「おう、残念ながらあの深淵の怪物との死闘で淫気と体を随分消耗したが、上手く逃げ切ったのでこの通り、ぴんぴんしてるぜ」
ぼくの瞳からは自然と涙が溢れてきました。
「ぜーんーぱーいー」
人目もはばからず、大の男が15歳ぐらいの少年にしっかと抱きついて男泣きしているのです。
道行く人々は、まさか痴情のもつれか、生き別れの兄弟が再会したのかなどとひそひそとささやきあっています。
先輩はそんな情けないぼくの背中をぽんぽんとあやすように叩くと、ぼくの顔を両手で挟んでおでこをこつんとぶつけました。
「そんなに俺が恋しかったか?」
「だって、死んだとばかりっ……」
道行く人々が「ああ、やっぱり痴情のもつれか」「兄弟再会できてよかったわねえ」などと納得して去っていきます。
そんな中、先輩はたくらみを秘めた笑みを浮かべました。
「なあ相棒、俺達、今すげえ足りないものがあるよな」
「はい、先輩」
「イイ所知ってるから、早速行こうぜ」
こうして、先輩が戻ってきて、ぼくは水を得た魚のように一気に元気を取り戻したのです。