第2話 震える休憩室と、答え合わせの夜道 ~無愛想な彼女が笑う理由~
◆晴れゆく暗雲、人生の師の登場
九月。バイト先の休憩室。今日は原田さんが休みだ。伊沢は一人、パイプ椅子に深く腰掛けながら、ぼんやりと彼女の顔を思い浮かべていた。
思えば、怒涛の勢いでここまで来たものだ。少し前まで、前回の恋愛の破局による手酷いダメージで意気消沈していたのが嘘のようである。原田さんが現れたおかげで心の暗雲は九割方晴れ、今はこれからの交際への期待が、胸の大部分を温かく占めていた。
カレンダーは秋の始まりを告げている。学校が始まれば遊ぶ機会は減るが、バイト後の「送り」という確実なイベントがある。まずはそれだけでも万歳といったところだ。
今後の展開に想いを馳せ、胸を躍らせていた不意に、後頭部に「バシッ!」と小気味良い平手打ちを食らった。痛みよりも先に、ぞくりとするような気配の圧が背中を撫でた。
「……おい。お前、何ボーッとしてんだよ」
背後から、呆れと親愛の混ざった声が響いた。振り返らなくてもわかる。そこに立っているのは、伊沢が人生の師と仰ぐ男——二十一歳の大学生、赤星さんだ。
年齢差はたったの三つ。だが、彼が纏う人生の経験値と凄みは、高校生の伊沢とは比べ物にならない。この男の鋭い眼光にかかれば、伊沢の胸の内などレントゲン写真を透かしたように看破されてしまう。伊沢が彼を敬愛しているのと同じくらい、赤星もまた、伊沢を弟分として熱烈に可愛がってくれていた。
この男に隠し事など、プロの鑑定士に拙い贋作を売りつけるようなものだ。
「あ、お疲れ様です」
「なんだよ、ボーッとしやがって。お前、最近色々あったからな。あれからどうだ? 元気でたか?」
赤星さんは伊沢の失恋のことも勿論知っており、ずっと陰から見守っていてくれたのだ。だが、原田さんのことは今まで一言も言えなかった。まだその段階ではないと、自分の中で無意識にブレーキをかけていたからだ。しかし、そろそろいいだろう。
◆震える休憩室と、呆れるほどの温かい熱量
意を決して、伊沢は喉の奥でつかえていた言葉を、思い切りよく絞り出した。
「……あの、赤星さん。俺、彼女できたんです」
一瞬、時が止まった。
次の瞬間、休憩室の壁がビリビリと震えるほどの怒号が飛んできた。
「はあ!? お前、陰で何してたんだよ!! お前と俺の仲だろ!! 言えよバカ!!」
パイプ椅子が軋むほどの勢いで身を乗り出し、立て続けに、もう一発頭にツッコミを食らう。痛いというより、驚きと、それ以上に「面白そうな話がやってきた」という猛禽類のようなギラついた好奇心が、赤星の瞳の奥で乱舞していた。
「いつからだよ! 誰なんだよ!?」
詰め寄る赤星の勢いに圧倒されながらも、伊沢の胸には不思議な安心感が広がっていた。呆れながらも、その言葉の端々には、弟分の「吉報」を誰より喜んでいる不器用で温かい熱量が、確かに混ざっている。
「……すみません、余裕なくて」
「馬鹿野郎! 余裕なんて要らねーよ! そういうのは逐一報告しろ!! ……しかしお前、心配してたから良かったよ! ムカつくけどな!」
赤星はニカッと白い歯を見せ、誰よりも嬉しそうに破顔した。
◆刑事の尋問と、彼女が笑う理由
「で、誰なんだよ? どこで見つけた?」
赤星さんはベテラン刑事の尋問さながらに、逃げ道を塞ぐようにガツガツと踏み込んでくる。
「あの……えーと……この中にいます……はい……」
この場において『この中』と言えば、バイトの同僚であることは、二人の間に培われた阿吽の呼吸で容易に伝わる。
「はあ!!?? 全然気が付かなかったぞ!? 誰だ!!??」
「……原田さんです……」
「な、なにい!!?? いつからだ! おい!」
「えーと……付き合ったのは八月の末で……手を付けたのは……七月、初デートは八月はじめで……」
見栄と気恥ずかしさが混ざり、しどろもどろになりながらも伊沢は時系列を自白していく。
「お前な! ……この野郎! はやく言えよそんな面白い話!! なんで黙ってたんだよバカ!!」
赤星さんは呆れたように笑いながら、もう一度伊沢の頭を軽く小突いた。
その後、伊沢は観念して、これまでの原田さんとの経緯を大まかに白状した。師匠――赤星さんは、伊沢の青臭い恋話を、時に腹を抱え、時に目を細めながら、心からの笑顔で聞いてくれた。
一通り顛末を聞き終えると、赤星さんはふと真顔に戻り、宙を見つめた。
「……言われてみればなあ。最近、原田さん、なんか笑顔が増えたと言うか、生き生きしてるように見えたなあ」
ぽつりと零れ落ちた呟きに、伊沢は目を瞬かせた。それは、鋭い観察眼を持つ男の、嘘偽りのない分析結果だった。
「そうでしたか?????」
「ああ。あいつ、元々そんなに愛想振りまくようなタイプじゃなかったろ? それが言われてみれば最近、妙に明るくなったというか、雰囲気が柔らかくなったよな」
「そ、そうですか……」
客観的な第三者の、しかも誰より尊敬する師匠からの証言。それは伊沢の胸の奥を、くすぐったいような、それでいてひどく誇らしいような温かい感情で満たしていった。
無愛想だった彼女の笑顔の理由が、他ならぬ自分であるという事実。それは伊沢にとって、何よりの勲章だった。
「まあ! 勿論応援するからよ! うまくやれよ!」
照れ隠しに俯く伊沢へ向け、赤星さんは本日一番の満面の笑みとともに、力強いサムズアップを送った。
◆師匠の証言と、答え合わせの夜道
――数日後の、原田さんの出勤日。
バイトの閉店作業が終わる。裏口から外に出ると、九月の夜風が心地よく火照った体を冷やしてくれた。
「お疲れ様ですー」
自転車を押しながら、原田さんがにこやかに笑う。その後ろ姿を追いかけようとした伊沢の背中を、ドン、と力強い手が叩いた。
振り返ると、私服に着替えた赤星さんがニヤニヤと笑っている。
『おう。しっかり送ってやれよ!』
声には出さず、口の動きだけでそう発破をかけられ、背中に師匠の熱い視線を受けながら、伊沢は小さく頭を下げて早足で原田さんの隣に並んだ。
カラカラと鳴る自転車のチェーン音。二人の間に流れる空気は、夏の盛りだった頃よりもほんの少しだけ涼しく、澄んでいる。
伊沢は歩きながら、隣の彼女の横顔を盗み見た。
『最近、原田さん、なんか笑顔が増えたと言うか、生き生きしてるように見えたなあ』
先日、赤星さんが尋問の果てに残した「証言」。それを検証するように、伊沢の視線は自然と彼女の表情を探ってしまう。
等間隔に並ぶナトリウムランプのオレンジ色の光が、原田さんの顔を淡く照らし出す。
……本当だ。
付き合う前の、どこか無機質で愛想を振りまかなかった頃に比べると、確かに以前よりにこやかになった気がする。ただ自転車を押しながら前を向いているだけでも、その口角は微かに上がり、纏う空気がひだまりのように柔らかく解けている。
その決定的な変化の要因が他ならぬ「自分」であるという事実は、伊沢の心臓を心地よく、そして誇らしく締め付けた。
「……伊沢さん?」
不意に視線に気づいたのか、原田さんが首を傾げてこちらを見上げた。
「あ、いや……」
「なんか、あたしの顔に付いてます?」
「いや、そうじゃなくて……なんか、原田さん、最近よく笑うようになったなって思って」
誤魔化すのも惜しくて、伊沢はつい正直な感想を口にこぼしてしまった。
原田さんは一瞬きょとんとした後、照れ隠しのようにふにゃりと笑った。
「……そうですか? 自分じゃわかんないですけど……でも」
彼女は少しだけ俯き、自転車のハンドルを握る手にきゅっと力を込める。
「バイトの帰り道が、前よりも楽しいのは……本当です」
静かな夜の空気に溶けたその一言は、どんな名画のセリフよりも真っ直ぐに伊沢の胸を貫いた。
伊沢の脳内で、赤星さんのサムズアップが幻影のように浮かび上がる。
「……そっか。俺もだよ、へへっ……」
秋の気配が混じる夜道。二人の歩幅は、夏の夜よりもまた数センチ、確実に近づいていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
1993年のあの頃を思い出しながら、一筆一筆、熱量を込めて書きました。
もし「続きが気になる!」「エモい!」と感じていただけたら、【ブックマーク】や【評価(☆☆☆☆☆)】で応援いただけると、執筆の大きな励みになります!




