七
七
「彼女は、どうした?」
「気になるのか?」
あとから部屋に帰ってきた冴島に、戸倉は質問した。
「あたりまえだ」
「あんたがつけられたのが悪いんだ」
不吉なことを口にした。
「……なにかしたのか?」
「ああ、したさ」
「もし、関係のない人間を手にかけたら……」
「かけたら?」
「……」
戸倉は、そのさきを言わなかった。
「安心しろ。助けただけだ」
「助けた?」
新たなる疑問ができた。
「だれを助けたんだ?」
「彼女だよ」
戸倉には信じられないことだった。
「なんだ?」
「おまえが他人を助けたのか?」
「……」
冴島は、無表情にも、複雑な顔をしているようにも見えた。本人も、なぜそのような行動をとったのかわかっていないようだ。
「それで……なにがわかった?」
戸倉は、話題を変えた。
「《青》の女が、口を割った」
「なんと言った? いや、そのまえに……その女は、どうなった?」
その女──とは、最初の話に出た女性とはべつの人物だ。
「さあな。死んではいないはずだ」
「事件にはなっていないようだが……」
そうだとすると、軽い怪我ですんだということか……それとも、死亡してだれにも発見されていないのか……。
この男のことを考えれば、後者である可能性がある。
「べつにいいじゃないか。あの女は──《裁判員の青》は、関係者そのものなんだ」
「それもそうだが……あくまでも犯罪をおかすのはおまえだ。私は知らん」
「ふふ」
いまの責任を放棄するような言葉にも、冴島は気分を害した様子はなかった。
「それで……女はなんと言った?」
「先生の関与を認めたよ」
「先生か……」
「なにも不思議がることじゃないだろう?」
冴島は皮肉を言った。弁護士も「先生」と呼ばれているからだ。
「否定はしない。こうやって、おまえに加担にしているのだからな……」
おもしろそうにして、冴島は聞いていた。
「だが、腐った政治家よりはマシだ」
「腐った政治家ね……」
また皮肉が返ってきそうだったので、戸倉はべつのことを口にした。
「さすがに次は、出てこれないかもしれない……やるなら、慎重にな」
「それは覚悟のうえだ」
淡々と冴島は言った。
「こうして自由にしているのが、異常なんだ」
たしかに二人も殺害しておいて、自由の身になっている。裁判所なのか、検察なのか、とにかく冴島に触れたくない勢力がいることだけは事実のようだ。弁護をしている戸倉でさえ、すんなりいきすぎていると不安になるほどに……。
「問題は、どのていど上なのか」
二件目が起訴すらされなかったということは、むこうも気づいている。
冴島の素性だ。
七年前の事件の遺族だということを。
「先生を顎で使えるほどの存在だということだろう」
政治家のなかでも、トップクラス。
総理大臣経験者。もしくは、それに匹敵する実力者。
いや、表舞台で活躍しているとはかぎらない。メディアに取り上げられるほどの大物は、本当の大物ではない。
「あぶりだすさ」
冴島が、つぶやくように言った。
「あ、そうそう。この部屋に、たずねてくる女性がいるかもしれない」
「?」
この男が、女になど興味をしめしたことはなかったはずだ。
「まさか……さっきの」
「ああ。約束した。おれは逃げも隠れもしないと」
「……現場を見られたら、どうするつもりだ? 殺すのか?」
冴島は答えなかった。虚空をみつめるような瞳で、この部屋とはべつの次元を眺めていた。
* * *
殺害が決定した人間のことは、本名では呼ばない。
なぜかと理由を問われても、答えることはできない。
そうだから、そうなのだ──。
これから殺すことになる政治家の名前は、そうだな……『ハンディマン』とでもしておこう。
もっと上の権力者たちから便利屋として使われているからだ。
愚者は、選挙スタッフとして事務所に入り込んでいた。与党の有名政治家ともなれば、スタッフの数も多い。みなが全員の顔を覚えていることはありえない。
愚者は、ハンディマンの身辺を調べた。《青の女》以外にも、なじみの高級クラブに愛人がいるようだ。ハンディマンにとって、女は道具の一つにすぎないのだ。
もっとも、ハンディマンもこれから道具の一つになのだが……。
夜になり、事務所には数人のスタッフとハンディマンだけになっていた。
一人帰り、二人帰り……。
「えーと、あなた、名前なんだっけ……あなたも、もう帰っていいわ」
女性のボランティアに言われた。
愚者はうなずいて、帰り支度をはじめた。
「私も失礼するよ」
「ごくろうさまです、先生」
ハンディマンは事務所を出て、高級車に乗り込んだ。
愚者は、自転車でそれを追う。高速にでも乗らないかぎり、都心では自転車で充分なのだ。
店には寄らなかった。さすがに選挙を数日後に控えているからだろう。
が、自宅とはちがうマンションへ向かった。選挙期間中でも、女との密会は大切なルーティンらしい。
どうでもいいか、そんなこと。
愚者は、部屋に侵入した。
ベッドのなかで、ハンディマンは愛人と激しく動いていた。
女のほうが上になっている。
まずは、その女の動きを止めた。
殺したわけではない。愚者は道化師ではないのだ。延髄への打撃で昏倒させただけだ。ただし骨が折れていたら、どうなるかわからないが。
女の身体が、ハンディマンに覆いかぶさった。顔は、女の胸の下だ。だからハンディマンは、まだ状況を理解していない。突然、動きを止めた女に対して、自分の攻めが凄すぎて気絶してしまったのだと、バカな勘違いをしているかもしれない。
3から9へ。
道化師。
まずは、女の身体をハンディマンから剥ぎ取るようにベッドから出した。廃材を捨てるように床へ落とす。女は目覚めない。愚者が力を入れすぎたのかもしれない。だが、女の生死など道化師にはどうでもいいことだった。
「な、なんだ……どうなっているんだ?」
ハンディマンは、まったく状況が理解できていない。
「お、おまえはだれだ?」
間抜けなことを口にしたので、道化師は笑った。
「な、なんでここにいる!?」
そこでようやく、重大な危険が迫っていると悟ったようだ。手遅れだが。
このマンションは、愛人との情事だけに使っている部屋だ。このあいだの、もう一人の愛人にはマンションを買い与えていたが、どちらが大切な女なのだろう。
またどうでもいいことを考えてしまった。
きっと、どちらも大切ではない。
だからなのか、すでに死んでいるかもしれない女には眼もくれず、この部屋から逃げることしか考えていなかった。
道化師は、ハンディマンの両足の腱を切断した。
「うぎゃあああ!」
つんざくような悲鳴だったが、情事のときの声を漏らさないように、防音には最大限気をつかっている。女を抱くための部屋なのが災いになった。
「おまえは逃げられない」
道化師は、笑いながら宣告した。
「な、なんなんだ……なんでこんなことを! ぐう……お願いだ! やめてくれ!」
「頭がイカれてるんだ。おれに罪はない」
「な、なにを……言ってるんだ!」
「おれは人殺しを許されてるんだ」
「頭がおかしいのか!?」
「そうだよ」
道化師は、人を傷つける行為が可笑しくてたまらなかった。
「や、やめてくれ……なんでもあげる! 金か、女か!?」
ハンディマンにとっての価値観は、金と女だけなのだ。
「それとも……そうだ! 私の秘書にしてやる! ゆくゆくは、政治家にしてやってもいい!」
それにもう一つ、権力も加えていいだろう。
「いいね。政治家にでもなって、人殺しを合法化したいもんだな」
喜々として道化師は言った。
「冗談は、それぐらいでいいだろう」
道化師が口にした言葉に、ハンディマンは自分のことだと思ったようだ。
「じょ、冗談なんかじゃない!」
「黙れ。いま変わるところなんだから」
道化師の動きと表情が、一瞬だけ固まった。
「……では、質問に答えてもらいましょう」
ハンディマンは混乱していた。声がちがっていたことに不信感を抱いたのだ。
いや、声は同じだ。
だが、ちがう。
道化師は、べつのだれかと入れ替わっていた。
「あなたに命令したのは、だれですか?」
「め、命令……なんのだ?」
「裁判員になった女のことですよ」
「そ、そんな女は知らない……」
「嘘はつかないでください。その女がいまどこにいるのか、あなたも知らないでしょう?」
「ま、まさか……なにかしたのか!?」
「殺してはいません」
その保証はなかったが、死んでいれば、むしろこの男の耳にも入っているだろう。
「《裁判員の青》が、あなたからの指示だと話してくれました」
「そ、そんな……だから……」
だから急にいなくなったのか──そう続けたかったようだ。
「言ってください。だれの命令であの女性を用意したんですか?」
「……そんなことは言えない」
「ならば、ここで死ぬしかないですね」
「ほ、本当に助けてくれるのか!?」
「しゃべりますか?」
「……わ、私はただ、最高裁長官からお願いされただけだ……」
「どのような?」
「裁判員にふさわしい人間を用意してくれと……」
「ですが、どういう意味合いがあったのかは知っていましたね?」
「……知らない」
「知らないわけはないでしょう?」
「私は、わけもわからず用意しただけなんだ!」
「女に裁判を誘導するように指示していたじゃないですか」
ハンディマンは、口をつぐんだ。女がすでに吐いているという現実を思い出したようだ。
「もう一度、お聞きします。知っていましたね?」
「ゆ、許してくれ!」
必死の訴えも、しかしそれを耳にしている場合ではなくなっていた。冴島の内部で異変がおこっていたのだ。
「待ちなさい……まだ終わっていません」
「な、なんだ……なにがあったんだ!?」
ハンディマンが次に見た笑顔は、まさしく残忍な殺戮者のそれだった。道化師がもどってきたのだ。
「や、やめてく──」
命乞いの最後までは待たなかった。
側頭部に掌底を当て、ハンディマンは意識をなくした。
裁判員の女とはちがう。
この男には、制裁が必要だ。
「くくく! ここからは、おれが楽しませてもらう」
冷酷な、そして楽し気な声が、道化師の口からもれた。