第10話 先輩と深淵の怪物
こんばんは、ぼくはスライムです。
空には今、まん丸の月がかかっています。
しかし、その分建物の影には濃い暗闇が伸びています。
そんな相対する陰影を濃くした風景の中、ぼくたちは立っているのです。
貴族の出で立ちの先輩と、軍人の出で立ちの深淵の怪物は、門からすぐ入った中庭で対峙しました。
見た目は妖しい色気を持った15歳の黒髪の少年と、金髪ツーブロックで緑の瞳のしっかりとしたガタイの青年が向かい合って立っているのです。
きっと、これから何が始まるのだろうかと、屋敷の中の人達は不安に思っているでしょう。
さて、意外に思われるかもしれませんが、ぼくたち怪物は普段、洞窟の中で無闇矢鱈と戦闘を繰り広げているわけではありません。
曲がりなりにも生き物ですので、生きるための規律はちゃんとあるのです。
無用な争いは避けますし、棲み分けもしっかりとしています。
そして、そんなぼくたちが戦う場面は、糧と縄張り、それと伴侶を巡っての争いの時です。
明らかに実力が違う場合は、力の弱いものは戦わずして去っていくのですが、皮肉にも先輩と深淵の怪物は実力が拮抗しています。
伴侶を巡っての戦いには条件が揃ってしまっているのです。
え、ぼ、ぼくですか?
ぼくがエミーリアの伴侶なのだからぼくが戦えばいいじゃないかって?
むむむ無理無理無理ですよ!!
見てください、あの先輩と深淵の怪物の不穏な気配を。
ぼくなんか、あの二人の足元にも及びませんって。
これは決して自分の命が惜しくって言っているわけではありませんよ。
エミーリアの為なら玉砕覚悟で飛び込む気だってあります!
ただ、今既に戦闘態勢に入っている先輩と深淵の怪物は、目視できない気の張り合いをしています。
それが、ぼくの足を挫くのです。
本能が、「この争いは危険だ、逃げろ」と訴えてくるのです。
実際、周囲には鳥や虫の影すらありません。
ぼくだって逃げたくって仕様がないですが、踏ん張って何とか耐えています。
え、そんなの努力の内にも入らないですって?
そんなことではエミーリアを守れないと?
もし、いざとなった時には、ぼくはエミーリアを連れて飛んで逃げます。
ぼくにはそれぐらいしかできませんが、それでも、全力でエミーリアを守ります。
逃げ切れるところまで逃げ切ってみます。
先輩頼りだなんて心底情けなく思いますが、それでも、今は先輩の力に縋るしかありません。
そんなことを考えていると、深淵の怪物が口を開きました。
「子爵よ、あなたはいずこかの力ある深淵のものとお見受けする。私は人間どもの争いなどにはてんで興味がない。私の贄を寄越してくれればすぐさま洞窟に戻ろう。このように本来の姿ではなく、窮屈で脆い人間の姿でいるのは息が詰まるのでね」
悔しいですが、深淵の怪物の声はよく通り、涼やかでした。
さらに、どうやら深淵の怪物は、先輩に対してあくまで「ルドヴィーク・グレゴル子爵」として接しており、先輩の正体にも興味がない様子です。
尊大なのか、寛大なのか、無頓着なのか。
そのどれでもなさそうです。
その証拠に、深淵の怪物の緑の瞳には、次の一手を待つ光が宿っているのですから。
対して、先輩はあくまでも飄々とした姿勢を崩さずにいます。
「贄の少女は、あんたのその姿の方が受け入れやすいんじゃないか? 本来の姿に戻ったら、おそらくあんたが一番欲しいものは一生貰えなくなると思うぜ」
力の強い深淵の怪物が一番欲しいもの、それは、安定的な淫気の供給源です。
縄張りと自身の巨体を維持するためには、多くの糧が必要ですし、実力を上げるためには淫気が必要なのです。
先輩のように淫気の供給源をたくさん持っていれば苦労はしないのですが、もしくは一人の女性から真名を奪って自分専用の淫気の供給源に仕込めば事足りるのですが、この深淵の怪物はそのどちらも持っていないようです。
ここまでの力を持つに至った深淵の怪物です、以前にはきっと多くの淫気の供給源を抱えていたのでしょう。
ですが今はそれに見合うものがない。
だからこそ、エミーリアという贄を欲したのでしょう。
淫気の供給源が不足していたから補充する、簡単なことです。
ただぼくは、そのように単純で合理的な考え方にはあまり馴染めません。
エミーリアの気持ちはどうなるのでしょう?
だって、自身のトラウマの元凶である深淵の怪物に、死ぬまで囚われることになるのですから。
恐怖の対象から性的に搾取され続ける、まさに無限地獄と言えるのではないでしょうか?
そんなことは絶対にさせません!
ぼくの命を賭してでも、エミーリアだけは必ず守ります!
……それに、エミーリアの真名を奪ったのはぼくなのですから。
それはきっと人間の持つ独占欲と同義なのでしょうね。
ぼくだって曲がりなりにも怪物なのです。
命の根底には暴風のようなドロドロとした感情だって持っていますよ。
ただ、それが普段は表に出て来ないだけです。
単なる透明なスライムだというわけではないのです。
そんなことを考えていると、先輩が、おもむろに右手をまっすぐ前に伸ばしました。
二の腕までぎゅるぎゅると触手に包まれ、現れ出でたのは一振りの透明な剣でした。
先輩は剣を握り直すとにやりと笑います。
「人の器におさまっている今ならば、俺のこの剣で十分滅ぼすことができるな」
それを見た深淵の怪物は片眉をあげると、だらりと垂らしていた自身の右腕から、硬質で巨大な軍刀を呼び出しました。
「子爵よ、あなたは以前、私と戦ったことがあるのだね。その武器をわざわざ顕現させたということはすなわち、私の本質を理解しているということなのだろう? それはダイヤモンドの剣だ。その鉱物はいくら酸を放出する私とて溶かすことができない代物だ」
だが、と深淵の怪物は言います。
「ダイヤモンドは、単純な衝撃に対してはルビーよりも劣る。私のこの軍刀で粉砕してくれよう」
先輩と深淵の怪物は戦闘態勢に入りました。
先輩は剣を下段に、深淵の怪物は軍刀を上段に構えます。
空の月が雲で一瞬陰りました。
それが合図となったのでしょう、両者は同時に駆け出します。
「うおおおお!!」
深淵の怪物の懐に入ろうとする先輩と、先輩ごとダイヤモンドの剣を破壊しようとする深淵の怪物です。
ぶん、と風を切る音が聞こえます。
先輩は鍔迫り合いを避けながらも、まるで舞でも舞っているような仕草で、紙一重で深淵の怪物に肉薄します。
はた目からは少年と青年が剣舞をしているかのような幻想感すら漂わせます。
ですが、これはまごうことなく命のやり取りなのです。
軍刀の風圧で、先輩の服や体にはかまいたちのような切り傷が幾つもできています。
ぼくはハラハラしながら剣戟を見守ります。
と、先輩が渾身の一撃を深淵の怪物に繰り出しました。
深淵の怪物はそれを軍刀の柄で受け止めます。
その瞬間。
ダイヤモンドの剣が粉々に砕け散りました。
深淵の怪物は、そのまま軍刀を返して、袈裟懸けに振るいます。
先輩は体を翻して、太刀筋から逃れますが、風圧がわずかに先輩のバランスを崩させます。
「くっ……!!」
先輩は後ろに飛びますが、深淵の怪物はフェンシングのように軍刀を前に突き出します。
先輩の腹に軍刀が深々と刺さりました。
「ぐっ、ああ!!」
痛みに先輩が声を上げます。
「先輩!!」
ぼくは思わず先輩に駈け寄ろうとしましたが、両足はかたかたと震えるばかりで進めず、地面に膝をついてしまいました。
「終わりだ、子爵よ」
その時です。
先輩が深淵の怪物の胸に触手を伸ばしたかのように見えました。
「なっ!!」
「……誰が『剣は一振りだ』と言った?」
二本目のダイヤモンドの剣が、深淵の怪物の心臓から背中まで貫通しています。
「ごふっ」と、深淵の怪物が吐血しますが、その血を浴びた先輩の服や体は強力な酸を浴びたかのようにじわりと泡立ち溶けていきます。
深淵の怪物の血は本体と同じ、強力な酸性のようです。
しかし、先輩は意に介していない様子で、剣をさらに根元まで深く刺しました。
「さあ、このまま大人しく、俺と死んでくれ」
そう言うと先輩は自身の変化を解いたのです。
触手の怪物と化した先輩は、そのまま人間の姿をした深淵の怪物を触手の海に飲み込みました。
それを見たぼくははっと気づくと声を張り上げます。
「先輩! だめです!! それでは先輩自身も死んでしまいます!!」
じゅうじゅうと、酸で肉が溶ける音と臭いがします。
先輩は自身の触手で深淵の怪物が真の姿になるのを阻止し、相手が人間の姿の段階で殺そうとしているのです。
皮肉にも、その時になってようやくぼくは動けるようになりました。
ぼくは先輩に駆け寄りますが、先輩が心話で鋭く「まだ来るな!!」と制止します。
「どうしてですか!?」
(今は俺が抑えているからいいが、こいつの持つ力は底知れない。いつ暴発するとも限らん)
「でも、先輩だって重傷じゃないですか!」
嫌な予感がします。
そして、その予感は見事に的中しました。
先輩からは、穏やかとも言える気が漂ってきます。
(相棒、いいか、良く聞け。俺の物は全てお前にやる。子爵として生きてもいいし、捨ててくれたって構わない)
「何を言っているんですか! 先輩の物は全て先輩の物です! 先輩じゃなくちゃだめなんです!!」
普段の先輩の穏やかさとは明らかに違うそれを、ぼくは悲しみとともに察しました。
(灰にでもならないと、俺たち深淵の怪物は滅びそうにないからな。……相棒、お前と生きた日々は、楽しかったぜ)
そう言った瞬間、先輩の体が突如大火に包まれました。
「先輩!!」
尋常でないほどの炎の中、なぜだか先輩からは苦しみの感情は伝わってきません。
先輩は本当に自分の死期を、ここと定めたのでしょう。
(ユーリアを、頼む)
そして、その大火は、飛び火をすることもなく三日三晩、煌々(こうこう)と燃え続けたのです。




