何十回と、君を愛す。
何度も君を忘れる。
その度に、僕は君を、また愛す。
******
目の前には、一人の少女がいる。
明るい栗色の髪は、よく手入れがされているのか、フワフワだ。
潤む瞳は、標準装備?
僕の手を取り、彼女は涙目のまま、まるで感極まったように、微笑む。
「よかった…」
その一言に、どれ程の想いが込められているのか、僕は知らない。わからない。
だって僕は、彼女を知らない。
これでも、混乱している。
気付いたら知らない場所で、知らない人が僕の手を握っているのだから、当然だろう、と思う。
だから、口をついて、言葉が漏れた。
「君は、誰?」
一瞬、彼女の表情がピシリと固まった。揺れる瞳は、しかしすぐに、真っ直ぐに僕を見る。穏やかに浮かぶ、笑み。
「私は、貴方を見守る人間です」
ずっと傍で、貴方を見守る人間です。
そう繰り返した彼女の言葉は、睦言に似た響きを持っていた。僕は彼女を知らないけれど、彼女は僕を知っている?
ツキリと胸が痛む。記憶の中に、該当する経験は無い。けれど、痛む。
後から思えばそれは、僕が全てを忘れたとしても、どうしたって心の隅に残る、彼女の残滓だったのだろう。
思い出を失ってなお、彼女の悲しむ顔は僕にとっての痛みだ。それは、既に生活に必要な知識という域に食い込んでいるのだ。
けれど、そんなことを考えるのは、もう少し先の僕であって、今の僕ではなかった。
ただ今は、笑っていてなお痛そうな、彼女に心を揺らすばかりだった。
*****
彼女は、僕の知らない僕をよく知っていた。
どうやら、僕の記憶は一年でリセットされるらしい。
リセット。文字通りだ。知識はそのままに、人との繋がりを忘れる。よくよく考えると、親の記憶すら無い。そんなことにすら、指摘されないと気付かない。
何故忘れるのか。
訊ねたが、それは彼女は知らないと言った。いくつものお医者様を巡ったけれど、病名すらわからない。心因的なものがあるのかもしれませんね、と言われたことも、多々ある。………そうだ。
無論、僕にその記憶は無い。
しかし、一年ごとに記憶を入れ替えないといけない心因的なモノって、なんだろう。
それは、目の前で傷付いているように見える彼女よりも、大事なのだろうか。
どうなの、自分。
訊ねてみるが、返事は無い。
「君はどうして、僕の傍にいてくれるの?」
彼女は、突然の質問にも、困った素振りは見せなかった。おそらく、これまでの僕も同じことを訊いたのだろう。
フワリと微笑み、口を開く。
「私が、貴方の傍にいたいから。それ以上の理由は要りません」
「………それはそれは。でも、まあ、こんな人間に付き合うことはないよ、それ以外に理由が無いなら、離れたって」
ツキンと痛む胸を、無視する。
僕の世界に彼女が現れたのはつい最近なのに、いなくなることが、怖い。
でもそれは、彼女が僕の所為で辛い想いをするよりも、いいことのように思えた。
そんな僕に、ニコリと笑う。
「私には、必要なんです。ご安心を、その理由が無くなったら、離れますから」
その言葉には、妙な強さがあった。まるで、傍にいる理由がなくなるなど、あり得ない、とでも言うかのような。
………さすがにそれは、僕の希望的観測だろうか。
「………辛くないの?」
「辛いですよ」
間髪入れぬ回答。
けれど、彼女の表情は変わらない。
「でも貴方がいなくなってしまう方が、もっと辛いから」
「いなくなる?…いなくなってるでしょう? 君の話が本当なら、毎年、毎年」
「忘れているだけです。貴方がいなくなったわけじゃないですもの」
す、と腕が伸び、細い指先が、きゅうっと僕の服を掴む。
愛おしそうに、僕を見る瞳。
澄んだ、瞳。
「毎年、毎年思います。貴方が倒れる度に。いなくなったらどうしよう、て。でも貴方は帰ってきてくれる。…私がどれだけ嬉しいか、きっと貴方には分からないわ」
からかうように、弾むように、愛おしむように。
僕に告げられる言葉たち。
―――僕は、君を幸せにできてる?
分からない。
でも、出会って数時間の目の前の存在を、堪らなく愛おしく想うこの心は、決して嘘ではないと思った。
**********
僕は日記を読んでいる。
彼女には、中身を読むな、と命令が下っている。らしい。
無論、そんなもの破ることなら、いつでもできるだろうし、もししていても、別段困ったことはない。…単に僕が、恥ずかしいだけ。
この日記には、僕の知らない僕や、僕の知らない彼女が綴られている。
つい数年前から書き始めた日記だ。
僕が忘れたことを、教えるために。
たまに彼女とは関係の無いことも出てくるが、基本的には彼女とのやり取りなどを綴っている。
それを読んでいると、教えてくれてありがとう、という気持ちよりも、なんだこいつムカつくな、という気持ちが湧き上がってくる。
彼女は僕の大事な人だ。勝手に懸想するな、と僕ではない僕に言いたくなる。過去の僕はこの日記を通して、現在の僕に牽制を掛けているのではないか、とも思う。現に僕は、そういう気持ちで、日記を書いている。
「お茶が入りましたよ。猫舌なんだから、慌てて飲まないようにね」
「ああ、ありがとう。気を付けるよ」
「ふふっ、そう言って、いつも火傷するじゃないですか」
僕が猫舌であることを、彼女はいつ知ったのだろう。
過去の僕は、何度火傷をしたのだろう。
そんなことにまで妬いてしまう。
僕の知っている彼女が、一番素敵だ。
まるで独占欲の塊だな、と自嘲する。そのクセ忘れるのだから、始末に負えない。
もっと彼女を知りたい。
もっと彼女を幸せにしたい。
なのに、どうして僕には、たった一年しか与えられないのだろう。
日記には、全く同じ考えが、綴られていることもままある。
彼女を幸せにしたいのは、いつの僕だって同じだ。
何度も、何度も忘れるクセに。
その度に僕は、君を更に好きになる。
愛おしい存在を、手放したくない。
明日なんて、来なければいい。
ずっとこのままいれたらいいのに。
どうして、僕は忘れるのだろう。
**********
結局、病名も何も分からないまま、僕は一度きりの人生を、何十回かに分けて生きてきた。
傍にはいつも、麗しき彼女がいた。
歳を取り、顔に上品なシワができても。老眼が進んでも。
いつだって、隣には彼女がいた。
………らしい。
今ではもう、日記の中でしか会えない存在だ。
僕は初めて、一人で目覚めた。
何も分からないまま、ただ何か途轍もない違和感を覚えながら、コレを読め、の指示どおり、分厚い日記を開いた。
そうして、彼女の存在を知った。
寂寥感。彼女がいないなら、死んだも同然だ。途方もない喪失感。
しかしその中で、でも確かに、生きよう、と思った。
彼女が繋いでくれた僕という存在は、彼女からの最後で最高のプレゼントだ。
みすみす捨てる訳にはいかなかった。
彼女が大事に大事に護ってきてくれたものを。僕も見守っていきたいと思った。
―――ああ。
笑ってしまうくらい、僕は君を愛している。
話したことすらないのに。
会ったことすらないのに。
この先永遠に、僕は君の声を聴けないのに。
その体温に、もはや触れることすら叶わないというのに。
心が、身体が、彼女を求めて、狂ってしまいそうなくらいの激しい感情が、奥から流れてくる。
その濁流は、僕を飲み込んだ。
誰かに縋り付きたいほど、苦しくて辛い。でも縋り付く相手は、君でないと嫌だ。
会いたい。会いたい。会いたい。
どうして先に逝ってしまったんだ。
どうして。
僕を置いていってしまったんだ。
しかしこの激情を抱えた彼女が残されるよりも、こちらの方がよっぽどかいい気もする。
僕の中の彼女は、一番に優先される。
濁流が、僕を巻き込んで、どんどん流れていく。
笑う君。泣く君。怒る君。驚く君。
いろんな君が流れていく。
どの君も愛おしい。愛している。
やがて、僕は全てを思い出した。
喪失感が、一層濃くなる。
それほどまでの存在を、僕は失ったから。何十回分の全ての僕が、愛した存在だから。
けれど幸福感も一層高まった。
最期に笑う君。
『私は、幸せでしたよ』
僕は君を見てきたから。ずっと、傍にいたから。何十年と、傍にいたから。
分かるんだ。その顔は、嘘じゃないね。
ありがとう。
こんなにどうしようもない僕を、君は全力で愛してくれた。
何度も何度も、リセットされて。
その度に君を愛する。
そんなどうしようもない僕を、君は受け入れて笑ってくれた。
それ以上の幸福が、いったいどこにあるだろう。
僕は呟く。
「愛しているよ、ずっと。これまでも、これからも…」
君が残してくれたものを、しっかりと抱き締めて、残り少ない生命を、精一杯生きるから。
だから、そちらに行ったら、迎えてくれるかな。たくさん話をしよう。たくさん話したいことがあるんだ。
時間が、どれだけあっても足りないくらいだ。
それなら、きっと時間感覚の薄い天国なんて、最高だろう。