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加奈子と

 カウンターの中に無造作に置かれた安っぽい丸椅子に座りながら、店に取り付けられた外とを繋ぐ窓を眺める。

 そこから見える景色は、夜の街を嫌味なぐらいに明るく照らすネオンと街頭の嵐。その見飽きた景色から手元の、これまた見飽きた本に目を戻す。


 今日も静かだ。


 店にはジャズが小さく流れる音と、本のページをめくるかすれた音があるだけで、窓から見える明かりと雑踏が嘘の様だ。


 鈴が鳴った。


 りん、と響く鈴の音色。この間、雑貨屋さんで見つけて衝動買いしてしまった、小さな銀色の鈴。さっきまで見ていた窓の横にある、扉の隅に掛かった小さな鈴の音色だ。

 という事は、この暇な店に誰かが訪れた、という事だ。


「いらっしゃい」


 言ってから手元の本を閉じて、私から見て正面にある扉に目を向けた。


「相変わらず暇してんな~」


 小さな鈴の音と共に入って来たのは若い男。


「うるさいわね。こんな店でも馬鹿みたいに忙しい時もあんのよ。たまにはゆっくりしてもいいでしょ」


 たまにはどころか、実際は週に五日は今日みたいな感じなんだけど。


「キツイの頼む」


 男はそう言って、カウンターの私の目の前に座る。


「仕事、終わったんだ?」

「さっきね。今日はもう疲れちった」


 真っ黒なサングラスを外しながら、軽薄そうなへらへら笑いを私に向ける。この男は「仕事」があった日はいつもキツイ酒を頼む。

 今日も誰かが死んだんだな。なんてぼんやり考えながら、ロックグラスにあらかじめ削っておいた丸氷を落とし込み、ウイスキーを注いで男の前に置く。チェイサーはいらない。


「ここ最近見なかったから、そろそろ野垂れ死んだと思ってたわ」

「そう簡単に死ぬかよ。まあ、最近は結構忙しかったからな」


 目の前に出された酒を一口飲んだ後、カウンターに肘をついて軽く身を乗り出してきた。


「てか、今日なんでオレが来たか分かってる?」


 男はわざとらしく眉毛を上げて含み笑いをしながら私の顔を覗き込む。

 この軽薄そうな男の考えなんて分かる筈も無い。私は男の質問の答えなど一瞬たりとも考えずに言った。


「さぁ?」

「お前さぁ、ちょっとは考えるそぶりぐらいしろよな」


 男は乗り出した身体を戻し、呆れながら笑う。


「時間の無駄よ。で?今日はアンタにとって何の日な訳?」


 私の質問を聞いているのかいないのか、ヘッヘッヘと、中々気持ち悪い声を出しながらニヤニヤしている。

 こいつはやっぱり阿呆確定だ。しかも重度の阿呆だ。なんて考えていると、男はまた身を乗り出して来た。


「実は今日で加奈子(かなこ)ちゃんと哀月(あいげつ)様が出会ってから十二年目なんで~す」


 周りからラッパやら、太鼓やらの音が聞こえそうな程の陽気っぷりだ。


「何それ。超中途半端じゃない」

「まぁな!」


 私の冷めた返答にもめげず、明るく応える。


「てか、よく私らが出会った日なんて覚えてたわね」

「なんか昨日いきなり思い出してさ。まぁ、折角だから祝いに来た訳よ」

「もう十二年も経つんだね…」


 あの頃の事は今でも鮮明に覚えている。私とこの男が出会った頃。まだ高校生だった私。あの頃はまさか、このジャズの流れる静かな店で毎晩働くなんて考えてもみなかった。


 この男…哀月と出会うまではーーー




「だるぅ~~~」


 ホント何で学校なんて行かなきゃいけないんだろ。数学の公式や、科学の記号を覚えたからって何になるのよ。

 吐き出す溜め息が地面に落ちるのと同時にその場に座り込む。そして学校の指定バッグから煙草を取り出す。


「この一本が至福の時だわ~」


 煙を吐きながらおっさん臭く呟いてみる。若い女が制服姿で道端に座り込んで煙草をふかしていても、こんな裏路地には注意してくるようなうざい大人なんか通らない。


 ホント何で学校なんてあるんだろ。今日も検査でスカートが短いだの、パーマは校則違反だの、マジうっさいし。そりゃ授業ほっぽりだしてフケたくもなるわ。

 煙草の煙と一緒に、今日何度目かも分からない溜め息を吐き出す。


「おい、そこの女子高生」


 やばっ!先公?警察!?


 反射的に声のした方を向くと、男の子が仁王立ちでこっちを見ている。


 なんだ、先公かと思った。…てか、この子結構カッコイイんですけど。私とタメぐらいかな?


 男の子がずかずかと私に近付いて来て、間近で目が合った瞬間、ヒヤッとした。幽霊とか見た時に、全身に鳥肌が立つみたいな感じ。まあ、私は幽霊なんて見た事無いんだけど。


「煙草、一本くれよ」


 そう言うと男の子は掌をこちらに出してきた。


 …何だコイツは?


 私は座り込んだまま煙草を差し出す。


「…どうぞ」


 すると男の子は、まるで私と前々から友達だったかの様に、躊躇いなく私の真横に座り込んで、私が差し出す煙草の箱から一本抜き取った。


 ………何なんだコイツは?


「火」


 何でいきなり私がコイツのしもべみたいになってんのよ!?


 心の中ではかなり憤りながらも、百円ライターをわたした。


「サンキュ」


 言ってくわえた煙草に火を点けた。......瞬間に、むせた。


「ゲホッ!何だこれ!?こんなのの何が旨いんだよ!」


 言いながらも、まだむせている。


 …ホントに何なんだコイツは。

 意外に可愛いぞ。


「マジ訳分かんねぇ。なぁ、これのどこが旨いんだ?」


 涙目になりながら真剣な顔で聞いてくる。


「どこがって言われてもねぇ…」

「マジ訳分かんねぇぜ。ただの煙じゃん」


 …アンタ人から煙草を奪っておいて、酷い言い草ね。


「なぁ、これ何て名前の煙草なんだ?」


 さっきまでの超批判が嘘の様に、普通に聞いてくる。


「マルボロ赤、ソフト」


 我ながらかなり不機嫌な声だ。


「へぇ~。ま、いいや」


 しげしげと手に持った煙草を見ながら言うと、いきなり「さて」と立ち上がった。

 何となく立ち上がった男の子を見上げてしまうと、さっきまでの無表情っぷりは何だったのかと言いたくなる程の明るい笑顔があった。


「煙草、サンキュな」


 男の子にしては長い髪をかき上げながらニカッと笑うと、私に背を向けて歩きだした。


 あ、行っちゃうんだ。


 さっきまでは私もかなり不機嫌だった筈なのに、男の子がどんどん遠ざかって行くにしたがって、不思議ともっと話してみたいという欲求が出てきた。


「ちょっと…」


 私も立ち上がった時には、男の子は角を曲がり、姿が見えなくなっていた。私はほとんど無意識にその男の子を追い掛けていた。


「ねぇ、ちょっと待って…!」


 男の子に追い付いた時には軽く息が上がっていた。マジ歩くの早過ぎだし。


「あぁ、さっきの女子高生か」


 振り向いて私の姿を確認すると、男の子は立ち止まった。


「何?」


 ………あれ?また無表情だ。さっきの笑顔を予想していた私は、まるっきり反対の対応で焦った。


「あ、えっと、これから暇?」


 って、これじゃナンパじゃん!えぇい、後には引けん!


「ひ、暇だったらカラオケでも行かない?」

「…興味ない」


 それだけ言うと、男の子はくるりと背を向けて歩きだした。


 早ッ!!


「ちょ、待ってってば!えと、あ、私、加奈子っていうの!アンタは?」


 男の子はもう一度立ち止まり、こちらを振り返る。


「オレは…」


 何かを言おうとしたが、突然フッと横を向いたかと思うと、そのまま睨みつけるかの様にある一点を見据えている。

 その仕種につられる様に私も男の子が見ている方を向くと、そこは大型の電気屋さんで、私達がいる歩道からは、ガラス越しにニュースなんかを流しているテレビが幾つも置かれていた。

 その内の一つを男の子は凝視していた。


 《………に起こっ……一家惨殺事件で……犯人は未だ逃亡………唯一の生存者、長男の……君も未だ行方不明……拉致された可能性も………》


 何気なくその画面を見ていると、見覚えのある顔写真が画面いっぱいに映った。


 えっ?この長男って…。


 今、目の前にいる男の子がテレビの画面いっぱいに映っている。慌てて画面から男の子に顔を向けようとした瞬間、私達とテレビを隔てていたガラスが砕け散った。


「うわッ!」


 男の子を見ると、ガラスごとテレビを蹴り飛ばしていた。


 いやいや、やっぱこの子訳分からないし!てか、普通蹴りでショウウィンドウ割れないし!


 あんまりにもびっくりして茫然と見ていると、男の子は私の目をじっと見つめてぽつりと言った。


「名前なんて、ねぇよ」


 言ったかと思うと、またくるりと背を向けて歩きだした。私はもう、男の子を追えなかったーーー




 なんか今日、どえらい疲れたんですけど…。ぐったりしながら家の玄関を開ける。


「ただいまー」


 私の声を聞いて、奥の居間から母さんが出てきた。


「お帰りなさい。今日は遅かったわね」


 笑顔で出迎えてくれる。


「うん、ちょっと友達とはしゃぎすぎちゃった」


 私も笑いながら応える。まぁ本当は、あれから追い掛けてくる店員やら警察やらから必死で逃げてたんだけどね…。


「父さんはまだ帰ってないから、今のうちにご飯食べちゃいなさい」


 母さんの言葉はちょっと変に聞こえるかもしれないけど、ウチではこれが普通だった。母さんは極力、私と父さんが顔を合わせないでいいようにしてくれる。


「ん。分かった」


 私も慣れた様に言って靴を脱いだ。


 それにしてもあの男の子、一体何だったんだろう?

 晩ご飯を食べて二階の自分の部屋に戻ってから、CDを流してぼんやり考える。


 見た目は私と同い年ぐらいなのに、あんな目は見た事ない。学校にも男子はいっぱいいるけど、どの子もガキっぽいだけで、あんな風に人を居抜くような目をしたヤツなんて一人も居ない。そのくせあんな笑顔も持ってんだからなぁ。…絶対反則だ。

 それにあのテレビのニュース。あの子の家族が惨殺されたって言っていた。だったら何であんな所でふらふらしてたんだろう?


 一人で物思いに耽っていると、下から何かが割れる音が聞こえた。同時に母さんの涙混じりの抑制の声と、男の怒声も。


 …アイツが帰って来たんだ。


 私は座っていたベッドから勢いよく立ち上がり、迷い無く階段を駆け降りた。


 居間の扉を開けると、そこは地獄の様だった。皿やグラスは砕けて床に散らばり、テーブルを囲んでいた筈の椅子も仰向けになっている。

 そして、その地獄の真ん中には床に倒れ込んで泣きじゃくる母さんと、それを見下ろしながら声を荒げている父さんがいた。母さんの頬はあの男にぶたれたのか、赤く腫れている。


「アンタ、いい加減にしてよッ!」


 私は母さんを守るように、父さんの目の前に立ちはだかって睨み付けた。


「うるさい!ガキは引っ込んでろ!」


 言ったかと思うと、私も頬をぶたれた。この、クソ親父ッ!一瞬で頭に血が上り、父さんの襟首を両手で掴む。


「止めなさい!加奈子、止めて!」


 そのままこのクソ親父をぶん殴ってやろうと思ったら、後ろから母さんに抱きしめられた。


「あなた、ごめんなさい。次からは気をつけるから、だから許してください。ほら、加奈子も落ち着いて」


 涙で目を腫らしながら私と父さんを交互に見る。そんな母さんの姿に興冷めしたかのように、父さんは舌打ちして居間から出て行った。


「ごめんね加奈子。ごめんね」


 母さんは私を抱きしめたまま謝り続けている。


「大丈夫。私は大丈夫だよ、母さん」


 そう言って、私も母さんを抱きしめ返して、ゆっくりと背を撫でてあげた。

 しばらくすると、父さんの部屋からスウィングのリズムが聞こえてきた。あの男は何か嫌な事があると、いつも自分の部屋に引きこもって大音量でジャズを聴く。

 アンタみたいな男に聴かれたら、例え巨匠のジャズでも腐ってしまうわ。


 母さんの背を撫で続けながら考える。いつか、いつか絶対殺してやる、とーーー




「遅ぇんだよ」


 ………はい?


 今日もいつもと変わらず学校の先公はうざかったし、授業の内容なんて興味もないから爆睡して、寝るのも飽きたから学校をフケてきた。

 そして、いつもの裏路地で至福の時を過ごそうかと思って来てみると、そこには昨日私の目の前でガラスを蹴破った男の子が、座り込んでこっちを見上げているではないか。


 いやいや、遅いって言われても…。待ち合わせなんてしていた筈も無く、まさかここでまた顔を合わせるとは夢にも思っていなかった。


「アンタ、こんなとこで何してんの?」


 私は突っ立ったまま、座り込んでこちらを見上げてくる男の子に聞いてみた。


「煙草、一本くれよ」


 打てば昨日と同じ様な言葉が返ってきた。


「ほら、何ぼーっとしてんだよ?マルボロ赤、ソフト、一本くれよ」


 無遠慮さも昨日と同じだ。私も昨日と同じ不機嫌な顔と声で応える。


「…どうぞ」


 そして立ったまま煙草を差し出す。


「火は?」

「…はい」


 これじゃ昨日の繰り返しじゃない...。あれ?と、いう事は、やっぱり煙でむせるのかな?


 ちょっと意地悪く考えながら、男の子がくわえた煙草に火を点けるのを観察してみた。

 が、今日はむせなかった。昨日の煙草初心者っぷりが嘘の様に、見事に吐く息に煙を混ぜる。横から見ていると、長い髪に半分隠れた顔が、なんだか物憂げに見えた。


 …なんか様になってるし。ちょっとムカつく。


「何見てんだよ?」


 私が観察していた事に気付いて、ちょっと不機嫌そうに聞いてくる。


「べっつに!」


 勢いよく言って、これまた勢いよくその男の子の横に座り込む。


「てか、昨日はアンタのせいで酷い目に合ったんだから」


 昨日のガラス粉砕事件と、その後の必死の逃亡を思い出して、横に座る男の子を睨む。


「ん?ああ、悪かったな」


 …コイツ、絶対悪かったとか思ってないし。


「それより、名前。何だっけ?」

「…加奈子」

「ふーん。普通だな」


 …コイツはぶん殴ってもいいんだろうか。


「ガッコ、楽しい?」

「全然。大人はうざいヤツばっかだし、なんか私同級生からも浮いてるみたいだし」


 日頃の不満を言葉に乗せてみると、自分で思っていた以上に鬱憤が溜まっているようだった。


「大体学校なんて物がある意味自体が分かんないわ。てか、アンタ私とタメぐらいでしょ?学校は?」

「さぁな」


 いきなりそっぽを向かれてしまう。


「じゃあアンタの名前は?昨日結局教えてくんなかったじゃん」

「さぁな」

「さぁなって…」


 そっぽを向かれて言葉に詰まってしまった私に男の子はいきなり向き直る。


「てかさ、オレの事なんてどーでもいいじゃん。それより加奈子の事もっと聞かせろよ」


 振り向いたその顔には昨日のあの笑顔があった。


「私の事って、そんなの別に聞いても面白くないと思うけど…」


 何故か体温が上がって、顔まで真っ赤になってるんじゃないかと思うと、真横に座る男の子の顔を見れずに今度は私がそっぽを向いてしまった。


「ほらほら、色々あんだろ?友達の事とか色恋沙汰とかさぁ」

「色恋沙汰って、アンタ幾つよ」


 幼い顔に全然似合わない言葉に、思わず吹き出してしまった。


 ーーーそれから私はこの訳の分からない男の子に色んな話をした。学校の事、友達の事、まぁ色恋沙汰の話はしなかったけど、家族の事も少しだけ話したりした。

 男の子は私が話す事を、本当に興味津々といった感じで聞いていた。けど私が男の子の事を尋ねると、途端に冷めてしまう。

 それでもめげずに、この男の子に色んな話をした。




 辺りが暗くなってきたので何気なく携帯で時間を確認すると、もう夜の八時過ぎだった。


「やばッ!もうこんな時間じゃん!」


 慌てて立ち上がる。


「…帰るのか?」


 男の子も立ち上がって私と目線を合わせる。


「うん、流石に母さんも心配するだろうし。まぁウチはこっからすぐの所だし、大丈夫かな」


 私が言い終わると、男の子は突然私に背を向けて歩きだした。


「あ、バイバイ!」


 私の声が聞こえたのか、男の子は軽く手を上げてそのまま暗い路地に消えて行った。




 ーーーその日から私は学校をフケた後に、あの裏路地で男の子と話しをするのが日課になった。

 私が何時にその場所に行っても、いつも同じ場所に座り込んで私を待っていた。そしていつも私の煙草を一本だけ奪っていった。


 初めは顔こそいいけど、無愛想&無遠慮でムカつくと思ってたのに、話してみると意外にこの子は聞き上手だった。

 他人に自分の事を話した事なんてないのに、男の子があんまりにも話を引き出すのが上手くて、話題が尽きる事はなかった。

 それでも私が男の子に質問をすると、やっぱり話をはぐらかされた。


 この二人だけの不思議な時間は私にとってかなり新鮮で、いつも時間が過ぎるのはあっという間だった。

 それなのに、私が話した事や、男の子の仕種や表情は鮮明に記憶に残った。

 中でも、私が「アンタみたいなのが彼氏だったら楽しいだろな~」と、ホントに何気なく言った時の男の子の顔が忘れられない。


 言葉で返さず、シニカルな笑みを浮かべて私を見た時の、あの顔。


 そんな日々が過ぎていくのもあっという間で、気付けば男の子と出会ってから一週間ぐらいが経っていたーーー




 今日は久々に四限目まで授業を受けた。ホントは二限目ぐらいに帰ろうと思って靴箱に向かっていたけど、運悪く先公に見つかってしまった。

 それで今度こそは、と意気込んで昼休み中に何とかこっそり学校を抜け出してきた訳だ。


 あの裏路地に向かう足が、自然と早足になる。今日も私を待っていてくれてるのかな?

 期待と不安が入り混じった様な、奇妙な感覚を抱えながらいつもの裏路地に入ると、そこには誰も居なかった。


「なんだ…あいつ居ないんじゃん」


 自分で思っていた以上に期待していたみたいで、がっかりし過ぎて独り言なんて言ってしまった。


 まぁいいや。どうせ元々一人になりたくて来てた訳だし。そう思い直し、いつもの場所に勢いよく座り込み、バッグから出した煙草に火を点ける。いつも横にいる筈の人がいないだけで、体温すら下がったみたいな感覚だ。


「あっれ~?なんかいんぜ?」


 短くなった煙草をアスファルトに押し付けた処で横から声がした。


「何々?うわっ、女子高生じゃん!」

「超ミニだし。ねぇねぇ、こんなとこで何してんの~?」


 うわぁ…、うざそうな男たちが来たな。


「君ひまそうじゃん?オレらと遊び行こうぜ」


 明らかに下心丸出しな男三人のウザさと、あの男の子がいなかったショックに何だか段々苛々してきた。


「うざい。消えろよ」

「何こいつ?超強気じゃん」

「いいからオレらと楽しい事しようぜ」


 三人組はニヤニヤしながら地べたに座り込む私の周りに近寄ってきて、私の身体を触ろうとする。


 マジうざいんですけど…。


「マジ、うざいっ!」


 思った事がそのまま言葉と行動に出てしまった。私は言うと同時に、私の脚を触ろうとした男の頬をおもいっきり叩いていた。


「ってぇ!」

「だっせぇ~。お前、なにやられてんだよ」


 他の二人は私が頬を叩いたヤツをからかって騒いでいる。


「てめぇ、…ふざけんなよ」


 私に頬を叩かれた男の目つきが変わった。あ、ヤバイかも。瞬間的にそう感じた。

 男はさっきまでのチャラチャラした表情とは打って変わって、明らかにイラついている。


「クソ女が」


 言ったかと思うと、男は私の胸元を掴み平手打ちをした。そしてそのまま制服のシャツのボタンを引きちぎる。


「ちょッ!止めて!」

「黙れよ」


 私がもがくと、男は更に私を殴った。他の二人は後ろでニヤつきながら、「レイプじゃん」とか「ビデオ持ってくりゃよかったな」なんて言っている。


 ヤバイ!まじヤバイ!!


 いくらもがいても女の私では男の力に敵う筈もなく、身体中をまさぐられる。


 誰か助けて!


 どうにも出来なくて、それでも男の顔なんて見たくなかったから、ぎゅっと目を閉じた。まさにその瞬間だった。

 何かを打つ鈍い音と男の低い叫びが聞こえた。そして同時に私の身体も自由になった。


「おい、マサ!大丈夫か!?」


 恐る恐る目を開けると、私を襲っていた男は頭から血を流して、地べたにぐったりと倒れていた。身体を痙攣させながら、口からは泡を吹いている。

 そしてその脇には、あの男の子が、右手に赤い液体のついた鉄パイプを握りながら私に背を向けて立っていた。

 ちらりとこちらを振り返ったその顔には怒りも焦りも無く、ただただ無表情があるだけだった。


「何だ手前ぇ!」


 残った二人は血を流している仲間の姿に焦りながらも、怒りもあらわに男の子に向かった。

 男の子は別段焦った風でも無く、手に持った鉄パイプで一人の腕を打ち、もう一人の頭を砕いた。更に、恐らく腕の骨が折れたであろう男がうずくまって悶絶している上から、蹴りを容赦無く何度もいれた。


 私は恐ろしかった。男の子の余りにも無情な姿が。昨日までとはまるで別人のようなその姿が。

 だから男達を打ちのめした後に、男の子がこちらを振り向いた時に、私は反射的に身を引いてしまった。多分無意識に、小さな悲鳴も出たに違いない。


「………」


 男の子は何も言わずに自分のシャツを脱ぎ、私に放り投げてきた。そして、あのシニカルな笑みを浮かべたかと思うと、そのまま背を向けて行ってしまった。

 その笑みに「だから言っただろ?」と言われた気がした。


 私はその場で泣いてしまった。

 襲われた事が恐ろしかったからなのか、男の子の残忍さが怖かったからか、はたまた男の子を傷付けてしまった事への後悔なのか、自分でもよく分からなかったーーー




 それからは、あの裏路地には行かなかった。私を助けてくれた男の子に対して恐ろしいと感じてしまった。その事に私は、後ろめたさを持っていたんだと思う。


 何となく学校へ行って、家には帰りたくなかったから、友達の家に泊まったり、カラオケでオールをしたりしてだらだらと日々が過ぎて行った。


 気付けば男の子と出会った日から二週間ぐらいが経っていたーーー




「超ひま」


 独り言と共に溜め息も漏れた。友達とカラオケに行ったはいいけど、今日は皆用事があるとかで帰ってしまった。


 そろそろお金も無くなってきたし、久しぶりに家に帰ろうかな。父さんの顔は見たくもなかったけど、母さんの事は少し心配だった。


 重い足を引きずりながら、かれこれ一週間ぐらいぶりの帰路についた。




「ただいまー」


 靴を脱ぎながら、ある異変に気付いた。いつもなら私が帰ると、奥の居間から母さんが出迎えてくれるのに、今日はそれがない。

 不思議に思いながらそのまま居間のドアを開けて中に入ると、そこは台風でも通り過ぎたんじゃないかと思う程荒れていた。

 始めは、また父さんが暴れたのか、ぐらいに思ったけど、そう考えても酷い有様だった。

 食器や花瓶が割れて散乱しているのはいつもだが、棚やテレビなんかも全てひっくり返っている。


 何かおかしいと思い、居間の奥の台所に行ってみた。すると、台所も酷い有様だった。

 しかし、こちらの様子は居間とは少し種類が違った。シンクには洗い物が溜まり、テーブルの上には腐った食べ物なんかがそのまま置かれている。母さんの性格を考えると、これは有り得ない事だった。


「加奈子か?」


 後ろから突然声を掛けられたので慌てて振り返ると、そこにはやつれて憔悴しきっている父さんがいた。


「父さん!これどうしたの?母さんは!?」


 変わり果てた台所の姿と、変わり果てた父さんを交互に見ながら言った。


「母さんは、出ていったぞ」

「はぁ!?何でよ!どこに行ったのよ!」

「…もう、帰って来ないだろうな」


 父さんの暴れている姿しか見慣れていなかった私は、疲れきった顔と声で言われて、全てを悟ってしまった気がした。


「そんな…」


 もっと早く家に帰っておくんだった。そうすれば母さんは出て行かなかったかもしれない。

 私はうなだれてその場にへたり込んでしまった。父さんも私の目の前に座った。


「加奈子ッ!」


 いきなり押し倒された。


 ………え?


 しかもそのままスカートから剥き出しの脚を撫で回される。


「ちょっ!父さん!?」


 訳の分からない展開に焦りながらも、必死で抱き着かれた身体を剥がし、居間から飛び出し二階の自分の部屋に逃げ込んだ。

 この部屋なら内側から鍵がかかる!急いでドアを閉め、鍵をかける。と同時に、ドアをおもいっきり叩く音と父さんの怒声が部屋に響き渡る。


 どうしようどうしよう!焦る私の目に、バッグから転げ落ちた携帯が映った。

 誰か…誰か!急いでアドレス帳を操作していると、ある名前で目が止まった。


「…男の子」


 名前も知らないから私はそう登録していた。教えてくれてたんだった。唯一、携帯番号だけ。

 いつもあの路地で会っていたから、電話する必要なんて無かった。だから、すっかり忘れていた。


 躊躇いながらも通話ボタンを押す。無機質な発信音が二回も鳴らない内に声が聞こえた。


「加奈子?何」

「あ、助けて!父さんが…」


 言い終わらない内に木が砕ける音がした。顔を上げると、部屋のドアは鍵ごと蹴り飛ばされたのか、無惨にも蝶番一つで辛うじてぶら下がっていた。

 そしてそこには、口元が歪み、目の色の濁った父さんがこちらを見ている。

 父さんは私の姿を確認すると、更に口元を歪めて私に近付いてきた。


 狂ってる…。


 ゆっくり近付いてくる父さんから逃げる様に後退る。


 逃げられない…。


 後退る脚が背後のベッドに当たり追い詰められる。


「加奈子!」


 そのままベッドに押し倒される。父さんは服を無理矢理脱がし、私の身体中を撫で回した。

 そして、それでもまだ満足出来ないかの様に、慌てて下着も剥ぎ取る。


「…ッ!止めてッ!」


 父さんの指が私の股の間に滑り込んだ。


「ダメ!父さん!」


 抵抗しながらも、やはり男の腕力には敵わず諦めかけた。


「何してんだ手前ぇ?」


 外れたドアから若い声が響いた。しかし、荒々しい言葉遣いとは裏腹に、落ち着いた、澄んだ声だった。

 父さんはベッドから身体を起こし、勢いよく振り向く。


「何してんだって言ってんだよ」


 外れたドアの側に佇んでいた男の子は、ゆっくりとこちらに近付いてきた。その姿は、その落ち着いた声と同じ様に落ち着き払っていた。やっぱり顔から表情は読み取れなかった。


 男の子は無表情のまま近付き、何も言わずに片手で私から父さんを引き剥がした。そして、私をじっと見つめて言った。


「あいつ、やるよ?」


 その短い言葉に含まれる意味を、私は瞬時に理解した。多分ここで私が頷けば、父さんの命は無くなるんだろう。それでも…それが分かった上で、私は頷いた。

 男の子は私の意思を確認すると、無言で背を向けた。そして、ジーンズのポケットからバタフライナイフを抜き出して、片手で器用に刃を開く。


 気が狂った様にニタニタ笑いを続けていた父さんは、自分に近付いて来る男の子が持つナイフを凝視している。

 男の子は、私と同じくらいの年とは思えない慣れた動作で、ナイフを凝視し続ける父さんの首を切った。

 父さんは悲鳴すら上げず、歪んだ笑い顔のまま床に崩れた。


 そして、部屋が静かになった。


「ごめんな」


 暫く自分が切った人間を見ていた男の子は、私に背を向けたままぽつりと呟いた。そして私を振り返る事無く、部屋の出口に歩きだす。


「待ってよ!」


 私は男の子を追いたくても、裸で布団に包まっている状態だから、代わりに必死で声を出した。


「待ってってば!」


 男の子の足が止まった。


「一人に、しないでよ…!」


 男の子がゆっくり振り返る。


「オレと、一緒にくるか?」


 そう言う男の子の顔は、歓迎はしないけど拒みもしない、そんな微妙な表情だった。

 私はその時、何か返事をしたのか、頷いただけなのか、覚えていない。そのまま意識を失ってしまったーーー




 気付けば私は男の子に背負われて、夜の街を歩いていた。空には綺麗な満月が見える。


「…この街でも、こんなに綺麗な月が見えるんだ」

「そうだな」

「助けてくれてありがとう。今日も、この前も」

「…歩けるか?」

「うん」


 男の子の背中から、舗装された歩道に足をつく。裸で気を失った筈だけど、服も靴もちゃんと身につけていた。


「何でそんなに哀しそうな顔するの?」


 正面から見た男の子の顔はいつもの無表情ではなく、顔を歪めて、今にも泣き出してしまいそうだった。


「ごめんな」


 私の部屋で言ったのと同じ言葉を、今度は吐き出すように漏らす。


「アンタは悪くない」


 言ってから、いつもの癖でポケットをさぐると、しっかり煙草も入っていた。そのまま煙草を取り出し火を点ける。そして勢いよく煙を吐く。


「今日の事は私の意思だったんだから、アンタが気にする事じゃない」


 男の子の目を、真っ直ぐに見つめて言った。

 実際、母さんが出て行って、父さんが死んでしまったというのに、私は涙一つ出なかった。悲しくない訳じゃないし、一人になってしまって寂しくない訳でもない。それでも、私の心は至って健全だった。


「オレが傍にいてやるから」


 男の子がしっかりした口調で言う。それはもしかすると、はたから見れば愛の告白なんかに見えたかもしれない。

 だけど、私は分かっている。この言葉は、そんな生ぬるい言葉じゃなくて、私の人生を背負う覚悟の言葉だ。

 それが分かっていたから、私は笑いながらあえて軽く返す。


「暫く寝泊まりだけさせてくれたらいいよ。ま、その後は何とかなるでしょ」

「…ウチ、変なオッサンが居るけど気にしなくていいから」


 なんとなく男の子は一人で暮らしているんだろうと想像していたので、少しビックリした。


「それ、私が転がり込んでも大丈夫?」

「気にすんなって。行こうぜ」


 そう言って、男の子は少し笑って歩道を歩き出した。私も男の子について歩き出す。


「オレの名前、哀月だから」

「あいげつ?………哀しい、月?」


 男の子は私の疑問に答えず、私の前を歩き続ける。空を見上げると相変わらず綺麗な満月が浮かんでいる。

 私は足早に、一人ぼっちの月の様に哀しそうで、それでいて真昼の太陽みたいな笑顔を持つ、この不思議な男の子について行ったーーー




 薄暗い店には静かにジャズが流れている。窓から見える都会の雑踏が嘘の様だ。


「そういえば、沢田さんって昔カッコ良かったよねぇ」

「ははっ。今はオッサンの仲間入りしてんけどな」

「今は今で渋くていいの」

「ったく、あんなオッサンが何でモテるのか、全然分かんねぇぜ。いっつも違う女連れてんし」


 哀月は呆れた顔を作りながら酒を嘗めている。


「つーかさ、今はどうなんだよ?昔はジャズなんて大ッ嫌いだとか言ってただろ」


 大ッ嫌いの部分を私に似せたつもりだったのか、かなり気持ち悪い声をだした。


「まぁね」


 ジャズを聴いていると、色々な事を思い出してしまう。だけど、思い出したくもなかった過去は、今となっては懐かしく、あんなに嫌悪していた父さんに対しても、今では不思議と憎しみは無い。


「人間は変わって行くもんでしょ?」

「まぁな。なんたってあんなに初かった加奈子が、今ではこんなに擦れちまったしよぉ」

「擦れてねぇよ」


 泣き真似をする哀月に笑いながら言い返す。哀月も笑うと、空になったグラスをカウンターに置いて立ち上がった。


「じゃあまた来るわ」


 言って背を向けたかと思うと、すぐに振り返る。


「煙草、一本くれよ。マルボロ赤、ソフト」


 昔を思い出して、なんとなく笑ってしまう。


「どうぞ」


 私が差し出した煙草の箱から一本抜き取ると、「サンキュ」と言って、今度は迷いなく私に背を向けて扉へ歩きだした。


「またね」


 私の言葉に軽く片手を上げる事で答えると、そのまま店の扉を開けて出て行った。

 店に一人残された私は、空のグラスを下げて、さっきまで読んでいた本を再度手に取る。


 今日もこの店は変わらず静かにジャズが流れている。

 それ以外の音は本をめくるかすれた音があるだけだ。





 了

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