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 冴島が退院しているかもしれない──大沢からの連絡を受けても、花梨はもう驚かなかった。

「裁判員の青……それをさがしてると思いますか?」

『どうでしょうね……』

 花梨も大沢も、あることを後悔していた。

《裁判員の青》のことを戸倉に話したことだ。戸倉から冴島に、そのことは伝えられただろう。

 もし《裁判員の青》が特定の人物を指しているとして、さらにその人物が七年前の無罪判決に大きくかかわっているとしたら、次のターゲットを教えてしまったことになる。

『もしなにかやろうとしているのだとしても、それがだれなのかわからない……』

 つまり、止めようがないということだ。

 裁判員に対しては、厳重に個人情報が保護されている。一般人が知ろうと思っても、まず不可能だ。当時の裁判に参加、もしくは傍聴していた人間だったなら、顔を覚えることはできただろう。同じ裁判員同士なら、名前と職業ぐらいはわかるかもしれない。

 冴島も戸倉も、そういう意味では当事者だ。思い当たっても不思議ではない。

「あの……だったら、冴島本人をさがすというのはどうですか?」

『え?』

《裁判員の青》が、だれのことだかわからないのなら、その人をさがすだろう冴島をみつければ、次の殺人を止められるのではないか。

「冴島の居場所さえわかれば、犯行を止められます」

『方法は、あるにはありますが……』

 その答えは、花梨にも思い当たっていた。

 戸倉だ。あの弁護士を張っていれば、冴島といずれ接触するかもしれない。

『とても危険です。冴島の矛先が、こちらに向くかもしれない』

「わたしは、もう襲われています」

 どうせ危険なことにかわりはないのだ。

 かつてはあれほど夜が怖かったのに、いまではその感情は薄れ、冴島本人への恐怖もむかしほどではない。

 大沢に誘われ、一連のことに首を突っ込んだ時点で、花梨の精神が強くなっていくことは必然だったのだ。

「それに……冴島は、わたしを殺さないと思います」

 口にして、花梨は自身でも驚きを感じていた。なぜだか、そう思えた。

『……わかりました。とにかくやってみましょう。あの弁護士を見張ってみます』

「わたしも手伝います」

 普段は大沢が監視して、大沢の都合が悪い時間に花梨が見張ることになった。花梨は免許をもっているから、車での張り込みができる。

 さっそく翌日の仕事終わりに、自家用の軽自動車で戸倉の弁護士事務所へ行った。大沢も車で張り込んでいた。

「どうですか?」

 大沢の車の助手席に入って、これまでの様子をたずねた。

「朝、事務所に来てからは外には出ていません。食事も出前を頼んでいました」

 さすがに、そんなにすぐ尻尾はつかめないようだ。

「あとはまかせてください」

「本当に一人で大丈夫ですか?」

「大丈夫です」

 不安はなかった。戦うことが、トラウマに打ち勝つ一番の方法かもしれない。

 大沢は帰っていた。自分の軽自動車のなかで、ただ戸倉の事務所を眺めつづけた。

 夜九時になり、十時になり……。

 戸倉の事務所の電気はついたままだ。客が来るわけでもなく、かといって外出するわけでもない。いったい、いつまでいるのだろう──そう考えたはじめたとき、事務所の電気が消えた。

 おとなしく帰宅するのか、それとも冴島と会うのか……。

 花梨は、緊張するのを自覚した。

 戸倉は警戒している様子もなく、夜道を歩いていく。距離をあけて車を発進させた。しかし、人の歩くスピードで走っている車はとても不自然だ。

 花梨は、ブレーキを踏んだ。

 路肩に停めて、車外に出た。歩いて尾行することにした。

 戸倉の後ろ姿は、20メートルほど前方にある。近づきすぎないように気をつけながら追跡を開始した。

 駅周辺の繁華街に向かっている。通行人が増え、尾行がしやくすなった。そのまま駅に入り、電車に乗った。花梨はとなりの車両で監視を続ける。

 ある駅で降りた。

 改札を出て、戸倉は徒歩で進んでいく。

 駅を出たときは人通りも多かったが、じょじょに寂しくなっていく。花梨は心細くなりながらも、追跡を続けた。

 公園に入った。緑が多く、けっこうな広さのある公園だ。ジョギングをしている男性とすれちがったが、ほかに人影はなかった。

 すると──。

 戸倉が遊歩道からはずれ、木々のあいだに消えていった。

 花梨もすぐにあとを追ったが、戸倉の姿はどこにもなかった。

「……」

 尾行は失敗したようだ。

 落胆に、ため息をついたときだった──。

「!」

 ふいの力で、花梨は芝の敷き詰められた地面に倒された。

 なにがおこったのか、まったくわからない。

 数瞬おくれて、何者かに襲われたのだと頭がはたらいた。

「な、なんなの!? う、ぐ……」

 口を塞がれ、馬乗りに覆いかぶさられてしまった。

「や、やめ……」

 大声をあげているはずが、さえぎられた手によって叫ぶことができない。

 襲われる!

 何者かの指が、シャツの胸元に触れた。

 が──。

 ゴン。

 鈍い音がすると、暴漢の動きが止まった。さらに覆いかぶさってきたが、そこに意識は介在していなかった。

 花梨は必死になって、男の下から脱出した。抵抗はない。やはり暴漢は失神していた。

「……あ、あなたは?」

 花梨は、かたわらに立っている男の存在に気がついた。服装に見覚えがった。公園に入ったときにすれちがっている。ジョギングをしていた男性だ。

 その男性の手には、太い木の枝のようなものが握られていた。

 不穏な空気を感じ取った。

 たんに助けてくれたわけではない……。

「さ、さえ……」

 花梨の言葉は、恐怖で途切れてしまった。

 ジョギング男の正体に気づいてしまったからだ。

 冴島冬輝とうき

 本能的に、殺される、と思った。

 数秒間の凍った時が流れた。

「……わ、わたしを殺すの?」

 ようやく、ちゃんと声を出すことができた。

 不思議と、そう口にしたことで冷静さを取り戻すことができた。

「助けてやったのに、その言い草はないな」

 意表を突かれた。あの冴島冬輝が、意味のわかる言葉を発している。これまで裁判では、意味不明なことしか耳にしたことがない。

「助けてやった……?」

 わけがわからずに、その言葉を反芻していた。

「こいつからな」

 冴島が、暴漢を足で小突いた。

 反応はない。死んではいないだろうが、かなり強く強打されたようだ。深い眠りに落ちている。

「な、なんなのこの人は……」

「知らないね。おおかた、よからぬことを考えて公園にいたんだろう。そこにあんたが、のこのこやって来た。この男にとっては、いい獲物だ」

 殺人鬼が痴漢を退治した──いまは、そういう構図ということになる。

「あなたは……どうして?」

 どうしてここにいるのか……そして、どうしてわたしを助けたのか、その二つの意味がふくまれていた。

「あの弁護士を追ってきたんだろう?」

「そ、そうよ……」

「おれをさがしてたのか?」

「……」

「おれになんの用がある?」

「あなたを……一発、ぶん殴ってやろうと思って!」

 感情がはじけた。

「あなたは、わたしの父を殺してるのよ!」

「そうだな……そしてあんたは、その殺人者の前に現れた」

 冴島が、手にした木の棒を動かしたように見えた。

 花梨は、反射的に身構えた。

 しかし冴島は、棒を手放しただけだった。

 乾いた音が、寂しく響いた。

「……わたしも殺すの?」

「だったら、助けはしない」

「あなたのような人は、自分で殺すことに快感を得るんでしょ?」

「ふふ」

 それを冗談ととらえたのか、冴島は笑った。

 これまでも、狂気の笑みなら裁判中にも見たことがあった。だが、これはちがう。

「なにが可笑しいの!?」

「可笑しい?」

「いま笑ったじゃない!」

 冴島は、真顔にもどっていた。

「あなたは、父だけじゃない……わたしのことも襲うとした……ただの殺人鬼よ!」

「わかってるじゃないか」

 冴島が近寄ってきた。

「そうだよ。おれは殺人鬼だよ」

 花梨は逃げられなかった。恐怖で身がすくんでいたこともたしかだ。しかし、それだけではない。

 どうしてだろう? 逃げなくてもいい……それがわかっていた。

 冴島の顔が、首筋に密着した。

 裁判で噛まれた箇所と同じところだった。

「……」

 唇をつけただけで、冴島は顔を離した。

「なんのつもり?」

 すでに彼は立ち上がっていた。

「この男は、こっちで始末してもいい」

 怖いことを口にした。

「生きてるんでしょう!?」

「さあな。殺すことにしか興味はないので」

 大丈夫だ。暴漢は息をしていた。

「……安心して、あなたがやったなんて言わない」

「どうしてだ?」

「正当防衛よ。あなたは悪くない」

 他人を守るためでも正当防衛は成立したはずだ。

「……」

 さぐるような眼で見られた。

「でも誤解しないで。いまのこれだけよ。あなたのやっていることは、許せないことでしかない。たとえ……」

「たとえ?」

 一瞬、花梨は口にすることを迷った。

「……たとえ、あなたが両親の復讐のためにやっているのだとしても」

「……おれをさがしていたんだな? おれは逃げも隠れもしない」

 冴島はそう言うと、ある住所を伝えた。

「……なに? なんなの?」

「おれの住んでいる場所だ」

 なんのつもりだろう?

「おれに会いたければ、好きなときにたずねてこい」

 そう言い残して、冴島は去っていった。

 花梨は、すぐに警察へ通報した。救急車も呼び、ずっと意識をなくしたままだった暴漢は搬送されていった。

 警察官には、冴島のことは言わなかった。見知らぬ人が助けてくれたと供述した。花梨が弁護士の戸倉を尾行していたことも、当然のことながら、ふせておいた。

 花梨は自宅に帰ると、首筋を手で触れた。

 冷酷な爬虫類のような人間だと思っていた。

 ……だが唇の感触は、想像以上に熱かった。

 花梨はその熱を、いつまでも忘れることができなかった。


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