まわりが望む水沢和香を演じる。
フルタイムで働く生活がはじまり、和香はあることを考えた。
アニメの声優を参考にすればいいのではないか、と。
愛らしい小学生の女の子を演じたと思えば、二十歳すぎの青年役もこなせるマルチな声優が多い。
子供の頃から好きだった声優が今度は青年役をやるという雑誌の記事を見ながら頭に浮かんだ。
(俺は仕事する間、普通の人が望む“普通の女性・水沢和香”という役を演じればいいんじゃないか)
プライベートは本来の和香の時間。
仕事中は“普通の水沢和香”の時間。
俳優にでもなったつもりでいればいい。
だからスキマ時間で自分のことを“私”という練習をした。
「私は、私の、私も、私が、私たち」
男のようだと言われる仕草も、亜利を参考にして補正する。
自分の心臓を滅多刺しにしている気分だし吐きそうなほど気持ち悪いけど、俺は役者だと自分に言い聞かせる。
リクのように病院に行って診断をもらい、性転換するなら幸せになれるのではと思うこともあったけれど、和香にはそんな勇気なかった。
和香の両親は、普通から外れることを許さない。
進学のとき散々ぶつかったが、性転換と戸籍名の変更はそれの比じゃない。
成人したから親の同意なしに手術できるが、手術費用があまりにも高い。
そして何より、友だちに軽蔑されるんじゃないかと思うと足が震える。
中学生の頃は他人なんて大嫌いで、誰になんと思われようとどうでも良かったのに。
自分を偽らず生きたいけれど、日本は心と体の性が合致しない人間に優しくない。
学校のときは他の生徒と関わらなくても生きていけたけど、仕事はそうもいかない。
他の社員と関わらず職務をこなすなんて芸当はできない。
クビにならなくとも、生きづらくなるのは確かだ。
近所のおばちゃんが口さがなく噂をばらまくように、アイツは中身が男だと揶揄される。
中学のときは、強かったんじゃない。
世間知らずで怖いもの知らずの、無鉄砲だっただけ。
大人になるにつれて、世間から見た自分の異常さを理解できるようになってきた。
和香に本当の心を吐露したリクは、どれほど勇気がいっただろう。
勇気のない異常者は、普通を演じるため職場に向かう。
ロッカーで手早く作業服に着替えて持ち場に入ると、先輩の男性社員、並木が挨拶してくる。
「おつかれ水沢。そっちにあるやつ二階の食器庫に戻してくれ。先に荒川が行ってるから合流。それが終わったら、宴会の膳が戻ってきているから予洗い」
「おつかれさまです並木さん。わかりました。すぐ行きます」
並木は早口で一度に全部喋るから、いくつか聞きこぼしそうになる。
ワゴンに山盛りの皿は食洗機から出てきたばかりの洗いたてで、触ると火傷しそうなほど熱い。
並木とすれ違ったとき、思わず眉がよるほどの煙さが鼻をついた。
和香が来る直前までタバコ休憩をしていたようだ。
「皿の場所を覚えられるよう残しといてやったんだ。ありがたく思えよ」
「はい。精進しますね、先輩」
本当に優しさなのか、面倒くさいことを後輩に押し付けたいだけなのか。
微妙なところだ。
腹の中でクソ食らえと思いながら、業務用エレベーターのところまでワゴンを押していく。
エレベーターの扉が開き、空のワゴンを押す荒川が降りてきた。
「お疲れさまです。水沢さん次のワゴン持ってきてくれたのね。ありがとう」
「いえ」
「空のワゴン、洗い場に置いてくるから先に食器庫に行っててくれる?」
「わかりました」
今は日常を保つのが先決だ。
本来の自分になれる日……亜利やリクと会う日のために、水沢和香という女を演じる。





