九
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最高裁判所長官。その解釈は、二つ存在する。
現在のそれなのか。
それとも当時のそれなのか……。
道化師は気が短いから、それを確認することができなかった。
さすがに殺してから、まちがいでした、ではすまない。ハンディマンに確認しようにも、すでに地獄へ旅立っている。
では、どうすべきか?
二人それぞれから確かめるしかない。
まず一人──。
「ん? どうした、なぜこんなところで停まる?」
後部席で神々しく座っている男が、些細な疑問を口にするように問いかけた。
まだ標的ときまったわけではないが、ゴッドマンと呼ぶことにしよう。
「ん? おまえは、だれだ?」
そこでようやく、運転手がいつもとちがっていることに気づいたようだ。いや、愚者から冴島冬輝にもどったからだ。
「あんたに聞きたいことがある」
「な、なんだ……なにをするつもりだ!?」
冴島は、拳銃を後部席に向けていた。
「七年前の裁判についてだ」
「七年前?」
「心当たりはあるか?」
「そりゃ裁判官なんだから、心当たりだらけにきまってるだろ!」
冴島は、思わず笑った。ただ偉そうにしている裸の王様かと思ったが、このゴッドマンはユニークな感性をもっているようだ。
「おれの顔に覚えはあるか?」
「どこかで見たことはあるな……だれなんだ?」
とぼけているわけではない。
どうやら、ゴッドマンは無関係のようだ。
「つかぬことを聞くが、七年前の長官はだれだった?」
「言うと思うか? 私がそれを言ったら、おまえはその人物を狙うだろうが!」
そのとおりのことを指摘された。
「答えなければ、殺されるとは考えないのか?」
「答えようと答えまいと、おまえがその気になれば、どうせ殺されるんだろ……」
冴島は、銃口をおろした。どうせオモチャだ。
「ここからは、自分で運転するんだな」
車を降りた。事件と関係がないのなら、殺す必要はない。
* * *
戸倉のもとに警察から連絡が入ったのは、午後になってからだった。
冴島冬輝の所在を確認する連絡だった。知らないと突っぱねたら、そっちへ行くと、すごい剣幕で怒鳴られた。
「戸倉さん、ですね」
事務所の扉が豪快な音をたてて開くと、一人の男性が入ってきた。年齢は三十代後半ぐらいだろう。
「あなたは?」
電話の刑事だとわかっていたが、戸倉は訊いた。
「警視庁の桐野といいます」
電話で耳にしていた名前だった。桐野という刑事は、身分証をかかげて挑戦的な眼光を向けていた。所属は、本庁の捜査一課だという。
「ご用件は?」
「さきほど伝えたはずです。冴島冬輝の所在を教えてもらいたい」
「彼がなにか?」
「今朝、ある男性が脅迫をうけましてね」
「それで?」
「どうやら、その犯人が冴島のようなんですよ」
「証拠は?」
「被害者がそう証言しています。そのときには思い出せなかったようですが、あとになって冴島冬輝だと」
「見間違えじゃないですか? そもそも、その被害者が冴島さんの顔を知っていたのですか?」
報道では、冴島の顔写真は一切出ていない。
「知っていました。被害者は、裁判官です。直接の面識はないようですが、資料で眼にしたことがあると」
「そうなんですか」
「っていうか、あなたはよく知ってるでしょう?」
桐野という刑事は言った。
「なんのことだか……」
戸倉はとぼけてみるが、この刑事には通用しそうになかった。
「だいたい、この件については、おかしなことばっかりだ」
口調を変えて、桐野は続けた。
「本庁が動くような案件じゃない。被害者は、なんの怪我もしていないからな。それなのに、所轄では捜査をしない。なぜだか、捜一のおれのところに話が来た」
「最高裁のトップだからではないですか?」
「ほう。長官だと知っていたんですか」
失敗した。いまのは罠だ。
どう答えればよいのかわからなかったので、なんの言葉も返さなかった。
「冴島冬輝のことは、警視庁でもアンタッチャブルになってる。検察官殺しでも起訴はされなかった……どっかのだれかが、捜査されたくないようだ」
刑事らしからぬ──いや、公務員らしからぬ言葉遣いで桐野は語っていた。
「あなたは、冴島の弁護士だ。所在は知っているんでしょう?」
「かつての弁護人です。いまは関知していません」
「殺人を犯しておきながら、なんの罰もうけずに、いまでは自由を手に入れている……法律家として、おかしいと思いませんか?」
桐野の話は、論点が次々に変っていく。
「それもまた、法律でしょう」
「心神喪失が認められた……しかし、それならば、心神喪失者等医療観察法が適用されているはずだ。その場合、強制入院──治療に効果があると認められれば、通院治療に切り替わる。その間は保護観察となるので、ちょうど仮出所と同じようなものだ。それなのに早々に退院し、通院もしているのかどうか……なによりも、保護観察がついているとも思えない。だったらせめて、担当弁護士が責任をもつべきだ」
桐野は息継ぎもせずに、それだけをまくしたてた。
「冴島のことで法律がどう作用しているのかわからないが、法律を無視するなら無視するで、最低限のモラルは必要だろう?」
挑戦的な眼光が、その強さを増した。
「冴島って男は、いったんなんなんだ? パンドラボックスってやつか? それとも、ブラックボックスとでも表現しようか?」
「そうですね……開けてはいけない箱を開けたのかもしれない」
「そいつを教えちゃくれねえのか?」
「それは弁護士の仕事ではありません」
「守秘義務ってか?」
「調べるのが、刑事さんの仕事でしょ?」
フ、と桐野は一笑した。
「おもしろい。おれは開けるよ」
開けてはいけない箱を、という意味だろう。
刑事はしつこく食い下がることもなく、あっさりと出ていった。
「……」
戸倉の経験上、ああいうタイプの人間が一番厄介だ。
冴島に警告しておこうか……。
いや。戸倉は思いとどまった。冴島のやることに一定の協力はしているが、犯罪行為自体に加わることはない。この復讐劇の主役はあくまでも冴島で、戸倉は脇役ですらない。
こんなことに巻き込まれた「おとしまえ」をつけたいだけだ。けっして舞台にあがることはない。
たとえ冴島が捕まって、今度こそ正当な裁きをうけようとも、それは冴島自身の責任であり、運命だ。
とはいえ、ある懸念も抱いている。
冴島は、今度こそ正当な裁判にかけられることを覚悟している。あの被害者の娘に部屋を教えたのも、それがあってのことではないのか……。
弁護士としての業務を終え、戸倉は事務所を出た。
まっすぐに自宅へ向かった。しばらく冴島に会う必要はない。すくなくとも、最高裁長官が殺害されるまでは……。
「ん?」
つけられている。
すぐにわかった。あの刑事だ。
あの夜の児玉花梨とはちがう。尾行の“いろは”をわかっている者のやり方だ。それなのに戸倉でも気づけたのは、むこうがわざと知らせているからだ。
尾行をしているよ。
そうメッセージを出している。そのほうが効果があると確信しているのだ。
安直な表現をもちいれば、挑発をしている。
「……」
のってはいけないと思いながらも、足がいうことをきいてくれなかった。
駅へ向かい、電車で数駅。そこから徒歩であの公園に──。
ヒントはここまでだ。
戸倉は、木々の生い茂るエリアを抜け、あの刑事から距離をとった。さすがにプロだ。それでもついてくる。
公園を出て、路地を曲がり、再び駅へ向かった。
ふいに気配がなくなった。
「……」
戸倉は後ろを振り返った。
本気を出して、気づかれない尾行に切り替えたのか……それとも尾行そのものをやめたのか……。
むこうがわざと気づかせていたということは、こちらが気づいていることを承知で追いかけていたことになる。たぶん駅へ向かったことで、もう意味はないと判断したのだろう。あの刑事にも、ヒントの意味はわかったはずだ。
バカなことをしたという自覚はあるが、後悔はしていない。そう思わせるだけの魅力が、あの刑事にはあった。
思えば、冴島に協力することになったのも、同じような感情だったのかもしれない。
これから桐野という刑事がどう出るのか、それを知りたいと心がざわつく。
冴島の復讐の旅に、なにかしらの影響をあたえるだろう。もしかしたら、パンドラの箱を開けるのは冴島ではなく、あの男なのかもしれない。
そしてもう一人──その可能性のある人物の顔が、頭に浮かんだ。
児玉花梨……。
家路についた戸倉の唇に、不謹慎な笑みがはりついていた。