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残り香


 空が一辺の空白もなく星と夜闇に包まれた頃、ようやく祖父と母が帰宅する。二人はとても忙しいので、定時になんて帰ってくることはない。それはこの100年ずーっとで、たまに早く帰って来たと思えば体調を崩したとかで。お陰様でダニエルは、証拠隠滅に使う時間は結構あった。

 勢いよく帰宅したのは良かったが、がらんとした薄暗い室内を見ると一気に現実に引き戻された。高級な調度品、暗幕のような真っ黒のカーテン、エレガントな花模様の壁紙、血を吸ったようなボルドーの絨毯、マントルピースに飾られた3人の家族写真と、大はしゃぎで駆け寄ってきたウラディーミル。

 とりあえずウラディーミルに謝罪しながらご飯をあげて、紙袋を部屋のクローゼットの中に押し込み、洗濯物を取り込んで簡単に掃除をした。そして、忘れてはいけないのが着替えだ。

(言い訳、どうしよう)

 目聡い母の事だ、最初に着ていた服と違うのは何故だと、絶対質問してくる。しばし考えて、庭で転んで泥だらけになったから捨てた、と言い訳することにした。

 祖父と母の帰宅はこういう時には全く優しくない方法で、帰ってくる気配なんかさっぱりわからない。なにせ、アダムに貰ったネックレスを外すのを忘れていて、慌てて部屋に隠しに行って戻ってきたら、もうリビングにいるのだ。

「あ、お、お帰りなさい」

「ただいま。ダニー」

 通常ならなんでもないが、この時ばかりは瞬間移動はやめてくれと思う。

 母はまず仕事から帰ってきたら、仕事用の「男装」を解いて本来の女性の姿に戻る。母の職場は女子禁制だから、男のふりをしているのだ。それもいつか、条件を満たせば女性でも官職に就けるよう、公会議で制定してやると母は息巻いている。

 茶髪で壮年の男性の格好をしていた、その変身を解いた母は、腰まである黒髪は濡れたように艶めいて烏の濡れ羽色さながらに美しく、その感触は最高級の絹糸でさえその身を恥じ入るだろう。丸い額から伸びる高い鼻筋ときりりとした眉毛が、口角が上がってぷっくりとした唇と、吸い込まれそうになるほどの深度を思わせる漆黒の大きな瞳の艶めきを一層引き立てる。黒いシルクのロングスカートのスリットから零れる脚は引き締まって、時期の様にきめ細かな肌と白い肌は黒いドレスによく映えて、そのコントラストに目を惹かれる。華奢な体躯をその一部分だけで表したような鎖骨の下、バストは形もさることながら華奢な体に反してふくよかで色っぽくて、男性はおろか女性だって思わず目がいってしまう。それでいて下品さなんて微塵もなくて、品性を損なわない女性らしさが、随所から溢れ漂う。

 母は、美しい。ダニエルは町では勿論テレビの中でだって、母より美しい人を見たことがない。勿論美しさの定義や好みは人それぞれだが、母の容姿の造形美と言う芸術性の点においては、他の追随を許さないと思っている。この至上の美を持つ人に愛される身の上を、とても誇りに思う。

 そんな傾城の美貌の母が白魚のような手を差し出して、こちらへきなさい、と手招きをしたので隣に腰かけた。

「今日は何をしていたの?」

「あ、今日はお散歩してました。ブックカフェ見つけて、そこで本を読んでました」

「ふぅん」

 言いながら母はダニエルの頭を引き寄せて優しく抱く。その頭上から言った。

「道理で、煙草の匂いがするのね」

 どきっとした。母のこういうところは、実は少し苦手だ。

「あー、隣に座ってた人がずっと煙草吸ってたから、そのせいだと思います」

「へぇ、隣の人はどんな人だった?」

「え?」

 何故そんなことまで聞かれるのかと見上げると、母は何も言わず微笑んでいる。これは「さっさと答えなさい」と言う意味だ。

「えっと、確か白髪のメガネをかけたおじいちゃんでしたよ。えっとあの装丁は、確か「わたしを離さないで」だったかな? カズオ・イシグロの。あと赤いのはアガサ・クリスティだったと思います。ずっとミステリー小説を読んでましたよ」

「そう。ダニエルは何を読んだの?」

「僕は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を読んでました」

「そう」

 満足そうにして母が離れて、にっこりと笑った。

「ご飯を持ってきてくれるかしら?」

「はい!」

 やっと解放されたと安堵して、思わず返事に力が入った。


 ダニエルがキッチンに入った事を確認して、シャルロッテはサイラスに振り返った。

「ダニーはウソを吐きましたわ」

「そうか」

「あの癖は治らないみたいですわ。いくつになっても」

 ウソを吐くときダニエルは、聞いてもいないことまでベラベラと喋る。たくさんの言葉数で嘘を誤魔化したいのだろう。それに何より、ダニエルの髪から漂った香りを、シャルロッテは覚えている。

「私はあの匂いを知ってるわ」

 煙草の匂い、香水の匂い、ワックスの匂い。100年も経っているのだから、当然過去の物とは製品に違いはある。しかし、人の好みと言うのはそうそう変わるものではない。好きな味の煙草、好きな香りの香水、使用感が好みのワックス。その成分は製品が違ってもいずれも似通って、その香りは「その人の香り」となる。ダニエルから香った香りを持つ人を、シャルロッテは知っている。

「アドルフか」

 サイラスが溜息を吐いた。

「ええ」

 シャルロッテもまた。

「とうとう見つかったか」

「その様ですわね」

 溜息を零すシャルロッテに、サイラスが覗き込んだ。

「お前はどうしたいのだ? やはりあの時、殺しておくべきだったのではないか?」

「ええ……ダニーがウソを吐いたという事は、あの人は「父親」をしにやって来たのでしょう」

 突き止められるなんて思ってもいなかった、それどころか探してもいないだろうと思っていたのに。仮に探されても困らないように、クララから情報を提供してもらっていた。なのに彼は未だに探していて、とうとう見つかってしまった。

 もう、あれから100年以上経っている。いい加減忘れてくれたってよかった。忘れてほしかった。シャルロッテの事もサイラスの事も、ダニエルの事も何もなかったことにしてくれたらよかった。それなのに、今頃になってダニエルの前に父親が現れる。それ程の執着を生んだのは、彼らの血が齎すものだという事も、何とはなしにわかってはいたが。

 シャルロッテにはなんとなく、心のどこかで再び彼に再会するような、そんな予感はしていた。

「小僧を許せるか?」

 サイラスの質問に、顔を覆ったまま返事をした。

「いいえ。仮に私が許したとして、お父様は許せる?」

「いいや。しかし、もしダニエルが求めたら?」

「その時は……」

 その時は。

 ダニエルを手放すなんて考えられない。ダニエルは大事な一人息子だし、誰よりも愛している。その存在を奪われたくはないし、今更彼に父親面をされても困る。それに、彼と夫婦のふりをすることだって考えられないし、とてもではないが許せることじゃない。それでも、ダニエルが彼を父として求めたら。

「その時は、私、どうしたらいいの……」

 わからない、自分にとってダニエルにとって、何が一番いい選択なのか。

「アディ……」

 ダニエルを見ていると、時々彼を思い出す。彼を髣髴とさせる、父親譲りのセレステブルーの瞳と、父親似の顔。これは何の呪いなのだろう。ダニエルの事は愛しているけれど、彼の事はきっと一生許せない。だから、ダニエルが生まれてすぐに、男か女かも教えはしないで、それどころか彼にダニエルを会わせもしないで逃亡したのに。

「ダニーは渡さないわ。ダニーは、私の子よ」

 やはりあの時殺しておくべきだった。甚だ不服ではあったけど、ダニエルを得られたことはとても喜ばしい事だから、その点においては感謝してやってもいい。でもそれだけだ。「ダニエルを出産できた」という点以外に、彼に感謝してやる云われはない。だからその点だけ譲歩した分生かしておいてやったのに、今更になって現れてダニエルを奪いに来る。これ以上、彼に奪われたくはなかった。失う物の数を数えるのは、もうたくさんだった。

 しかし、危惧すべきはダニエルだ。あの様子では彼を気に入ってしまったらしい。もしダニエルが、父親の方がいいと彼を選んでしまったら。ダニエルの意志を優先すべきか、自分の意地を通すべきか。

 悩みはしたがそれでも、どうしても最愛の息子を手放すなんて考えられない。どうしてもどうしてもダニエルだけは。シャルロッテはきっと今後、子供を作ることなんて一生出来ないから。

「ダニーは、お前の息子だ」

「そうよ、私の息子よ。彼の子じゃないわ」

 渡してなるものか。最愛の一人息子、望まれずに生まれながらシャルロッテの愛情を独占する、これまでもこれからもたった一人の息子。将来は国の、世界中の支配者になるのだ。何においても大事なダニエルを、他人に譲り渡すなんて考えられない。

 ダニエルの父親代わりにはサイラスがいる。今更他に父親なんかいらない。ダニエルにはこれ以上、家族なんかいらない。シャルロッテとサイラス、それだけでダニエルには十分のはずだと――――。


 シャルロッテに言われて食事を持ってきたダニエルだったが、リビングの異様な雰囲気に思わず足を止めた。

「えーっと?」

「あぁ、ダニーありがとう」

 俯いていた顔を上げて、シャルロッテが手招きをした。どこか無理やり取り繕ったような愛想笑いをした。

「どうかしましたか?」

「ううん、ちょっと仕事で行き詰っていて、ブルーになっていただけよ」

「そうですか。大変ですね」

「何を他人事(ひとごと)みたいに言っているのよ。あなたもその内大変な思いをするのよ」

「あぁー……そうでした」

 改めてそう言われると、早々にブルーになってくる。それに気付いてか気付かずか、シャルロッテが頭を撫でた。

「ダニーはいい子ね」

「そう、ですか?」

「ええ、自慢の息子よ。素直で可愛らしくて賢くて。愛してるわ」

「僕も愛してますよ、お母様」

「愛してるわ、私のダニー」

 どこか感傷的にそう言って、シャルロッテはダニエルを抱きしめる。その感触に包まれることはダニエルにとっても幸せな事だったが、母の様子は少しばかり気がかりで。

「どうしたんですか?」

「ダニー」

「はい」

「私を置いて、どこかに行ったりしないで」

 どこか不安げにシャルロッテがそう言って、何故そんな気分になったのかはわからなかったが、安心させたくて敬虔な調子で言葉を返した。

「そんな事しませんよ。僕はずぅっと、お母様の傍にいますよ」

「本当に?」

「はい、本当ですよ。でも、どうして?」

 なぜ急にそんな事を言いだしたのか。そんな予定は全くないのに。

「なんでもないの」

 髪を撫でてシャルロッテが、溜息交じりに言った。

「なんでも、ないのよ……」

 ダニエルにはさっぱりわからなかったが、なんだか本当にシャルロッテがブルーになっているようだったので、それ以上は何も言わずに抱きしめ返した。






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