三
三
成功者の根城が、蟻塚のようにそびえていた。
すくなくとも『愚者』には、そう見えた。
この一帯では平均的な一戸建てなのかもしれないが、それはここが高級住宅地と呼ばれる場所だからだ。
蟻塚の群れなのだ。
家のなかから届く灯りは温かく、愚者の心をも平穏にさせる。
それは、許されることなのか?
決めるのは、愚者ではない。
愚者は、そこへ入り込む──それだけの役目だ。
もうじき、変わる。
愚者の意識は薄れ、惨劇の夜がやって来るのだ。
* * *
家の主が帰宅したとき、屋内は時間が静止したように、なにも動いていなかった。
主は、腕時計を確認した。秒針だけは動いている。そのことで、これが日常だと正気を取り戻した。
玄関。
廊下。
リビング。
近づくにつれ、不吉な予感が色濃くなっていく。
なんの匂いだ?
それを知ったとき、主は正気をたもてなかった。
リビングは血の海と化していた。
動くものがあった。むしゃむしゃと、蠢いている。
「!」
悲鳴をあげそうになった。
家には、妻と娘がいたはずだ。刃物で切り裂かれ、床を赤く染めて倒れている。
絶望した。
いや、二人とも、まだ生きていた。
それでもおぞましい……。
犯人の男は、妻の腕の肉を削ぎ、それを咀嚼していた。
「やめろ──っ!」
主は、絶叫を放った。
犯人が立ち上がった。
「おれは、頭がイカれてんだ」
狂人そのものの眼光で、侵入者は言った。
さんざん家族を傷つけたナイフを、凍りついたように動けない主へ向ける。
「イカれた人間を、こうして野放しにしているのは、あんた自身の責任だ」
銀光が、主に迫った。
そこでようやく、侵入者の正体を思い出した。
「お、おまえは……」
心臓を貫かれていた。
血がしぶき、犯人の顔も染め上げた。
「さ、さえじま……」
「二人目」
血液で化粧をした犯人は、冷酷にそうつぶやいていた。
* * *
通報は、その家の夫人がかけたものだった。
パトカーに救急車。そして大勢の野次馬たち。夜の高級住宅地は、繁華街のように喧騒としてしまった。
規制線の外──身勝手な群衆のなかに、大沢の姿があった。
「もしもし? 児玉さんですか? 大変なことになりました」
むしろ、おとなしい口調で大沢は告げた。
『なにがあったんですか?』
「検察官だった上田が殺されました」
『え!?』
「家族ともども、襲撃されたようです……」
『犯人は……?』
花梨の声は、おびえをふくんでいた。
「犯行後も家のなかにいたようです。警察が到着して現行犯で逮捕されたようですが……」
冴島冬輝かどうかは、まだわからない──そうつけたした。
「念のため、ちゃんと犯人が逮捕されたということがはっきりするまで、戸締りはしっかりしてください」
犯人は検察官の上田だけでなく、家族にも手を出した。仮に、現場から逃げていた場合、花梨にまで犯行がおよぶかもしれない。
* * *
吟遊詩人は、空虚な瞳で連行されていた。
エンジン音が、ワッショイ、ワッショイとにぎわっている。
祭りだ。祭りの神輿に乗っているのだ。
なにをしていたのか、思い出せない。
遊びだ。禁断の遊びだ。
この車には、タツノオトシゴが乗っている。
なんなのだ、この空間は。
「おい、やめろ」
ドン、ドン、ドン。
音が鳴っている。タツノオトシゴは、そのことに文句を言っているようだ。
ドン、ドン。
吟遊詩人が、前の席を蹴っているのだ。
なぜ蹴るのか?
それは、太陽が青いから。
吟遊詩人は笑った。
ケラケラ、ケラケラ。
* * *
戸倉が警察署についたのは、深夜に近い時刻だった。
担当刑事は、複雑な表情をしていた。
「おはやい到着ですね……」
本来なら嫌味として口にするものだが、どうやらそういう意図はないらしい。
「あれ、冴島ですよね……」
「そうですが、どうかされましたか?」
「『ケースZ』か……ついてねえ」
担当刑事はそう舌打ちすると、どこかへ行ってしまった。
べつの捜査員に取調室へ案内された。
冴島は、虚空を眺めながら座っていた。無邪気な笑みがへばりついている。
『ケースZ』と呼ばれている噂は知っていた。
警察組織内で触れてはいけないという符号として広まっている。
「番号は?」
戸倉は訊いた。警察官は立ち会っていない。
答えは返ってこなかった。ただ気味の悪い笑顔だけが、そこにある。
「15か?」
より一層、笑みが深くなった。正気を失っている証拠だ。
「犯行は覚えているか?」
あくまでも反応はない。
「それでいい」
冴島の瞳には、なにも映っていないようだった。彼は、冴島であって、冴島ではない。
「おそらく、不起訴になるだろう。一年前のことで、裁判所も検察も警察も懲りている」
そう。それこそ、『ケースZ』をつつくことになる。
「これからも、15のままでいろ」
それだけの会話で、戸倉は面会を終えた。
外で待っていた刑事が意外そうな顔をしていた。
「もういいのですか?」
「はい」
それだけを言い残して、戸倉は警察署をあとにした。
* * *
愚者は、愚かだからこそ、おのれを消せる。
道化師は、道化だからこそ、残虐になる。
吟遊詩人は、詩的だからこそ、夢のなかで沈黙する。
もとの人格には、信念だけがある。
そして、すべてをまとめる全能者。
冴島冬輝は、留置場で人格を取り戻していた。
「これで、二人……」
父を殺害したあの犯人は、いまはどこでなにをしているのだろう?
あの男は、法に守られ、権力に守られている。ならばこちらも、法を味方にし、権力を削り取ってやる!
裁判官。
本来、司法は独立していなければならないはずが、権力の流れに押されて無罪判決を出した。
検察官。
権力者の思うままに動き、法律をねじ曲げた。
弁護士。
シロだ。戸倉という男は、なにも知らずに弁護した。
精神科医。
クロだ。詐病なのを悟っていて、それでも心神喪失を認めた。しかし、とある事情のために殺すことはしない。
あの裁判にかかわった者で死ぬ必要があるのは、あと何人だろう……。
戸倉の語っていたとおり、自分は不起訴になる。確信があった。すべてを画策しか人物が、あの事件をむしかえしてもらいたくないと考えるからだ。
ならば、それを利用させてもらう。権力によってねじ曲げられる法は、必ずしも不利にはたらくわけではない。
おれは、権力によって守られるのだ──。
冴島は興奮をおさえるように、息を吐きだした。高揚する瞬間は、まださきだ。
陰謀をめぐらせた権力者をみつけだし、あの犯人とともに裁く。
「……次は」
その権力者につながる人間をさがしだす。
半年後か、おそくても一年で自由になるだろう。
必ず追いつめる。
その人物から陰謀の黒幕をたどり、あの犯人へ──。