第3話 触れ合った指先と、専用カイロの予約 ~無愛想な彼女の反則攻撃~
◆秋風のからかいと、僕のルーツを明かす夜
秋の気配が混じる夜道。二人の歩幅は、夏の夜よりもまた数センチ、確実に近づいていた。
……が、その心地よい余韻は、不意に鳴った軽やかな音で破られた。
『チリンッ』
隣で原田さんが、自転車のベルを指で弾いたのだ。
驚きに肩を揺らした伊沢が横を向くと、彼女は夜闇に紛れるような悪戯っぽい弧を唇に描いていた。
「……伊沢さん、今、絶対に顔ボヤーっとしてましたよ」
「えっ!? 全然! ただ、あの……明日のシフトのこととか考えてて……!」
「ふふっ、嘘ばっかり。さっき赤星さんも、すっごいニヤニヤしながら伊沢さんの背中叩いてたし。……何か言われたんですか?」
急所を突かれ、伊沢は絶句した。この女子高生は、大人しそうな仮面の下で、存外鋭い観察眼を光らせている。下手な隠蔽工作は通じないと悟り、伊沢は観念して頭を掻いた。
「……赤星さんにさ、付き合ったこと言ったらさ、凄く応援してくれて。俺にとっては師匠だからさ、嬉しかったんだ」
少しだけ照れくさそうに吐露された本音に、原田さんは自転車を押す歩みをふっと緩めて、パッと表情を明るくした。
「あ、そうなんですね! 伊沢さん、赤星さんと仲良いですもんね!」
「でも、今まで原田さんのことは黙ってたからね。『言えよ馬鹿野郎!』って怒られたよ(笑)」
「あはは! そうなんですね!」
コロコロと笑う彼女の横顔を、等間隔に並ぶ街灯のオレンジ色が優しく照らし出す。その笑顔を見つめながら、伊沢はぽつりと零した。
「バイク乗るようになったのも、あの人のおかげだよ。……あの人が居なきゃ、原田さんを連れてバイクデートなんて無かったよ」
その言葉に、原田さんはふっと息を呑む。
背中越しに伝わってきた伊沢の体温と、ヘルメットの中でくぐもった風の咆哮。二人の距離を決定的に縮めたあの鉄の馬の存在の裏に、尊敬する先輩の影があったのだと知り、彼女は少しだけ感慨深そうに目を伏せた。
「そうなんですねー……ホントにお師匠さんなんだあ」
「そうだねー。あの人の生き様に思いっきり影響されてるな、俺は。あ、でも勉強は真似しようと思わないけど(笑)」
伊沢がわざとおどけてみせると、原田さんは再びくすりと笑った。
「あはは、都合良いとこだけもらっちゃってるんですね」
「そうそう」
そう言って伊沢は苦笑いする。
◆触れ合った指先と、カイロ代わりの約束
涼やかな夜風が、二人の間を吹き抜けていく。遠くの国道を走る車の音が、どこか心地よいBGMのように響いていた。
しばらく無言で歩いていると、ふと原田さんがハンドルの持ち手を代え、小さく息を吐くのが目に入った。
「……自転車、代わるよ」
「え? いいですよ、あたしの自転車ですし」
「いいから。バイト上がりで疲れてんだろ」
強引にならない程度に、伊沢はハンドルへ手を伸ばした。
その瞬間。夜の闇に紛れて、少し冷え始めた原田さんの指先と、伊沢の指が不意に重なった。
お互い、声には出さなかったが、ビクッと小さく肩が跳ねる。
伊沢が慌てて自転車を引き取ると、原田さんはサッと手を引っ込めた。気まずいような、くすぐったいような、甘い沈黙が降りる。
伊沢が車道側を歩き、自転車を挟まなくなった分、原田さんとの物理的な距離が、先ほどよりもまた数センチ縮まっていた。
不意に手持ち無沙汰になった彼女は、自分の服の裾をきゅっと掴みながら、少しだけ俯き加減で歩いている。
「……伊沢さんの手、あったかかったです」
ぽつりと落とされた呟き。
伊沢の心臓が、警鐘のように大きく跳ねた。金属製のハンドルを握り潰さんばかりに力を込め、必死に前だけを向いて平常心という名の防波堤を築く。
「そ、そうかな。俺、体温高めだから……」
「ふふっ。じゃあ、これからもっと寒くなったら、カイロ代わりですね」
冗談めかした言い方だったが、彼女の声も少しだけ上ずっていた。
横目で盗み見ると、等間隔の街灯に照らされたその横顔は、先ほどよりもはっきりと朱に染まっている。
気の利いた返しなんて、思い浮かぶはずもない。
まだ、手も繋げない。ただ横に並んで歩いているだけ。
それでも、服の裾を握る彼女の左手が、伊沢の右腕にほんの数ミリの距離まで近づいているという事実だけで、伊沢の胸は張り裂けそうだった。
「……うん。いつでも、カイロになるよ」
絞り出すようにそう答えると、隣で「ふふっ」と、今日一番の小さくて柔らかい笑い声が聞こえた。
◆交差点の魔法と、専用カイロの予約
やがて、前方に点滅する黄色い信号機が見えてきた。原田さんの家へ続く、見慣れた交差点だ。
楽しい時間は、どうしてこうも早く過ぎてしまうのだろう。伊沢の歩みが無意識に遅くなると、それに合わせるように原田さんの足取りもゆっくりになった。
「……伊沢さん、ここまでで大丈夫です」
交差点の角で立ち止まり、原田さんが振り返る。
名残惜しさを胸の奥に押し込んで「おう」と短く返し、伊沢は自転車のハンドルを彼女の方へ押し出した。
原田さんが両手を伸ばし、ハンドルを受け取る。
——その時だった。
持ち手を代わる一瞬、再び二人の指先が触れ合った。
先ほどは弾かれたように引っ込めてしまった彼女の手が、今度は逃げない。それどころか、ひんやりとした彼女の指が、伊沢の温かい指の関節に、そっと数秒間だけ触れ続けたのだ。
時が止まったかのような錯覚。
早鐘を打つ心臓の音が、静かな夜の交差点に響き渡ってしまいそうだった。
「……予約、しときますね」
伏せ目がちに、原田さんが小さく囁く。
「え……?」
「明日のバイト終わりも、あたしの専用カイロ……空けておいてください」
パッと顔を上げた彼女の瞳には、街灯の光がキラキラと反射していた。
それだけ言い残すと、彼女は耳まで真っ赤に染まった顔を隠すように、くるりと背を向ける。
「じゃあ、おやすみなさい! また明日!」
逃げるように小走りで自転車を押していくその後ろ姿は、どう見ても照れ隠しだ。
ポツンと残された伊沢は、右手に残る微かな冷たさと柔らかい感触を逃さないように、ゆっくりと拳を握り込んだ。
「……あんなの、反則だろ」
誰もいない夜の交差点。
伊沢は一人、だらしなく緩みきった顔を秋の夜空に晒し、肺の底に溜まっていた熱い息をゆっくりと吐き出した。
お読みいただき、ありがとうございます。
1993年のあの頃を思い出しながら、一筆一筆、熱量を込めて書きました。
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