第三話 いざ歩まん! 迷宮ダンジョン!
それから数日後。
私は屋敷ではなく、王城の中庭で、完璧な笑顔を浮かべていた。
七歳の頬はまだ柔らかいのに、口角だけは王妃用に育ってしまっている。
――嫌だね、本当。
白い石畳。噴水の水音。香草の匂い。
視界の端で忙しく動く侍女と騎士たち。足音すら、うるさくならないように調整されている。
この国は「星冠」という、星の名を借りた象徴を戴く国だ。
この世界では、王が王である理由を血筋だけで押し切らない。
星の紋章、星の儀式、星の祝福。そういうそれっぽい正当性が、王冠よりも強い。
そして、その正当性の一番わかりやすい証明が――恋愛。
『星冠のアルカディア』。
前世で遊んだ乙女ゲームのタイトル。
王権は恋愛で安定する。
花嫁が王の心を整える。
恋が政治の安全装置。
(……今思うと、可愛い顔して物騒だな)
私は笑顔のまま、目の前の人物を見上げる。
王太子殿下。名は――ディオン・レオグラン。
まだ十代後半のはずなのに、姿勢が良くて、肩の線が真っ直ぐで、纏う空気が静かだ。髪は淡い金。陽に当たると白く見える。瞳は薄い青で、遠くを見るときほど色が冷える。
顔立ちは整っている。整いすぎて、逆に疲れが似合うタイプ。
真面目そう。たぶん誠実。
そして――少し頼りない。
「エルナ嬢、本日は来てくれてありがとう」
声も穏やかだ。怒鳴るのが下手そう。
いや、怒鳴れない人、かも。
私は礼儀の角度で頭を下げる。
「お招きいただき光栄です、殿下」
口が勝手に滑らかに動く。
この身体、社交に最適化されすぎてて怖い。便利だけど。
お茶会――と言っても、ほぼ確認だ。
婚約者としての立ち位置。
王太子の隣に立つべき人間が、それを理解しているか。
未来の王妃としての私を、視線がなぞってくるのが分かる。
値踏みじゃない、と言いたいところだけど、結果としては似たようなものだ。七歳に向ける目じゃない。
王太子の背後、少し離れた場所。
中庭の端に控えている、ひとりの少女がいた。
淡い栗色の髪。控えめなドレス。
けれど背筋は真っ直ぐで、目だけが妙に落ち着いている。落ち着きすぎている。
ヒロイン。――セレナ。
『星冠のアルカディア』の中心。
星冠に選ばれし花嫁。
王太子の真実の相手。
彼女は控えめに頭を下げる。
「本日は、お目にかかれて光栄です。エルナ様」
声は柔らかい。表情も謙虚。
でも、目の奥の芯が違う。揺れていない。
(この子、分かってる)
同じ世界に放り込まれた転生者か、
もしくは――そういう役割として完成してる子。
どっちにせよ厄介だ。
善良で、真面目で、ゲームを愛しているタイプは特に。自分が正しいと思って疑わないから、ブレーキをかける理由がない。
ディオン殿下が、少し嬉しそうに言う。
「最近、平民の暮らしについて学び始めていてね。セレナの意見はとても新鮮で……」
(最近ね)
最近という言葉が、やけに刺さる。
私は七歳で王妃教育してるのに。
学ぶとか、生活とか、何から何まで順番がおかしい。
セレナが微笑む。
「もったいないお言葉です、殿下。私はただ、思ったことを申し上げただけで……」
その言い方も、ちょうどいい。
謙虚で、出しゃばらず、でも印象に残る。
一歩下がって見せながら、視線は確実に中心へ寄せる。上手い。
――イベント発生。
ゲームではこのあと、王太子とヒロインが噴水を見に行く。
私は横にいるのに、会話は二人で完成する。
そして好感度が上がる。
(あ、これ……もう、決まってる)
私は嫉妬しない。焦りもしない。
ただ、理解だけがある。
私はこの物語の装置。
盛り上げるための背景。
最後に退場する役。
ディオン殿下が、こちらを見た。
「エルナ嬢は、どう思う? セレナの言う民の声について」
振られる。
婚約者としての正解を求められる。
私はにこりと微笑む。
「素晴らしいことかと存じます。殿下が目を向けられるほど、国は強くなります」
完璧。
でも、胸は動かない。
(私はここに、いらない)
セレナが噴水の方へ視線を向けて言う。
「エルナ様も、ぜひ中庭をご一緒に。あちらの噴水、とても綺麗なんです」
にこり。
誘い方が上手い。断りにくい言葉だけ選んでくる。
ディオン殿下も頷く。
「そうだね。歩きながら話そう」
三人で歩く。
でも中心は、二人。
私の役割は、整えて、相槌を打って、邪魔をしないこと。
邪魔をしない婚約者。便利な肩書だ。
(――つまらない)
その瞬間、胸の奥がかすかに熱を持った。
鼓動が一拍、遅れる。
風が吹く。木々がざわめき、ドレスの裾が揺れる。
香草の匂いが一瞬だけ切れて、代わりに金属みたいに冷たい空気が混じる。
でも殿下もセレナも気づかない。
私だけが気づく。
中庭の奥。立ち入りを禁じられている区域の片隅。
そこに、裂け目のような風の渦状のゲートが浮かび上がっていた。
風が巻いている。
空気が引っ張られている。
目で見えるほど、そこだけ軽い。
(……まさか)
思い出す。
『星冠のアルカディア』の迷宮。
風の元素の源が眠るダンジョン。
終盤解放エリア。王太子ルート限定。
――今の時点では、出ないはず。
なのに、ある。
胸の奥の熱が強くなる。
星が瞬いたみたいな感覚。心臓が勝手に合わせてくる感じ。
(風の元素の源……?)
本来ならまだお目にかかれない白物。
その源が、私の方を見てる気がする。
理由は分からない。
でも、こういうのは一回逃すと終わる。――経験則だ。ゲームでも人生でも。
「エルナ嬢?」
背後からディオン殿下の声。
振り返らない。
王妃になるために転生したわけじゃない。
断罪されるためでもない。
私は――私が面白いと思う人生を生きる。
一歩、後ずさる。
誰にも気づかれない角度で。噴水へ向かう足取りから、すっと外れる。
セレナは殿下に話しかけている。
物語は予定通り進もうとしている。
中心から、私は降りる。
風の裂け目の前に立つ。
足が震える。七歳の身体は正直だ。怖い。
でも、胸が鳴っている。
整えられた未来より、未知の危険の方が鮮やかだ。
「……悪くない」
小さく呟いて、私は飛び込んだ。
⸻
次の瞬間、視界が反転した。
重力が消える。
足元に、床がない。
「え」
思わず声が漏れた。
目の前に広がるのは巨大な空洞。下は見えないほど深い。
落ちたら終わり。終わる予感しかしない。……っていうか、終わる。
中央に浮かぶ石の足場。
遠く、対岸にも同じような台座。
そして吹き荒れる風。
(あ、これ)
思い出す。
風渡り。
迷宮の第一ギミック。
床は存在しない。風の流れに乗って、足場から足場へ移動する。
魔力で風を掴み、推進力に変える。
失敗すれば落下。
落下=ゲームオーバー。
「……七歳スタートでこれはキツくない?」
誰もいない空間に、軽く文句を言う。
でも口元が勝手に上がる。
怖い。
でも――楽しい。
胸の奥の風の感覚が、静かに脈打つ。
風が呼応するみたいに強くなる。髪が浮く。袖がばたつく。
私は息を吸って、指先に意識を集めた。
(魔力を、風に混ぜる)
火みたいに燃やすんじゃない。
水みたいに流すんでもない。
風は――乗る。
まず風の向きを読む。右から左。
真ん中に上昇気流が一本。
足場の縁に、渦の癖がある。
(いける。たぶん)
問題は体力。
魔力はある。器用さもある。
でも体は七歳。
一回で決めないと、膝が笑って終わる。
私は足元の石を見て、つま先で縁を確かめた。
滑らない。表面はざらついている。
足場は人が使う前提で作られてる。
(……つまり、ここは誰かのための場所)
誰かが攻略するための迷宮。
誰かを導くためのダンジョン。
そう思った瞬間、背中が少し寒くなった。
けれど今は考えない。
私は一歩、踏み出す。
身体が宙に浮いた。
風が背中を押す。
浮いた瞬間、胃がひゅっと持ち上がる。
落ちる――と脳が叫ぶ。
直前で、魔力を解放した。
風が受け止める。
受け止めた、というより――掴んだ。
背中の布がぱんと膨らむ。
足元が空のまま、身体が前へ滑っていく。
「わっ……!」
声が裏返る。
でも止まらない。止まれない。
対岸の足場へ、叩きつけられるように着地。
「……っ」
膝が震える。足裏がじんじん痛い。喉が乾く。
でも、落ちていない。
《魔力操作(中級)》熟練度が上昇しました。
半透明の表示が浮かぶ。
今それ出る!? と思いつつ、ちょっと嬉しいのが悔しい。
私は肩で息をして、周囲を見回した。
王城の中庭。王太子。セレナ。
もう遠い。この空洞には噴水の音なんて届かない。
ここは、誰の物語でもない。
――私の選択の結果。
足場の先に、次の台座がある。
けれど風の流れがさっきより複雑だ。渦が二つ。上昇と下降が交互に混じっている。
(……なるほど。難易度上げてきたな)
私は小さく笑って、唇を噛んだ。
そのとき。
足元の石に、薄い星型の紋が浮かんだ。
一瞬だけ。
呼吸に合わせて、淡く点滅する。
(……なに、それ)
触れようとすると、すっと消えた。
でも見られた感じだけ残る。試された感じも。
星が、私の行動を記録しているみたいな。
(……元素の源って、ほんとに何なの?)
答えは出ない。
でも、ここに来た理由は一つ。
決まりきった毎日は、もうたくさん。
私は、心が踊る方へ行く。
風がまた吹く。今度は冷たく、髪を持ち上げる。
私は次の足場を見据えた。
「……いざ、歩まん」
整えられた未来じゃなく、自分で選ぶ未来へ。
足場の縁に立つ。
風の癖を読む。
指先に魔力を集める。
そして――次の一歩を、空へ投げた。




