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異世界には『魔石』というものがあり、元の世界でいう『電池』のようなもので魔力を貯めることができる。
貯める属性により効果が違い、火属性なら火を起こしたり湯を沸かす事が出来たり、水属性なら井戸から水を汲み上げなくても水を出すことが出来たりする。
魔力持ちが魔石に魔力を込めるのだが、この国では魔力持ちといえば殆どが貴族だ。
ノブレス・オブリージュで貴族が持ち回りで魔石に魔力を込め、王国の然るべき部門が回収し市井に卸しているが王国全土に行き渡らせるには圧倒的に数が足りない。
複数の名のある大手商会が国外から魔力入りの魔石を買い付け販売もしているが、ハジメリ村のような辺境の村まで流通することはなく、この村では魔石のない生活が当たり前となっていた。
神殿に魔力持ちの登録さえすれば平民でも魔石に魔力を込めることは可能であり、いずれカイロも魔力の属性判定をしてもらう為に王都へ行くらしい。かなり費用が掛かるがカイロの属性が火や水なら村の暮らしも楽になる。…、という事を以前村長が言っていた。
まぁ…魔石はファンタジー系の読み物でよく出てくるからその機能はなんとなく知っていたがほぼそのままだ。
唐突だが、異世界に来てから俺は風呂に1度しか入っていない。風呂と言ってもこの宿屋では人ひとりがなんとか入れるたらいをそう呼んでいる。沸かしたお湯をためて入る、所謂『行水』だ。
女将さんは『たらいに入りたければ何時でも言って!』と、言ってくれたが如何せんお湯を沸かしてたらいに移す手間が掛かる為気軽に頼めるわけでもなく…。
しかもたらいの場所が宿屋の裏手にある馬小屋の横で、仕切りがあるわけではない。
行水中に馬の様子を見に来る人が居ようものならモロ出しの状態を見られてしまうのだ。
旅人達は鉢合わせしたところで気にしないようだが俺は物凄く気にする。(見てしまう方を経験済み)
会社の繁忙期には許可を得て泊まり込む事もあったので風呂に入れない事には慣れているが、たっぷりのお湯に肩まで浸かりってさっぱりしたいと思うのは元の世界の生活に由来したものだろう。
(シャワりたい…お風呂入りたい…湯船に浸かりたい…温泉入りたい…)
そんなことを思いつつ、俺は2日に1回の頻度で女将さんに桶一杯分のお湯をもらって体を拭き洗髪をしている。
今朝、この村で1番お金を持っているであろう村長宅の風呂が気になり、取り敢えずジャックにお風呂事情を聞いてみた。
『もしかしてバスタブに入れるかも…』と淡い期待を抱いていたのだが、やはり村長宅もたらいで、違いといえば浴室がある事くらいだった。
同じたらいなら宿屋で入れば良い訳で「ふ〜ん、そうなんだ」とこの話題を終えようとしたのだが、やたらジャックが『俺が準備するから風呂に入りにくれば』と言ってくる。
「いや〜、悪いから気持ちだけ貰っておくよ」
「別に悪い事はないし、うちのたらい、宿屋よりもデカいはずだ」
「う〜ん…なんていうかな、もっと肩までお湯に浸かれる風呂だったらお言葉に甘えて入らせてもらったんだけど…。ホント、大丈夫だからありがとう」
「そうか…。王都とか都会の街ならそんな風呂もあるかもな」
何故か物凄く残念そうなジャック。
もしかして俺にデカいたらいを自慢したかったのだろうか?
「そういえばこの国って温泉とかあるのか?」
俺はたらいの話を逸らすために話題を変えてみた。温泉があるのなら場所にもよるが拠点探しの序でに行ってみてもいいと思う。
「『温泉』て何だ?」
「そっか、知らないか…」
元の世界でも温泉文化がない国もあった。
それにこの国は温泉が湧く環境ではないのかもしれない。
「湧き水は知ってる?」
「ああ、勿論」
「地中から水じゃなくてお湯が湧くんだ。そのお湯を溜めて入るのが温泉」
「・・・この村の先に森があるのは知ってるよな?」
「ああ。なんだ?突然どうしたんだ?」
「先日、村の住人からその森で熱い湯が湧いている場所があるって親父に報告があったんだ。親父と一緒に確認に行ったら確かに湯が湧き出てた。だが辺りに腐臭というか…なんとも言えない匂いがしてたから、万が一にも人に被害が出ないように立ち入り禁止の立札を立てたんだ」
「それ、絶対温泉だわ!匂いは多分硫黄の匂いだし、危険ではないと思う。寧ろ温泉は体に良くて、特に疲労回復に効果があるんだ。
なあジャック、今からその場所へ俺を連れて行ってくれないか?」
「サトー様がそう言うんならいいぜ…と、言いたいところだが、今は立ち入り禁止としてあるから親父の許可が必要だ。まずは俺の家に行こう」
「ああ!」
一刻も早く村長に会いたい気持ちを抑えているつもりが自然と早足になってしまう。
ジャックが何も言わずに俺の歩調に合わせてくれるのをいい事に、俺はもう1段階歩く速度を上げた。
◆
〈ジャック視点〉
家に着くと、俺は親父にサトー様の話を聞いてもらうよう取り次いだ。
親父は書類仕事をしていたようだがそれをすぐに切り上げて応接室にサトー様を案内し、彼の『温泉』の話を興味深く聞いていた。
サトー様の熱意もあって、確認のため現地に向かうことになったのだが、サトー様の来訪を聞きつけたカイロが「僕も行く」と言い出した。
遊びではないと言い聞かせるのだがカイロは「行く」と言って引かず結局は「多分危ないことはないから一緒でも大丈夫」というサトー様の一声でカイロも同行することになった。
その際サトー様が人数分のタオルを所望したので不思議に思いつつも持っていくことにする。
そして俺とサトー様、親父とカイロの4人で森の中のお湯が湧く場所に到着した。村から割りと近い場所で、辺りに漂う匂いがやはり気になる。
しかし今は匂いよりも、目の前の光景に衝撃を受けていた。以前はお湯が湧き出ているのみだったはずが、今はモクモクと湯気が立ち昇るお湯の泉に変貌していた。たった数日で10人くらいが入れそうな大きさになるとは思いもしなかった。
「うわ〜!やっぱりこれ、温泉ですよ!」
「わ〜!すごい!」
『温泉』に駆け寄ったサトー様とカイロは、俺と親父が止める間もなくそこに手を突っ込んだ。
その瞬間『温泉』全体が淡い光を放った…ような気がした。『気がした』というのは、その時俺はサトー様を目で追っていた為に確信が持てないのだ。
「な、何だ今のは?」と親父。
「なんか今ぼんやり光った?」とカイロ。
「え、太陽の光の加減じゃないですか?ほら、何でもないですよ」と『温泉』に手を入れパシャパシャと水飛沫を立てているサトー様。
(この人…どんだけ『温泉』に夢中だよ…)
サトー様の嬉しそうな笑顔は、俺たち親子から光の事を忘れさせるのに十分だった。
そして未だにこの匂いには慣れないが、『害はないから大丈夫』というサトー様を信じることにする。
「多分このくらいの温度なら入れるな。ジャック、持って来てもらったタオルを1枚借りていい?
あと、今から俺はこの温泉に入るけど、村長さん達はどうします?初めてでしょうから無理にとは言いませんが、気持ちが和らぎますよ。
もし入らないのなら皆で先に村へ帰ってもらって大丈夫ですよ、俺1人でも村に戻れますから」
サトー様は服を脱ぎながら親父や俺、カイロにこれからどうするかをきいてくる。
俺はサトー様を一人にする訳にはいかないので『入る』一択だ。
カイロも「僕も入る〜」と上着に手を掛けている。
そんな息子達を見て親父も諦めたのか『温泉』に入ることになった。
正直この状況は俺にとってツイている。
自分が何故こんなにもサトー様を確認したいのか説明がつかないが見たいものは見たい。
俺の予定では近々サトー様を食料調達兼遊びで川に誘い、そこで『脱がせる』理由をつくる筈だったが、自分から『脱いでくれる』状況になるとは本当にツイている。
だが、俺と親父が目で会話をしている間にサトー様は身に着けているものをすべて脱ぎタオルを腰に巻いた状態になっていた。
一生の不覚…。
俺の気も知らず、サトー様は『温泉』の縁に座り足先を湯に付けて「あちっ!」っとかやっている。それを真似する我が弟…
(こいつ等…なに可愛いことしてんだよ…)
俺が知る同年代の男の中でサトー様は断トツで体の線が細いとは思っていたが、顕になっている背中に俺の目は釘付けになった。
薬師なのだから俺達のように力仕事にはあまり縁がなさそうだ。それに室内での作業が多いから日に焼けることも少ないとは思うのだが…
(細い、そして白い…。綺麗だ…)
今すぐ彼を俺の腕の中に閉じ込めてしまいたい衝動に駆られるが「父さん兄さん!すごく気持ちいいよ!早くおいでよ!」というカイロの誘いに我に返った。
既にサトー様は『温泉』に肩まで浸かり「ゴクラクゴクラク」と言っている。
俺は手早く服を脱いでから、躊躇気味な親父を急かして一緒に『温泉』入った。
こんなにも豊富な湯の中に入った経験はなく、その熱さも相まって体を浸すのに結構な時間を割いたのだが入ってしまえばこの上なく気持ちがいい。
「湯に体を浸すのってこんな感じなのか…凄く気持ちがいい」
「ああ、それにサトー様の言った通り心が和らぐ。母さんも連れてくればよかったな」
「親父…それは流石に…」
「ははっ、わかってるさ。今ここに母さんがいてもお互い気不味いだけだろう」
カイロなら兎も角、俺は成人済みだ。母親と一緒に風呂に入る年齢ではない。それにここにはサトー様もいる。
親父と俺が話しているとサトー様がすすーっと俺たちの方へ寄ってきた。
湯に浸かり温まったのか顔が上気していて、汗で額に張り付いた髪や潤んでいる瞳がこの男の情事を妄想させる。
(不味い)
最近抜いてなかったせいか、さっきから俺の性欲のベクトルがおかしい。湯の中で俺の下半身が擡げ始め、慌ててサトー様から視線を逸した。
にも拘わらず俺の目の前まで来て「どうした?」と言って俺の顔を覗き込むのはやめて欲しい。
視線を湯の中に落とせばそこには真っ平らなサトー様の胸があり『男』である現実を突き付けられたはずなのだが、なぜか余計熱を持つ羽目になった。暫くは湯から出れそうもない。
そんな俺の惨状を知らず、サトー様は親父と話を始めた。
「この『温泉』というものがここまで素晴らしいとは思わなかった。教えてくれて感謝しかない。気になっていた匂いも『温泉』に入っているうちに気にならなくなるもんだな」
「いえいえ、こちらこそ私を信じてくれて有難うございました。私の故郷ではこの匂いも含めて温泉だと言う人もいます。
このような野天風呂だと混浴も有りですが、ここから湯を引く形でもう1つ風呂を造り、男女で分けたら村の皆さんも気兼ねなく入れるのではないでしょうか?」
「のてん、ぶろ?」
「はい、こんな屋根のない屋外の風呂をそう呼んでます。ある意味宿屋のたらいも野天風呂ですね。周辺の村や町にこういった温泉が無いのならこの村の名物になるんじゃないですか?
温泉に入る時は村民の人は無料で、それ以外は安価な料金を払ってもらえば村も少しは潤いますよね。
それに温泉は自然治癒力を高めると言われてますから療養に持って来いです。
温泉の噂が広がればこの村に訪れる人も増えて宿屋も今以上に繁盛すると思いますよ。そして色々な面で新たな雇用が生まれるはずです」
ただの薬師見習いが『温泉』からここまでの事を発想出来るものなのだろうか。
俺も幼少の頃から親父の後を継ぐために色々学んでは来たが、今の俺はサトー様に遠く及ばないと実感する。
昂ぶっていた下半身はサトー様の話を聞くうちにすっかり鎮まっていた。
(本当に、スゴい人だな…)
かなりの時間、親父とサトー様は話し込んでいたと思う。その傍らで二人の会話を聞いていたのだが、不意に俺の意識が朦朧とし始めた。
『不味い』と思った時にはすでに遅く、慌てた親父とサトー様に両脇を、そしてカイロに足を支えられ湯から引き上げられていた。
カイロは俺の足を下ろすやいなや「僕、水持ってくる!」と服も着ないで駆け出していったようだ。
ああ…
捲れているであろう俺の腰のタオルを直してから行ってほしかった…
きっと今の俺の姿は間抜けなことこの上ない…
「ジャック大丈夫か?」
俺を気遣いながらそっとタオルを直してくれたのはサトー様だった。
サトー様を確認するどころか俺を晒す事になるとは…。
邪な企てをした報いなのかもしれない。
反省をしている俺の口に、サトー様は容赦なくナニかを突っ込んできた。
甘いが独特な味の液体が口内に流し込まれ思わず咽てしまったが、先程までの不調は綺麗サッパリ無くなり頭もスッキリする。
「体調はどうだ?その顔色だと大丈夫そうだな。サトー様に感謝しろよ」
「取り敢えず応急で水代わりに栄養ドリンクを飲ませてみたけど回復したみたいでよかった。もうすぐカイロが水を持ってくると思うからそれまで横になってな」
本当はすぐに起き上がれるし、何ならもう一度『温泉』に入れるくらい回復した実感はあったが、サトー様に心配してもらいたくて起き上がれないフリをした。
親父の目が生暖かかったのは言うまでもない。