深夜の転落とジンの香り(1/3)
ボストンの冬は、慈悲という言葉を知らない。チャールズリバーから吹き付ける凍てつくような風が、改修工事中のオペラハウスの隙間を通り抜け、鋭い口笛を鳴らしている。
「……あと、少しだけ」
レイチェル・ブライトンは、地上十五メートルの足場の上で、独り言を漏らした。冷え切った指先が、わずかに震えている。それは寒さのせいだけではない。一週間に及ぶ不眠不休の強行軍、そしてこの歴史的建造物を完璧に修復しなければならないという重圧が、彼女の神経を一本の細い糸のように磨り減らしていた。
作業灯の無機質な光が、石膏の粉が舞う空間を照らし出す。天井のバロック様式の装飾に刻まれた、髪の毛ほどの微細な亀裂。それを見逃すことは、彼女のプライドが許さなかった。
(ここで妥協したら、彼に何を言われるか分からない)
脳裏をよぎるのは、氷のような瞳をした一人の男の顔だ。ルーク・サリバン。このプロジェクトの出資者であり、かつて建築家として同じ事務所でしのぎを削った、最大の宿命のライバル。
「レイチェル、君の完璧主義は病気だ。いつか自分を壊すぞ」
数年前、彼が去り際に放った言葉が、呪いのように胸の奥にこびりついている。ルークは今や「再建の鬼」と呼ばれる冷徹な投資家として、この歴史ある劇場を単なる「収益物件」として評価している。一方、彼女はここに魂を吹き込もうとしていた。
ふいに、背後で空気が動く気配がした。
工事現場の埃っぽい匂い、そして古い石材の匂いとは明らかに異質な、研ぎ澄まされた香りが彼女の鼻腔をくすぐった。冷えたジンのボタニカル——ジュニパーベリーの鋭い清涼感と、その奥に潜むほろ苦いカカオの重厚さ。そして、雷雨が降り出す直前の空気が帯びるような、清潔で暴力的なまでのオゾンの匂い。
振り返るまでもなかった。彼だ。
「こんな時間に、安全ベルトもせずにその高さか。君の正気は、ボストン湾の底にでも沈めたのか?」
その声が、静寂を切り裂いた。それは、最高級の万年筆が、厚手のベラム紙の上を滑る時に出す音に似ていた。滑らかで、それでいて重みのある摩擦音を含んだバリトンで、聴く者の背筋を冷たく撫で上げるような響き。
レイチェルは強張った指先で鉄骨を掴み、ゆっくりと振り返った。
「サリバン氏。……アポイントメントは明日のはずですが」
足場の下に立つルーク・サリバンは、完璧に仕立てられたチャコールグレーの三つ揃えのスーツに身を包んでいた。粉塵の舞う現場にあって、彼一人だけが異界から来た貴族のような異彩を放っている。
「君の助手が泣きついてきた。主任建築家が過労死しては、投資の回収が遅れると言ってね」
「エレンのやつ……余計なことを」
レイチェルは虚勢を張って鼻で笑おうとしたが、視界がふらりと揺れた。コンシーラーで隠したはずの目の下の隈が、激しく疼く。指先の震えが止まらない。
「降りてこい、レイチェル。これは命令だ」
「断ります。このひび割れの注入作業が終わるまでは——」
「命令だと言ったはずだ」
ルークの声に、逆らいがたい重圧が宿る。レイチェルは彼を睨みつけようと一歩踏み出した。だが、その瞬間、長靴の底が湿った石膏の粉を捉え損ねた。
「あっ——」
世界がスローモーションに変わる。掴んでいたはずの鉄骨が手からすり抜け、重力が彼女の体を冷酷に引き寄せた。
死の恐怖よりも先に、彼の前で醜態を晒すことへの屈辱が脳を支配する。しかし、硬いコンクリートの床が背中を砕く衝撃は、ついに訪れなかった。
「……馬鹿者が」
衝撃の代わりに彼女を包み込んだのは、鋼のように硬く、そして信じられないほど熱い、強靭な腕だった。
ルークは彼女を、まるでお姫様抱っこのように抱きとめていた。近すぎる距離。彼の胸元から、あの「ジンとオゾン」の香りが、圧倒的な質量を持ってレイチェルの意識を支配する。
「離して……自分で歩けるわ」
「指先を震わせ、今にも気絶しそうな女が何を言う」
ルークの瞳が、怒りと——そしてそれ以上に深い、暗い欲望のような色を帯びて彼女を射抜いた。彼はレイチェルを下ろそうとせず、そのまま大股で劇場の出口へと向かい始めた。
「どこへ行くつもり?現場はまだ——」
「現場も、君のプライドも、今夜は私が預かる」
ルークの万年筆が紙を滑るような声が、彼女の耳元で低く響く。
「今から君を連行する。私の支配下 (スイート)へ。反論は却下だ」
ボストンの凍てつく夜の空気の中、レイチェルは彼に抱かれたまま、抗う気力さえも奪われていった。




