23.麻里奈の風邪①
譲は部屋に入ると、脱いだ靴を持ってそのままバスルームへ直行した。そして、着ていた服も脱ぎ、全てまとめてダストボックスへ押し込んだ。
「くそっ……」
血の臭いが染み付いて取れない。バスルームに入り、勢いよくお湯を出す。最初は冷たい水だったが、血の臭いに比べればマシだ。
そのまま浴びていると直ぐに水はお湯に変わる。だが、血の臭いが取れた気はしない。
臭いで上書きしようと、シャンプーを手に取り、髪を洗う。ふわりと舞う花の香りに、少しずつ血の臭いが上書きされていく。
ふと思い立って、浴槽にお湯を貯めてみる。普段はシャワーはおろか、必要に迫られなければ風呂に入ることすら嫌う譲にしては、珍しい事である。
ある程度湯が溜まったのを見計らって、入浴剤を入れる。るいざに薦められたカモミールの香りの入浴剤だ。
シャンプーを流すと、ボディソープで身体を洗い、湯船に入ると下降していた気持ちも、いくらかマシになってきた。たまにはこんな贅沢も良いようだ。
そのままぼんやりと湯に浸かっていると、今日の出来事が浮かんでは消える。
「考えてみれば、あの部屋を見たのがオレだけで良かったのかもな」
克己はともかく、るいざや麻里奈にはあまり見せたくはない光景だ。
そして、いつ自分の身に降りかかるか解らない光景でもある。
「……」
でも、今だけは、全てを忘れてぼんやりしたい。
譲はそのまましばらく、ぼんやりと湯に浸かっていた。
先日の任務から、またしばらく任務が無い状態が続いたある日、麻里奈が風邪を引いた。
「38.7℃」
体温計を眺めて、るいざが言った。
「風邪だと思うから、薬を飲んで、ゆっくり休んでね」
「ありがとう」
自室のベッドに寝ている麻里奈は、いつもの元気がない。
とりあえずマスクをして、麻里奈はるいざに聞いた。
「憲人、どうしよう?」
「そうね……。うつっても良くないし、しばらくは克己のところにでも泊まったらどうかしら?」
「そうね。お願いしようかな」
「OK。任せとけ」
克己が薬と水を麻里奈に渡すと、麻里奈は大人しくそれを飲んで横になった。
「麻里奈、大丈夫?」
憲人が心配そうに聞くと、麻里奈は微笑んで言った。
「大丈夫よ。こんな風邪なんかすぐに治して元気になるから、憲人はお利口にしてるのよ?」
「うん」
憲人は相変わらずのペースで成長しており、現在は小学一年生くらいの身長になっていた。
「それじゃ、麻里奈もゆっくりしたいだろうし、行くか」
「そうね。何かあったらすぐに連絡するのよ?」
「はーい」
大人しく返事をする麻里奈を残して、3人は揃って部屋を出た。
「しかし、風邪なんてどこで拾ってきたんだか」
克己が不思議そうに言うと、るいざも首を傾げた。
「最近、トレーニングで外に出ることはあるけど、珍しいわよね。能力者は普通の人より丈夫なのに」
「てゆーか、あの麻里奈がかかる風邪って、すごいな、風邪の菌」
散々な言われようである。
「憲人は心配かもだけど、憲人にうつったら麻里奈が責任を感じちゃうから、しばらくは克己のところで寝てね」
「うん」
憲人が素直に頷く。
「でもまあ、その前にメシだな」
「そうね。後で麻里奈にもご飯持ってかなきゃ」
朝食の支度をしていたときに、麻里奈の様子がおかしくて熱が有ることが判明したため、朝食をまだ食べていない。
唯一、マイペースに我関せずを貫いている譲を除いては。
テラスに3人が戻ると、譲はすでに食後のコーヒーを飲んでいた。
「お前なあ……」
言っても仕方ないと思いつつも、ついつい口から出てしまう。
「薬は飲んだのか?」
「ああ、飲んでた」
「ならすぐ良くなるだろ」
「それにしたって、心配とかしねーの?」
「心配するほど悪くも無ければ、したって治るものでもない」
「それはそうなんだけどな」
そう言う問題ではないが、これ以上言っても無駄なので、克己は大人しく椅子に腰掛けた。
「克己も、トーストで良かった?」
「うん。Thanks、るい」
「憲人もトーストね」
「ありがと」
今日は途中でハプニングがあったため、トーストとスクランブルエッグ、ウインナー、コールスローサラダにヨーグルトだ。ちなみにるいざが途中まで調理していたが、麻里奈の部屋に行ってしまったため、譲が仕上げたようだ。単に自分が食べるためだろうが。
「いただきます」
手をあわせて3人が食事を始める。
譲はというと、そのまま椅子に腰掛け、ウィンドウをいくつか開いている。
「何見てるんだ?」
克己が聞く。
「メールチェックと、麻里奈のバイタルデータ」
「バイタルデータまで見れるのか。道理でお前が部屋に行かないわけだ」
「それは単に面倒だからだ」
「ああそう……」
克己は一瞬、譲のことを見直しかけたが、直ぐに評価を改めた。
すると、るいざがウインナーを食べながら言った。
「バイタルデータを見て、何かわかるの?」
「今、炎症を起こしている箇所なんかはわかる」
「そうなんだ」
炎症を起こしている箇所がわかれば、適切な処置が出来る。
「ちなみに麻里奈の風邪は喉? 頭痛? お腹?」
「頭に主に反応が出てるな。喉や腹は平気そうだから、食事はとれるだろ。ただ、少し気になることがあって――」
言葉を切った譲に、克己が聞く。
「気になること?」
譲は少し考えると、ウィンドウを3人にも見えるように開いた。
「能力者には、能力反応というのがあるんだが」
「え、何それ。初めて聞くんだけど?」
「初めて言ったからな。で、能力者特有の反応があるんだが、それの反応が大きくなっているんだ」
るいざが少し考えて言った。
「それって、つまり、能力が強くなるってこと?」
「いや、能力反応と能力の強さは関係無い。ただ、本来ならこの反応が大きくなるのは能力が目覚めるとき――つまり、例のウイルスに感染したときなんだ」
「ってことは、新しい能力に目覚めるかもしれないって事?」
「その可能性ももちろんある。が、逆の可能性もある」
「逆って――」
「能力が無くなる可能性だ」
るいざと克己の手が止まる。
「え……」
「まあ、可能性の話だ。能力者の風邪なんて初めてのケースだし、ふたを開けてみれば元通りでしたって事になるかもしれない」
譲はそう話を切り上げると、ウィンドウを消した。
けれど、るいざと克己は思ってもみなかった可能性に、ショックを受けていた。
一度能力に目覚めると、ずっとそのままかと思い込んでいた。能力が無くなる可能性なんて考えたこともなかった。
「そっか。『無くなる』って可能性もあるのね」
普通の人間になって、元のように暮らすという選択肢が。
思わぬ情報に、朝食はなかなか進まず、結果、麻里奈からお腹空いたコールが来ることになってしまったのだった。




