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犯人の名前は、報道されなかった。
法務省官僚の家が襲撃され、本人が殺害、妻と娘が重傷を負った凶悪事件だ。にもかかわらず、ニュースでも新聞でもあつかいが小さいような気がした。
官僚──そう報じられたことに違和感があったが、それは花梨が法務省のことをあまりよくわかっていないからだと、あとになって大沢から説明をうけて知ることになった。
法務省の官僚の多くは検察庁や裁判所からの出向であり、身分は検察官(裁判官も検察官になる)のままであるということだった。大沢の言っていた事務次官に最も近いという意味は、そのまま法務省の事務次官のことだったと、あたらめて理解した。
犯人が冴島冬輝かどうかは不明のままだったが、犯人が逮捕されていたことは、花梨に一応の安堵をもたらしていた。
冴島の犯行目的が、過去に両親が巻き込まれた事件と関係があるのか、まだわからない。が、あるとすれば、花梨もそのターゲットに入っているかもしれない。
現に、裁判では襲われている……。
冴島は一度、心神喪失で無罪になっている。では、今回は?
もし、またすぐに自由の身になったとしたら……。
花梨は、背筋に寒気をおぼえた。
事件発生から一週間が経ったころ、大沢から連絡があった。
『冴島の犯行で、まちがいないようです』
「……そうですか」
冴島であっても、なくても、どちらにしろ花梨にとっては完全に危険がとりはらわれるわけではない。だが当面の危機がないだけでも、よかった、と思う感情のほうが強いだろうか。
『ですがね、どうも動きがへんだ……』
声音で花梨の気持ちを感じ取ったのか、大沢が“ぬか喜び”をさせないための言葉を続けようとしていた。
「どうしたんですか?」
『検察は、不起訴の方向にもっていこうとしているようです……』
「え?」
これだけの事件をおこしておいて、裁判にすらならないということがありうるのだろうか?
「そんな……」
『あきらかに精神異常が疑われる場合は、そういうこともあるかもしれません……とはいえ、そうなるには、せめて精神鑑定の結果が出てからでしょう』
「……同じような犯行を繰り返してるのですから、病気を偽っているんじゃないですか?」
まずは、それを疑わなくてはならないはずだ。
『……偽っているのか……それとも、異常だから犯行を繰り返しているのか……』
「でしたら、もっと長い期間、入院させなければおかしいです!」
『そうですね、あなたの言うとおりだ』
「どうして、こんなことに……」
嘆くように花梨は言葉をもらした。
『元凶は、やはり七年前の事件にあるような気がします』
大沢はそれを調べるために、今回殺害された上田という検察官を取材するはずだった。
『冴島の復讐……』
父は、冴島になにをしたのだろう?
殺されるほどのことをしたのだろうか?
「大沢さん……」
『どうしました?』
「大沢さんに言われて、父の遺品を整理してみました」
『なにか出ましたか?』
「どういう意味をもつのかわかりませんけど……」
花梨は、そうことわりを入れてから続けた。
「手帳に書いてあったんです」
『どんなことが?』
「裁判員の青──そういう記述が、何度か出てくるんです。七年前の手帳にしか出てこないワードなんです」
『問題の裁判があったころですね……ほかには、なにか書いてありますか?』
「あとは、その日のスケジュールについてしかありません」
『その記述があるのは、何月何日ですか?』
「……何回か出てくるんですけど、全部、欄外に記入されているものなんです。五月の第二週と三週のページと、六月の第一週の欄外です。赤で丸がされてるので重要なことだとは思うんですけど」
『裁判についてのなにかなら、当時裁判に出席した人物に訊くしかないですね』
それがだれのことであるのか、花梨も理解した。
「その意味を知っていたとしても、教えてくれると思いますか?」
相手は、敵側の弁護士なのだ。
『肝心なことは、ぼかされるでしょうね。でも、裁判にかかわった人間で思い当たるのは、戸倉弁護士しかいない』
「わたしも同席します」
大沢は、そう言い出すことを期待していたようだった。戸倉が、記者だけでは──被害者遺族がいっしょでなければ会ってくれないことは、前回で証明されている。
翌日の仕事終わりに、例の喫茶店で待ち合わせることにした。
おたがいが、ほぼ時刻どおりに入店した。さすがになにも頼まずに向かうのは失礼なので、花梨がレモンティーを、大沢がコーヒーを注文した。すぐに飲んで戸倉の事務所に移動した。
「またですか」
言葉を文字におこせば不快な意味にとれるが、戸倉の口調からはそういった感情は読み取れなかった。
「で、今日はどんな話が聞きたいのですか?」
「冴島冬輝が、また犯行をおこないましたね?」
「なんのことでしょう?」
実名の報道がされていないからか、戸倉はとぼけていた。が、花梨でも容易に見破れるようなとぼけ方だ。
「先生が今回も弁護なさるんですか?」
大沢は果敢に切り込んだが、戸倉にはさらりと受け流された。
「個別の案件について、お答えすることはできません」
「ちょっと待ってください……」
たまらずに、花梨は声を出してしまった。
「それ、おかしくないですか?」
「なぜですか?」
「冴島が犯行をおかしたのなら、先生にも責任があるはずです!」
「おかしなことを言われる。どうして、私の責任になるのでしょう?」
「無罪にした犯人が、再び犯行をおこなったんですよ!? 弁護士の責任でもあります!」
「無罪の判決を出したのは、裁判所です。私は、自分の仕事をしたまでです」
いけしゃあしゃあと、戸倉は主張した。
許せなかった。
「被害者のことは考えられないんですか!? 冴島に殺された人に対して、申し訳ない気持ちはないんですか!?」
「ありませんね」
戸倉は、躊躇することなく答えた。
「あなたという人は……!」
花梨は、憎悪のあまり視界が霞むのを自覚した。
「児玉さん!」
つかみかかりそうだったところを大沢に止められて、なんとかこらえた。
「そんなことより、あなた方はなにかを調べているようだ。そのことで聞きたいことがあるんじゃないですか?」
戸倉のほうから話題を変えた。
花梨は座りなおして、大沢が切り出すのを待った。冷静にならなければ負けだ──自分にそう言い聞かせた。
「では、遠慮なく」
「どうぞ」
「裁判員の青」
「? なんのことですか?」
「意味はわかりますか?」
「いえ。なんのことだか」
嘘を口にしているようではない。
「それは、なんなのですか?」
「なんだと思いますか?」
「さあ?」
二人のやりとりは、まさしくさぐりあいだった。
「裁判員についてのことですね……」
「それすらもよくわかりません」
「そうですか……裁判員の青ですか」
戸倉の眼光が、なにかをひらめいたように輝いた。いや、もちろんそれは錯覚だ。だが花梨には、そのように見えた。
「なにか心当たりがあるんですか?」
大沢も、花梨と同じにように感じたようだ。
「いえ。なにもわかりません」
嘘だ。この男は、なにかに気づいた。思い出したという表現が正しいだろうか。
「教えてください……この言葉は、どんな意味があるんですか?」
花梨は頼みこんだ。このさい、わだかまりは置いておくことにしよう。
「……知らないほうがいいですよ」
答えは期待できないかと思われたが、つぶやくような声量が耳に届いた。
「どういう意味ですか?」
「知らなければ、罪悪感は生まれない」
「罪悪感?」
不穏な空気を悟った。
花梨と大沢が罪悪感を抱くということは、だれかの死につながっているということではないのか……?
「まさか、冴島は……まだやろうとしているんじゃないでしょうね!?」
「なんのことかな?」
「復讐よ!」
「復讐?」
大沢が困ったような顔になっていた。おそらく、その核心には手順を踏んで切り込みたかったのだろう。
「七年前の復讐でしょう!?」
花梨は、止まらなかった。
止められなかった。
「冴島の両親が殺害されている……その復讐を冴島はしようとしている!」
「……おもしろい推論だ。しかし、それは不可能だろう」
「え?」
「彼は、そういう概念をもてない。自分の両親が殺されたことも理解しているかどうか……」
それは、あくまでも冴島の精神疾患を主張した発言だ。
しらじらしい……花梨は、辛辣に思った。
「この期におよんで、まだそんなことを!」
冴島が復讐を続けようとしていることは明白だ。つまり、心神喪失は詐病ということになる。
「嘘ではありませんよ」
花梨の言いたいことを表情から読み取ったのか、戸倉は主張をやめなかった。
「正当な鑑定を受けた結果です。裁判所もそれを認めた」
「ですから、その判断が過ちだったということでしょう!?」
「話にならないな。ここは法治国家ですよ。裁判所の判断がまちがっていたと騒ぎ立てるのなら、なにを根拠にあなたは詐病と主張されるのですか?」
「……」
「あなたのその考えのほうが、まちがっているかもしれない」
「そ、そんなことは……」
花梨は、言葉に詰まった。
「どちらの主張が正しいか、それを判断するのが裁判所の役目でもある。その決定を不服とするのなら、永遠に結論はでません。裁判所がそう判断したのなら、それに従うのが法治国家に住む人間の責務です」
理路整然と戸倉は語った。
言い返したいが、言い返せない。
裁判の結果が不服だからといって、それに従わないのは、もはやテロリストの論理だ。
しかしその前提には、裁判が公正におこなわれている、という条件がつけられる。
どうにも陰謀の匂いがする。
そのことに思いがいくと、少し冷静になれた。
「冴島が無罪になったのは、なにかの力がはたらいたんじゃないですか?」
「なにかの力? ほう、ではそれはなんだというんですか?」
やはり、そうなのだ。戸倉の表情を見れば、そのことがわかる。
「教えてください! 冴島には、なにがあるんですか?」
「……私は言ったはずですよ。あっち側じゃないのかと」
それは覚えている。そのあっち側というのは、被害者の側に問題がある、と花梨も大沢も解釈したわけだが、その過程で七年前の裁判とのかかわりを疑った。考え方によれば、その七年前の裁判に問題があるともとれる。
事態が読みづらいのは、戸倉の立ち位置がわからないからだ。
冴島がなにをたくらんでいるにしろ、冴島と戸倉は一蓮托生のはずだ。が、七年前の裁判では、冴島と敵対する立場だった。両親を殺害している犯人の弁護をしているのだから。
「それは、どういう意味なんですか? 七年前の裁判で、なにがあったんですか? わたしの父は、なにをしたんですか!?」
戸倉は、答えてくれなかった。
「それでは、これだけは教えてください」
花梨とは対照的な落ち着いた声で、大沢が言った。
「そのときの犯人は、どこのだれなんですか?」
冴島と同じように、心神喪失で無罪になっているはずだ。
「……言えるわけがない」
「入院していますか? 退院していますか?」
かまわずに大沢は質問を続けた。
戸倉の表情を見れば、答えはわかった。すでに自由を得ている。
「生きていますか? 死んでいますか?」
その問いには、花梨も少し驚いた。
戸倉の瞳は、生きている、と答えた。大沢は、すでに冴島によってそのときの犯人が殺害されている可能性を考えていたのだ。
「これぐらいでいいですか? 私も、それなりに忙しいので」
これ以上の話を引き出すのは無理のようだ。
花梨と大沢は、事務所を出た。
「結局、わかりませんでしたね……」
「いえ、そんなことはない」
大沢は意外にも、手ごたえを感じていたようだ。
「冴島が次に狙うのは、裁判員なんだ」
裁判員の青。
「あの弁護士は、そのことに気づいた。最初から知っていたなら、あんな反応じゃないはずだ」
たしかに戸倉は最初、本当にわかっていないようだった。
「たぶん冴島とあの弁護士も、さがしていたのかもしれない……次のターゲットを」
「父が残した言葉が、そのヒントになってしまった……ということですか?」
大沢は、答えを明言しなかった。しかし、肯定していることは揺るぎようがない。
「気にすることはありません。どうせ彼らはやるつもりなんです」
「恐ろしい想像ですね……」
七年前の裁判にかかわった人間を抹殺していく──。
その果てに、なにがあるのか……。
大沢が、さきほど戸倉に質問したこと。
七年前の犯人──その命……。