五
五
戸倉のもくろみどおり、冴島冬輝は不起訴となった。
某精神病院に収容され、六ヵ月が過ぎたころ、戸倉は閉鎖病棟を訪れた。
「もうそろそろいいでしょう」
となりで立っている医師に戸倉は提案した。
「それはさすがに……まだ一年も経っていない……」
「期間なんて、どうせ意味はありません。完治なんてしないんですから」
「声が大きいですよ……」
医師は、周囲を気にする素振りをした。以前にもあった行動だ。
「ここにいるのは、われわれだけですよ」
戸倉は、あくまでも医師に対して高圧的だ。
この医師こそが、七年前の裁判で犯人の精神鑑定を担当したのだ。
カラクリはわかっている。この医師には当時、多額の借金があった。そこを犯人の後ろにひかえる権力者につけこまれた。
本来なら、すでにこの男も殺されているはずだった。だが、いまは協力者として引き入れている。
そうしなければ自分も狙われる対象だということを、この医師も承知しているはずだ。
「では、一ヵ月後に」
戸倉は強引に話をまとめた。
「そ、そんな!」
医師の反論は、戸倉の右手が許さなかった。
「入れてください」
発言を手で制された医師は、しぶしぶといった感じで、病室の鍵を開けた。
戸倉だけが、なかに入った。
冴島は、ベッドで眠っていた。
「いまは、何番だ?」
眼をつぶったまま、冴島は反応をしめした。
「27」
「四番目……冴島冬輝ということでいいんだな?」
瞼がもちあがった。
その瞳が、そうだ、と告げていた。
「退院は、もう少しさきになりそうだ」
「……」
「情報がある」
戸倉のその言葉で、冴島の顔が興味の色に染まった。
「裁判員の青」
「青?」
「その言葉を残した人物がいる」
「だれだ?」
「おまえが殺した元裁判官だ」
「その情報は、どこから?」
「娘から聞いた」
「……」
「覚えていないか? おまえが食い千切ろうとした女性だ」
「……おれではない」
「そうだったな……二番目だったな。だが、それもふくめて、おまえだ」
冴島は、その言葉に納得しているのかどうか……。
「青、裁判員……」
言葉を覚えたばかりの異国人のように、冴島はその単語をつぶやいた。
「七年前の裁判、おまえも傍聴していた。思い当たる人間はいるか?」
「あんたは?」
「たぶんこれは、単純なことだ」
「単純?」
「裁判員のなかで、青い服を着ていた女がいたろう」
「……ああ、いたな」
冴島の眼が、遠くの光景をつかんだように力をおびた。
「ここからさきは、いつもどおり私は関知しない」
「それでいい」
「次に会うのは、檻の外だ」
そのときには、ターゲットが一人死んでいるだろう。
* * *
二ヵ月後。
冴島冬輝は、街のなかにいた。
心神喪失者等医療観察法では、退院してもすぐに自由となるわけではない。最低でも三年間の通院を続けなければならず、その期間には保護観察がつく。
それでも冴島は、標的をみつけるために世間を漂っていた。
しかし、このままではダメだ。
ああ、変わってゆく。
27は、四番目。それではない……。
すべてを超える存在に。
五番目。
39に対抗するには、自らも39に。
全能者──。
「……」
冴島は、冴島ではない存在に満足していた。すべての人格を超越する男となった。
ひれ伏すのだ。
われ以外の凡人よ!
「では、はじめるとしよう」
まず考えるべきは、裁判員の青が、どこのだれなのか……いまどこにいるのか……。
顔は覚えている。
だが、七年前──もうじき八年になるから、印象がちがっている可能性はある。それでも、もう一度会えば、必ず見分ける自信はあった。
手がかりが、まるでないわけではない。
犯人Aが権力者の息子だとしても、あそこまで周到に無罪を勝ち取り、裁判でも名前すら出すことなく事件を終わらせたとなると、そんじょそこらの大物では無理だ。
政治家すらアゴで使うような権力者……。
その影すらわからない。
だが、その“アゴで使われる”側なら、想像がつく。
与党政治家のなかでも、いろいろと顔がきく、というふれこみの男がいる。悪い言い方をすれば、どんな方面にも通じている黒い政治家だ。
もし権力者が手足のように使える下僕を政治家のなかから選ぼうとするなら、これほどの適任者はいないだろう。
裁判が腑に落ちない終わり方をしてから、ずっとその疑いをもっていた。が、確証はなく、じつは似たような政治家がほかに二人ほどいる。だからこれまではノータッチのままだった。
考えはまとまった。
餅は餅屋に──。
こちらも適任者をつかうまでだ。
全能者から、しぼんでいく。
『3』
名を、愚者。
一番目の愚者。
その政治家の名は、谷村正憲。年齢は六九歳。議員生活四十年のベテランだ。黒い噂があるにもかかわらず、こうして何十年も議員を続けていられるのは、それだけ力があるということだ。
選挙が近いので、いままで事務所に詰めていたようだが、夜になって議員は動き出した。
車で夜の街へ。
愚者は、タクシーでそれを追いかけた。
繁華街。きらびやかな飲食店が並ぶ区画で、谷村正憲は降りた。愚者も続く。
高級クラブに、わがもの顔で入店していく。いきつけのようだ。へたに入ったら、いくら払わされるかわからない。愚者は、それでも店に入り込んだ。客としてではない。
どこにでも、まぎれこむ。
それが愚者の役目であり、特性なのだ。
何人もの女性をはべらせ、ご機嫌に飲んでいる。そこに、この店のママらしき女性が挨拶にやってきた。
ふいに、冴島の意識にもどった。
そのママには見覚えがある。
青い服を着ていた──。
当時は、いまよりも若い印象をうけた。あたりまえだ。七年……もうすぐ八年になる。
あのときの裁判員の一人だ。
次の標的が決まった。
* * *
店が終わり、タクシーで自宅へ帰った。
女は、いまの生活に満足していた。高級マンションの最上階に住み、自分の店も持っている。自分にはそれだけの価値があり、これは当然の人生における報酬なのだ。
女は、自室から見える夜景に眼を向けた。
結局、幸せとはお金なのだ。
どれだけ金づるをみつけるか。金のなる木を育てるか──。
「くくく」
「!」
不気味な笑い声が部屋に響いた。
女は、喜悦の思考を中断せざるをえなかった。
「だれ!?」
広い部屋のすみに、何者かの影が浮かび上がっていた。
女は、窓際に後ずさった。
「おれは、イカれた道化だ」
「な、なんで入ってきてるの! 出てって!」
女は叫んだ。
「入ったのは、おれじゃない。愚者の仕業だ」
侵入者は、わけのわからないことを口にした。
「や、やめて! 来ないで!」
侵入者が、ゆっくりと近寄ってくる。
「こんないい部屋に住んでることが、あだになったな」
防音も完璧なこの部屋では、こんな叫び程度ではだれにも聞こえない。この侵入者の言うとおりだ。
「な、なんなの……お金ならあげる! だから、ヘンなことしないで!」
「この世には、金で解決できないこともある」
「や、やめて……」
女は、窓際でへたり込んでしまった。
「答えてもらおう」
「な、なに……」
「七年前の裁判だ」
「な、なんのこと!?」
「裁判員として参加したな?」
「い、いや……来ないで!」
「いいから答えろ」
侵入者の声には、絶対の脅威があった。この状況で逆らう勇気は、女にはなかった。
「そ、それがどうしたっていうの?」
「だれから頼まれた?」
「なんのこと……?」
「とぼけるな。おまえは、その裁判でなにかをやったな?」
「……」
女は、答えられなかった。
心当たりはある。が、それを安易に認めるわけにはいかない。
「なにをやった? どんな命令をうけていた?」
「し、知らないわ……」
「いいから、答えろ!」
有無を言わせぬ口調だった。答えなければなにをされるかわからない。
「……わたしは、言われたことをやっただけよ」
「なにをやった?」
「……意見を言っただけよ」
「なんの意見だ?」
「犯人についてよ……」
「無罪にするよう、仕向けたのか?」
「そうよ!」
女は、ヤケクソになった。このことをだれかに話すということは、先生の顔に泥を塗るということだ。
これまで先生に寄生したからこそ、こんなにいい暮らしを甘受できているのだ。このことが先生にバレたら、それはつまりこの贅沢な生活を手放すということになる。
そんなことはごめんだ……。
しかし、それをしなければ、この侵入者になにをされるかわからない……。
いったい、ほかにどうすればよかったのか!
女は、パニックをおこしていた。
「なんなのよ! あんたはいったい、何者なのよ!」
思考能力がキャパシティを超えた。
恐怖よりも怒りのほうが勝った。
女は狂ったように侵入者に飛びかかった。
首を絞めた。このまま息の根を!
「ぐ、ぐうう……」
やはり男の腕力にはかなわなかった。
両手首を強く握られて、激痛が背中まで突き抜けた。
「だれなのか言え」
侵入者が、冷たく声を放った。
「命令したのは、だれだ?」
「……うう」
痛くて答えられない。
「さっき店で会っていた先生か?」
女は苦しみから逃れたくて、うなずいた。
「そうか」
グキッ!
「ぎゃああああ」
女は、絶叫を放った。
腕が引き千切られたようだ。
「う、う、うう!」
苦悶にのたうった。
手首の骨が、侵入者の握力で砕かれたのだ。
「あの裁判にかかわった者は──あの男を無罪にした人間は殺すつもりでしたが、あなたは下っ端です。命だけは助けましょう」
そう言ったときの男の顔は、それまでの侵入者とは少しちがっていたような気がした。それとも恐怖のために、歪んで見えたのか。
「私のことは証言しないように。すくなくとも、《先生》を始末するまではね」
女は、ただうなずいた。
警察にこの男のことを言ったら、確実に殺される。どこに逃げようと無駄だ。必ずみつけだされて、息の根を止められる──。
本能的に、それがわかった。
女が意識をたもてたのは、そこまでだった。
暗い運河のような闇に、女の精神は落ちていった。