第1話 眠りを守る侍女
人が動き出す前の時刻。
公務の廊下に近い一室だけが、
まだ暗さを残している。
扉の外は、完全には眠らない。
紙の束が擦れる気配。封蝋の匂い。
遠ざかる靴音と、戻ってくる靴音。
ここは、目を閉じた人間にまで、
用事が追いつく場所だ。
侍女のフィオナは、それでも部屋を切り離す。
眠りを削るものは、光と音だけではない。
“急ぎ”という言葉もまた、人を起こす。
私は、ユメリア様の眠りを守る。
誰に命じられたわけでもない。
私は勝手に決めて、勝手に従っている。
眠りが削られれば、ユメリア様は静かに壊れる。
壊れれば、王都は平然と「仕方ない」と言う。
――だから、眠りだけは渡さない。
部屋の空気は、夜のままにしておく。
窓の縁に指を滑らせ、
カーテンの重なりを整え直す。光は刃物だ。
細い一筋でも刺されれば、
夢の余韻は裂け、“回復”は遠のく。
床板の鳴る場所は覚えている。
踏まない。音もまた刃だ。
音が立つほど、ユメリア様の神経は張り、
睡眠が浅くなる。
湯を運ぶときは、湯気の量で温度を読む。
熱すぎれば眠りは逃げ、
ぬるすぎれば身体が起きない。
今日の湯は、いつもより半息分だけ冷ました。
――夢を見る朝は、身体が火照る。私の経験則だ。
机の上には、
白い布を一枚。紙の反射光を殺すため。
封蝋を切る刃は隠す。
刃は“今日やるべきこと”を生む。
今日、ユメリア様に必要なのは刃ではなく、
眠りだ。
私はカップと皿を、音を立てずに置いた。
「お嬢様、今日は“寝るべき日”です」
返事はない。
ベッドの中の影が、
ほんのわずかに動いただけだ。
私はため息を飲み込み、
代わりに耳を澄ませる。呼吸の深さ。間。
喉の鳴り。――一拍、止まった。
背筋が冷える。
光でも音でもない。
これは、内側から起きる“揺れ”だ。
「……最悪の夢を見た」
布越しに落ちてきた声は、
怒りより先に疲労があった。
ユメリア様の声は、眠れている日は柔らかい。
今日は硬い。硬い声の日は、
決まって“回復”が足りない。
私はカップをそっと押し出す。
「お茶を。口を湿らせてください」
「……いらない」
「では水を。水だけで構いません」
「……」
拒否の仕方が、いつもより弱い。
私は勝った、と判断した。
勝ったからといって喜ばない。
勝っても、次に負ける可能性は常にある。
眠りを守る仕事に“勝ち”はない。
あるのは、負けない工夫だけだ。
ユメリア様の唇が少し動き、
何かを言いかけて、飲み込んだ。
その癖を、私は知っている。
言葉の形だけが喉の奥で残る日がある。
今日のそれは、短い。柔らかい音だった。
――ユメ。
私は顔に出さない。出せば、質問が生まれる。
質問は会話を増やし、会話は覚醒を招く。
ユメリア様の“その音”は、
起きている間に決して口にされない。
眠りの中でだけ、たまにこぼれる。
私はそれを拾い、
胸の奥に沈めるようにしまってきた。
壁の向こうで、靴音がした。二人分。
歩幅が揃っている。
軍人でも侍従でもない。
紙の束を抱えた人間の歩き方だ。
急がないのに、躊躇もしない。
――封蝋とインクの匂いが、廊下から先に届いた。
私は先に扉の前に立った。鍵はかけてある。
だが鍵は万能ではない。
王都では、鍵より強い“言葉”がある。
控えめなノック。
「アルカディア令嬢。失礼いたします」
私は目を閉じ、一拍だけ数えた。
扉の向こうの人間が、
どれだけ礼儀正しくても関係ない。
礼儀正しい声ほど、
命令は滑らかに部屋へ侵入する。
「本日はご静養中です」
「承知しております。
ですが――急ぎの公務でございます」
「急ぎ、という言葉は毎日聞きます」
「これは、王都の――」
そこで私は遮った。
遮るのも音だ。だから必要最小限にする。
「書面をください。扉の下から」
一瞬の沈黙。相手は躊躇した。
躊躇は、こちらに有利だ。
ルールがない場所では声が勝つ。
だがルールを作れば、声は一段落ちる。
紙が、扉の隙間を滑った。
私は拾う前に、反射光を確かめる。
封蝋の色。紙質。端の印。
“急ぎの公務”の紙は、重い。
触れるだけで眠りが削られる。
背後で、ベッドが軋んだ。
ユメリア様が、起きようとしている。
私は振り向かず、声だけを落とした。
「お嬢様。今日は寝るべき日です」
「……聞こえた。公務って言った」
「言いました。いつも言います」
「……今日は、違う」
なぜ分かるのか。
ユメリア様は目を開けていないのに、
こういう“違い”だけを当てる。
夢を見る朝の勘の鋭さは、
私の経験則でも説明しきれない。
私は紙を開かないまま、
封の刻印だけを指でなぞる。
アルカディア家の紋ではない。
王家でもない。だが王都の中心に近い匂いがする。
――嫌な予感が、部屋に入った。
「……フィオナ」
呼ばれた。
私はようやく振り向き、ベッド脇に戻る。
ユメリア様の瞼は半分。
起きているのに、まだ眠りの中にいる顔だ。
「開けないで」
「はい」
「でも、読み上げて」
「……承知しました」
私は紙を胸の高さで止め、
まず一番上の宛名だけを読んだ。
そこから先は、刃になる。
――アルカディア令嬢。
――本日、至急。
その二行で、十分だった。
ユメリア様の喉が小さく鳴り、息が浅くなる。
起きる。これ以上、起こしてはいけない。
だから私は、次の手順に入る。
――音を殺す。紙も、声も。
私はカップを持ってベッド脇へ戻り、
皿をそっと置いた。
「お水をお持ちしました。喉だけでも」
「……いらない」
「承知しました。こちらに置いておきます」
「……」
置く、だけでいい。
“飲ませる”は争いを生む。争えば、眠りが遠のく。
扉の向こうの気配は、まだ残っている。
待つという形で圧をかけてくる。
私は扉に向けて声を落とした。
「返答は書面で。口頭は不要です」
「……承知しました」
返事が早すぎる。丁寧すぎる。
嫌な種類の“素直さ”だ。
けれど、予感に付き合わない。
いま必要なのは、
ユメリア様の目を閉じさせること。
ベッドの中で布が少し動いた。
「……まだいる?」
「います」
「……追い返して」
「追い返します」
扉の下から、紙が滑ってきた。
私は拾い上げ、封蝋だけを見る。白い。
ユメリア様の声が、枕の奥から出る。
「……何、来たの」
「追加の書面です」
「白?」
「はい。白い封です」
「最悪」
「開けません。お嬢様の前では」
短い沈黙。
「……じゃあ、何も分からない」
「分からなくて大丈夫です。今日は」
「今日は、って……」
ユメリア様が身を起こしかける。
私は即座に言葉を差し込んだ。
「寝ます。――いいですね」
「……分かってる」
「分かっている方は、もう少し目を閉じます」
「……夢、見たの」
そこだけ、声が弱い。
私は頷き、頷いた分だけ言葉を短くする。
「そうですね。だから、なおさらです」
「……でも」
「でも、は後で。いまは、
眠りを優先してください」
机に戻り、返事を二行で作る。
体調不良につき面会不可。
用件は書面で――それだけ。
紙を扉の下へ返すと、向こうの気配が一拍遅れた。
そして、すぐ次が来る。
また一通。今度の封は、黒い。
私は指先で封蝋を撫で、喉の奥で息を止めた。
黒は、決め事の色だ。
逃げ場を狭くする種類の“決定”の色。
「……また?」
「はい」
「やだ」
「私も、嫌です」
その一言で、ユメリア様の呼吸が少しだけ戻る。
「……読む?」
「お嬢様は読まなくて大丈夫です」
「でも……知りたい」
「知りたいのは分かります。
ですので、私が先に確認します」
封を切る。音が立たないように。
中身を全部は追わない。宛名と、行き先だけ。
――フォグランタン。
――ホワイトセイル・ワード。
指先が、冷えた。
「……フィオナ」
「はい」
「……今、止まった」
「止まっていません」
「止まった」
「……息が、少しだけ浅くなりました」
言い換えれば、嘘にならない。意味は伝わる。
ユメリア様は、その“浅さ”だけで察する人だ。
「……どこ」
私は言葉を選ぶ。余計な言葉は言わない。
「……フォグランタンです」
「……フォグ……」
ユメリア様の瞼が、ゆっくり開いていく。
眠りが切れる音がした。
「それ、貸して」
「一行だけです」
「一行だけ」
「……約束できますか」
「……できる」
私は紙をそっと差し出した。
ユメリア様の指が触れた瞬間、
部屋の空気が変わる。
そしてユメリア様の視線が、地名に吸い込まれた。
その目は、もう眠りの中の目ではなかった。
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