ぼやける友人宅
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
友達の家へ遊びに行く。
小さいころの楽しみのひとつだった人、いるんじゃないかな?
自分の家と学校、その通学路くらいしか知らない人にとって、新しいエリアへの侵入だ。
家の間取り、家具や調度品、部屋ごとの匂いまで、何もかもが鮮やかな体験へと変わる。場合によっては自宅以上の居心地のよさを覚えることもあるだろう。
人間、安全であると考える限りは新環境からいい刺激をもらえるだろうからな。脳にも良い影響があると思われる。
だが、そこはいわゆる「勝手知らない領域」であることに変わりない。郷に入っても、従うものが分からなければ、無礼をおかすこともあるだろう。
俺の昔の話なんだが、聞いてみないか?
俺は小学校時代に、よく家へ遊びに行く友達がいた。
学区でも端にある家だが、遊びに行く前にランドセルは置いていけ、という親の言いつけのため、一度帰宅してからの来訪だ。
切妻屋根の二階建ての一軒家。低い柵で囲われたその家の庭は、俺の見慣れた和風の家々に比べると、ずっと小さいものだ。物干しざおを二本も出せば、庭にあたる芝生のテリトリーはほぼ埋まってしまう。
あとできるとしたら、チワワなどの小型犬を足元で駆け回せることくらいが、せいいっぱいだろう。その猫の額ほどしかないスペースが、逆に俺には新鮮に感じたんだ。
玄関に入ってすぐ右手に書斎へのドア。向かった視界の右半分は奥への廊下が続き、左半分は二階への階段が続く。
階段は5段も上れば、すぐにカーブしてしまい上階を見通すことはできない。
書斎ともども立ち入りは禁じられており、俺たち来客は廊下に続く居間へ通される。途中に風呂場やトイレのドアもあるが、後者くらいしか用はない。
そして、俺たち来客は居間とキッチンが一緒になった部屋へ通される。
テレビを置いて、そこへ向かうように設置されたテーブル。そこの三方を囲う格好で鎮座しているソファ。
お菓子をいただく時には、そのまま地続きになっているキッチンを使う。
カウンターで仕切られた流したちの真ん前に置かれる、8人掛けのテーブル。花瓶に入れて乗せられた観葉植物もセンスがいい。
そこで俺たちは、たいてい珍しいお菓子をいただき、楽しい遊びをしてめでたしめでたし、というわけさ。
――ん? そこから詳しい遊びの内容を話すところが、なんでめでたしに飛ぶのかって?
そう。それが今回の話のキモよ。
俺たちがその友達の家を出る時にはな、楽しかったという覚えしかないんだ。
家に帰ると、たいていの親は聞くだろう。「何して遊んだのか?」と。
俺たち、遊びに行った組はその言葉を聞いて思い返し、「あれ?」と思う。具体的に何をしたのか、さっぱり思い出せないんだ。
ほじくり返しても、こそりとも出ず。かといって、いいことを言わないと、また親から面倒なことを言われるやもせず。
やむなく俺たちは「楽しかった!」という、文字通り、小学生並みの感想を伝えるよりなかったんだな。
親たちも当初はその受け答えで満足っぽかったよ。子供が元気で遊んだことが伝わるのが、第一だろうからな。
しかし、俺たちは次第次第に、彼の家ばかりを遊び場に選ぶようになっていく。
家の作りは把握しているんだ。そこにいるときは楽しいひとときを過ごしているはずなんだ。
だが、一歩でも家を出ると、もはやそれは昨晩に見た夢のよう。いや、ことによるともっとひどい。
かすかな輪郭さえ浮かべることあたわず、ただ楽しんだというポジティブな気持ちのみが、胸のうちより湧いてくるのみ。だがそれは、これまでの生涯で味わったものよりも、ずっと心地のよいものだ。
一度快楽を覚えると、そこから抜け出すのに並々ならぬ苦労がいる。耐性のない子供であるならなおのことで、俺たちは怪しまれることを懸念して、遊び場のウソ申告も交えて、彼の家へ足を運び続けていたんだ。
みんながどれほどうまく誤魔化せていたか分からないが、俺はつたなかったのかもな。
何度目かの折で、例の友達の家に行こうとしたところでな。親に待ったを掛けられた。
何かまずったかな。遊びに行くのを止められるかな、と思ったが、親が手を伸ばしたのは、俺のランドセルだ。
一番外側のポケットのファスナー。そこからお守り袋を取り出すと、中に入っている10円玉を俺に握らせてきた。お財布に入れておくように、とね。
「万が一のことがあれば、これを使いなさい」と言いおいてな。遊びそのものは止められなかったんだ。
そうして赴いた友達の家だが、入る前から俺はさっそく違和感を覚える。
天気の良い日にのみ訪れる友達宅は、いつも軒先の物干しざおに掛け布団を干している。非常に大きいものだ。
ほぼ純白のそれが、今日はやたらと汚れて見えたんだ。地面に近い端だけ汚れているなら、地面にこすれたのかな、とも思える。
しかし、今回は竿にかかるところから端まで、まばらに大小の汚れがにじんでいた。干すときにどこかへ落としたかな、ともその時は思ったのだが、屋内へ入ってからがまた妙なんだ。
家の中が、いっぺんに古くなった気がした。
壁紙ははがれこそしないが、その天井近くから蜘蛛の巣の糸のように垂れさがるホコリの数々。中にはつたのように太くて長いものもある。
ドアにせよ、廊下にせよ同じことがいえる。表面の建材のところどころがささくれ立ち、いかにも手入れが行き届いていない感にあふれていた。
階段はより顕著で、段ごとに傷みが激しく、穴だらけでようやく左右に身体を渡しているようなものもある。たとえ子供の体重でも、踏み抜いてしまいかねない印象だ。
「どうしたの?」
いつも通り先導する彼が、振り返って声をかけてくる。さすがにキョドりすぎたかと、平静を装って後をついていく。
その足を乗せる廊下も、ところどころシミが浮かぶ汚れ具合。通された居間とキッチンも、数十年捨て置かれたかのような傷みようだが、俺たちの腰かけるソファやテーブルとイスのセット、テレビなどは新しく思えたんだよ。
二人して腰を下ろすや、電話の音が鳴り響く。
二階からだ。俺は遊びに来てこのかた、電話がかかってくる場面に出くわしたことはなかった。
ちょっと出てくる、と席を立つ友達だったけれど、その遠ざかる足音を耳にしながら俺は思う。普通、電話はもっと近い場所に置いとくもんじゃないかと。
自分の家の電話は廊下に置いてある。一階の玄関すぐ近くで、二階なら二階で別に設置をしてあるものだ。それがどうして、このような不便な……。
俺はそっと腰をあげる。いつもならトイレに行くときと、帰る時以外に席を立つことはなかった。
いまだ、電話の音は鳴りやまない。彼がいなくなってから、もう何秒もたっているというのに。それほど取りづらいところにあるのだろうか。
居間を出た俺は、トイレの前を通りすぎて友達の後を追ってみようとしたんだが……。
リンリンリン! リンリンリン!
突如、すぐ隣から聞こえてきた大音量に飛び上がりそうになる。
俺の立つところは、風呂場の横。これまで一度も中を見たことのない、すりガラスの向こうの世界から、電話の音が響いてきていたんだ。
水場に電話など用意するか? 湯船に浸かりながら長電話したいのか? 防水加工なんて知らないぞ?
次々湧き立つ疑問のまま、俺はついそのガラス戸を開けてしまったんだ。
雨粒が当たり出したばかりのガラス窓、と例えるべきだろうか。
俺の前にあったのは、電話などではなかった。ガラス戸の向こうにあったのは、脱衣所でも浴槽でもなく、明かりの消えた空間に、大小さまざまな水の粒が浮かんでいた。
それらはおのずと震え、そのたびに発する音が電話のごとき響き声を伴っていたんだ。
ときおり、その水の粒の中が濁ったかと思うと、人の顔らしきものが浮かぶ。
それはここへ遊びに来ていた他の友達のもの。そして俺自身の顔もまた、いくつもある粒のひとつに……。
がちん、とほぼ頭上で音がして、電話音が鳴りやむ。間髪入れずに、足音が階下へ下ってくる気配。その慌てようは、先ほどを上回る気さえした。
「やばい」と察すしたね。荷物がないのをいいことに、そのまま玄関へ直行して、家を飛び出したさ。
振り返らないまま何百メートルも先へ行き、荒く息をする。手を膝へ乗せてかがんだとき、ポケットからころりと転げ出たものがある。
あの預かった10円玉だ。家にいたときはほぼ新品だったのが、いまやどちらが表で裏なのか、分からないほどに濁りきっていたんだ。
家に逃げ帰って、夢中で親に報告すると俺の五体満足を喜んでくれたあとで、ふとこうもらしたんだ。
「世の中には、子供からしか得られないもので成り立つものもあるのよ」と。
それからも学校に彼はやってきたが、俺の存在は徹底して無視された。
その豹変ぶりに喧嘩を疑う声もあがって、当たらずも遠からずといったところだったよ。
卒業まで、あいつの家へ遊びに行く子は絶えなかったが、やはり何をして遊んだかを語ってくれる人は現れなかったのさ。