1-3話_Abyssus
「御手洗先生!」
「!」
先ほど応援を呼びに行った生徒が、女性職員を連れて戻ってきた。ダークブラウンのセミロング、メガネをかけている地味目で、おとなしい教師だった。
「長谷川先生!お忙しいところすみません...。状況は落ち着いたら説明します。まずは、この高濃度の『イデア』に当てられて体調を崩している生徒のケアと、負傷している生徒がいた場合は医務室に連れて行って欲しい。」
「了解しました。他職員は自分の受け持つクラスの対応と新学期のオリエンテーションで直ぐに応援はこれない見込みです。」
「OK。私はモロクとこの場に残り、彼の動きを注視しておきます。」
長谷川先生と呼ばれていた女性職員は、メガネの左耳側のフレームを右手の人差し指と中指で優しく触れる。
「【ワイズ】」
―
漆黒の海に囚われている奏は、選択を迫られていた。
また脳内にあの声が響く。
《血を捧げる事ができぬのであれば、我が気に躯体が蝕まれ、イデアの海に還帰るのみぞ。》
気付いた時には既に遅かった。
左手の指先がボロボロ崩れ、崩れた指の粉はキラキラと微かに光って消えてゆく。
(俺の置かれている状況が最悪なのは見て分かる。でも血を捧げろというのは...自傷しろってことか...?)
奏は制服の内ポケットに忍ばせた拳銃をチラ見する。
もちろん学園には申請済みの武器だ。
(これで自傷しろと...?刃物系なら皮膚に添えてゆっくり力を入れれば血がぷくりと滲み出す。それなりの勇気と我慢があれば出来ないことはない。でも...銃だぞ...どうするんだ...非現実的じゃないか...?)
靴が崩れ始めた。
(クソッ!迷ってる暇無い!どっちにしろ消滅するなら、可能性に掛けるしか無いだろ!イチかバチかだ!!)
制服の内ポケットから拳銃を取り出す。
額に汗が滲み出してきた。
汗はつぅーっと頬を伝い、首筋を滑り落ちる。
奏は右手に構えた拳銃を、崩れかけた左手人差し指に当てる。
謎の物質であるイデアに侵食される焦燥感、発砲した後にどんな痛みが襲ってくるのか、未知なる恐怖が湧いてくる。
奏は目を瞑り、歯を食いしばる。
ゆっくりと引き金にかけた指に力を入れていく。
ボロッ
「!?」
拳銃を持っていた右手全体が、『イデア』の侵食によって崩れ落ちた。奏の足元に右手の塊が鈍い音をして落ちたと思ったら、サラサラと、微かに光り消えていく。
拳銃が転がり落ちた。
「万事休す、ってやつか?」
奏は足元の自分の右手を見て、絶望以外の感情は感じられなかった。
「...」
《そうか、其方も、消え去る定めか...。なんとも脆い生き物よ。ワシを仕える人間はもうこの世にはいないのだろう。》
悲しそうな声が脳内に響く。
「...まだだ。このクォーツは...」
《まだ抗うか...》
「これは俺が父さんからもらったクォーツだ。お前はこのクォーツの中に宿る召喚獣だろ。名前を教えてくれ!」
《血を示せと言っている。さもなくば消えゆくのみよ。》
(血を示せ...?血筋...?)
奏は閃いた様に、力が入らなくなった右腕を思い切り噛む。
言葉にならない痛みが奏を襲う。
歯型の付いた箇所が抉れ、血が滲み出す。
ポタポタと、奏の足元に血が溢れる。
《血迷ったか。》
息が荒く、汗が滝の様に流れる奏は
ニヤリと笑みを浮かべ、謎の存在に向かってこう言い放った。
「俺の名前は天宮奏だ!文句あるか!今度はお前の番だ!名前を教えろ!」
―
―同刻
「!?光が、収まった...?」
《やったか?》
屋内運動場は静まり返っていた。
奏が隔離されている壁から漏れていた光は、少しずつ勢いを失っていく。隔離壁から距離を取る御手洗先生とその召喚獣であるモロクは、まだ緊張の糸を張り詰めている。
「モロク、俺が今から言う事は悪魔でも想像だ。誰に話しても信じてもらえんだろうが、モロクには最悪の事態に備えて伝えておく必要がある。アイツ、天宮が持っているクォーツなんだが、アレには龍が宿r」
ドォォン!
御手洗先生の言葉を遮る様に、大きな音がした。
その音と共に隔離壁は爆散した。
壁を形成していた地盤や瓦礫が四方八方に飛び散る。
「(予兆は無かった...)モロ!」
《分かってる!》
モロクは尻尾を力一杯振り回し、無差別に飛び散る壁の残骸を撃ち下ろす。
飛散した瓦礫が屋内運動場の天井を突き破る。
屋内運動場の天井に空いた無数の穴から、陽の光が差し込む。
砂埃の向こうから、人影と、小さな影が現れた。
「先生すみません...召喚獣の名前...ハァハァ...思い出しました...」
奏の左肩に、ぬいぐるみほどの大きさの小さなドラゴンが乗っていた。右腕から血を流しているボロボロの奏の様子を目の当たりした御手洗先生はキョトンとした様子で言葉をかけた。
「...トカゲ?」
御手洗先生の言葉に反応したそのドラゴンが、口を開いた。
《誰がトカゲじゃ!我が名は、【アビス】だ!立派な龍じゃ!》