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花梨は、呆然とした心境のまま事態を凝視していた。
眼が離せないのに、とても現実感がない。
いま、すぐ近くで殺し合いをはじめようとしている。
二人の男たち。
冴島冬輝と、名もなきA。
どちらも冷酷な殺人者であり、一方は花梨の父を殺害した仇、もう一方はその仇をつくりだした極悪人だ。
どちらも滅んでしまえばいい!
(え?)
それは自分の本心か?
花梨は、わからなくなった。
ちがう……わたしは、そんなことを考えていない──。
それでは、だれの感情なのだ?
べつのだれかの思いが、自身のなかにあふれていることを、ようやく花梨は理解した。
(なに、これ?)
自分であって、自分ではない。
わたしであって、わたしではない!
だれ!?
「くくく、たしかにここには、おまえ以外にも多重人格者がいるようだな。残念だが、おれではない。おれは、おれ自身が異常なのだ! おれのなかには、だれもいない」
Aが、誇らしげに言った。
花梨は現実感をなくしたまま、その言葉を耳にしていた。
「この女だ。この女のなかにも、べつのが誕生してたんだ。たぶん、おまえがつくりだしたのだ。おぼえがあるだろう?」
なにを言っているのだ、この男は?
冴島は、なにも言葉を返さない。しかしその表情は、確実に思い当たっている。
もしそんなことがあるとすれば、あれしかない。冴島に裁判で首筋を噛みつかれたとき……。
「どうやら、すでに支配されているようだな」
支配されている……?
わたしが?
だれに?
(……)
そこで、ようやく気がついた。
声が出ない。
「ふふふ」
かわりに、心から楽しんでいる笑い声が耳に届いた。
自身の唇からもれたものだ。
信じられないと同時に、既視感にも似たあきらめが脳内に満たされていく。
この感覚は、知っている。
「冴島、おれは誓って、あの弁護士を殺していない」
弁護士……戸倉のことを言っているようだ。
「たしかに会には行ったが、殺しにいったわけではない」
いまさら、罪を逃れようというのか?
「では、だれが殺したのか……それが問題だな?」
なぞなぞを楽しむ子供のように、Aはしゃべりつづけていた。
「なにが言いたい?」
さすがの冴島にも、その答えがわからないようだった。
「おまえのなかにいる《神》にでも聞けばいい」
「……」
二人にしかわからない会話だった。冴島の別人格のなかに、すべてのことを把握している者がいるのだろう。
その人格が、戸倉を殺害したのだろうか?
多重人格者は、べつの人格同士と記憶のつながりがないと聞いたことがある。冴島本人が、それを知らないのかもしれない……。
(ちがう……)
花梨は思った。声に出せないから「思う」ことしかできない。
Aは、べつのことを口にしようとしている。
背筋が凍る。
聞いてはいけない。
耳をふさぐのだ!
「犯人は、ここにいるぞ」
「おれだとでもいうのか?」
「それでは道理にあわない。おまえとあの弁護士は、すべてをわかったうえで組んでいたはずだ。おまえのなかに無差別殺人犯の人格が眠っていたとしても、殺すような真似はしないだろう」
「……」
冴島が、こちらを見た。
こちら──花梨の顔を。
ここにいて、しかも冴島でないのなら、残っているのは一人しかいない。
(そんなこと……あるわけない!)
「ふふふ……そうよ、わたしよ」
他人の発した自分の声が、磁場の狂ったこの空間を駆け抜けた。
「殺したのは、わたしよ」
なにを言っているの!?
なにを……。
「それだけじゃないよな? おれがやったことにされているが」
まだなにがあるというのだ……。
「あの老人たちを襲ったのも、おまえだ」
久世夫妻のことだ。
(嘘よ! そんなのは、この男の嘘!)
花梨が家に到着したとき、すでに夫妻は襲われていた。Aが襲撃したにきまってる!
「ふふ、邪魔だったのよ」
信じられない告白が、自身の口から滑り出た。
「だって、あのおじいちゃんがいると、わたしが弁護できないでしょ。戸倉だって、そう。あの子は、自分の意志で弁護士をめざしたと信じてるでしょうけど、ちがう。すべて、わたしがコントロールしてあげた」
まるで、軽い冗談のようだ。それで笑っているのは、Aだけだった。
そういえばあの日、久世の家に向かう途中──ついさっき経験したような感覚があった。
では、あれは気のせいではなく……。
戸倉弁護士のときは、どうだっただろうか?
あの日、山口のおじさんと会う約束があった。しかし大沢との待ち合わせ時間に遅刻してしまったのだ。寝坊した……本当にそうだろうか?
眠っていたのではなく、別の人格が……。
「ホントは殺そうと思ったんだけどね」
「本物の人格に邪魔されたのか?」
「ちがうわ。あの夢見る夢子ちゃんは、わたしの存在なんてまったく知らない」
「では、良心が痛んだか?」
「まさか」
自分の別人格と、Aが好き勝手な会話を続けている。
「邪魔をしたのは、ちがう人間よ」
だれのこと?
花梨がそう考えても、いま身体を支配している別人が答えを教えてはくれるわけはなかった。こちらの言葉は、むこうには伝わらないのだ。
「そうか。大体のことはわかった」
Aは一人だけで納得して、手にしていたナイフを花梨に向けた。
「これは、プログラムだ。だれかのつくった道筋どおりに、おれたちは動いたにすぎないんだ」
そのセリフには、自虐の色がふくまれていた。
冴島の別人格も、かつて同じようなことを発言していた。
だれのプログラムだというのか……。
自ら言うのだから、Aではないのだろう。花梨でもない。いま支配している別人格でもないはずだ。
だがAは、その人物がここにいるように語っていた。
では、それも消去法をもちいれば、残っている冴島ということになる。
冴島のなかに眠っている別人格が黒幕なのだ。
ここにきて花梨にも、それがわかるようになっていた。
それは、冴島よりも恐ろしくて、冷静沈着にゲームを楽しんでいる。もしかしたら、犯罪の天才であるAよりも悪逆非道なのかもしれない。
しかし冴島に、そのような素振りはみられなかった。冴島は、冴島でしかない。
すくなくとも、いまは……。
「このプログラムは、おれへの挑戦なのだ。おれが、こいつの親を殺したときに発動したのだ」
Aは冴島に言っているようだが、言われた冴島のほうは困惑の表情を浮かべている。
「おまえは、復讐のために行動したと考えているかもしれない。ちがう。すべては、プログラムに書き込まれた命令に従っているだけなのだ」
冴島の別人格が、それをつくりだした。
冴島本人も……いや、冴島のなかにはさらなる別人格も存在しているはずだから、それらはすべてそのプログラムによって行動したにすぎない。
そしてそれは、花梨もしかりだ。いま身体を支配している凶悪な別人格も、そのプログラムによって生み出されたのだ。
「かくいうおれも、それにふりまわされたわけだが……」
自嘲するように、Aはそうつけたした。
「さあ、もういいだろう? おれが会いたいのは、すべての絵図を描いた……プログラムを書き込んだ黒幕だ。裁判中に一度現れたようだが、いまはもう隠れている」
「わたしも会いたいわ。いえ……そのために、わたしは存在しているのよ」
自分ではないべつの花梨も、それを渇望していた。
「全能者に……会いたいというのか?」
畏怖を感じさせながら、冴島は口を開いた。
「ほう、そいつは全能者というんだな」
花梨も思ったことを、Aが言葉にした。
「出てくるかどうかは、おれにはわからない……」
「やはり、コントロールはできないようだな。いや、いまのおまえをコントロールしているのが、そいつなのかもしれん」
そのとき、冴島に異変がおこった。
震えている?
すぐにちがうとわかった。
笑いをこらえているのだ。
「出てきたな! これで役者がそろったというわけだ」
「役者?」
ゾクリとするような声が響いた。
冴島であって、冴島ではない。これまでに会った人格でもない。
「残念だが、君たちでは役不足だ」
「言ってくれるねぇ。では、主役のおまえは、これからどんなショーをみせてくれるのかな?」
挑戦的に、Aが言った。
「なにも……。あなたたちが望んだから、顔をみせておこうと思ってね」
「では、またすぐに帰ってしまうのか?」
「そのつもりだよ」
花梨は、揺れを感じた。
地震かと考えたが、そうではなかった。自らの身体が震えていたのだ。
「そんなのは……許さない!」
別人格の花梨が、厳しい声を投げかけた。
「やっと会えたのに……わたしをつくったのは、あなたよ! わたしは、殺す権利をもっている」
意思とは関係なく、身体が動いた。
冴島自身が持っていた刃物を鞘ごと奪い、刃を抜いて、冴島=全能者にめがけた。
「これであなたは、わたしのもの!」
その凶行を、花梨はただ傍観していることしかできない。
煙のむこうから何者かの影が迫ってきたのは、その刹那だった。
大沢!
久しぶりに姿をみせた彼が、花梨と冴島のあいだに滑り込んだ。
ザクッという感触が、正常に指先から伝わった。
身体の自由がもどっている。
「大沢さん!」
ナイフは、大沢に突き立っていた。
「……あ、あなたに……これ以上、人を傷つけさせない」
弱々しく、大沢は言った。
大沢が姿を消したのは、真相を知っていたからだ。
「わ、わたしが……やったことを……」
「……戸倉さんから忠告されていた……あなたが危険な状態にあると」
「戸倉さんが……」
自身が殺されることも予感していた……。しかもそれはAではなく、わたしに──。
「戸倉さんを救えなかったが……あの弁護士夫婦は、なんとか……」
では、さきほど花梨の別人格が語った、邪魔した人物というのは、この大沢のことだったのだ。
「ご、ごめんなさい……」
あやまっても、どうすることもできない。自分の罪は消えない。
そして、新たに大沢さえも傷つけてしまった。取り返しのつかない大罪だ……。
「い、いいんだ……最初は戸倉さんの頼みではじめたことだが……途中からはちがう……わ、私は、あ、あなたを……」
ゴボッと吐血した。
「大沢さん!」
「あ、あなたは……あなただ! ほかのだれでもない!」
最後の力をふりしぼるように、大沢は言った。
「大沢さん!」
しかしもう、大沢はなにも応えてくれなかった。
「そ、そんな……」
彼を殺したのは、ほかでもない……自分自身なのだ。絶対に許されない……たとえ、別人格の仕業だったとしても……。
花梨は立ち上がった。
「くくく、これからどうなるのかな? おまえの仕掛けたプログラムは、どっちに転がるんだ?」
その結果を予想しているように、Aの声には余裕が満ちていた。
「知りたいかね? これからの数秒で、いろいろなことがおこる」
「ほう」
「私たちだけではないのだよ」
花梨はその言葉を、ここにいる人間だけに影響があるのではない──そのような意味に聞こえた。
それはそうだろう。これまで冴島に殺された人たち、その周囲の人々に暗い影をおとしてきたのだ。
「むこう側にもいる。そして数秒後、動き出すだろう」
むこう側?
だれからのむこう側だというのだ。
冴島の眼がとらえているのは、Aだった。
そのときAの身体から、なにかが噴き出した。
ほぼ同時に、パシュ、パシュ、という音が響いた。
「え?」
噴き出したものが煙と混ざって、赤い霧として広がった。
背後から銃撃されたのだと、遅れて理解した。
Aが、余裕の表情のまま崩れ落ちた。それまでAが立っていた空間に、何者かが歩み寄っていた。
「だ、だれ……!?」
煙のなかからあらわれたのは、剣呑な雰囲気をまとった男だった。
「はじめましてと言うべきですかね」
しゃべり方は、思いのほか穏やかだった。
「遠峰といいます」
「なぜ……こんなことを?」
眼の前で人が殺害されたというのに、花梨は落ち着いたままだった。この非現実な空間が、常識を失わせているのだ。
「いろいろとね……状況が変わったということですよ。もう彼を保護する必要がなくなった」
「そんな理由で、抹殺したというんですか?」
「そういうことだからですよ。彼はやりすぎた。様々な思惑もありますが」
「わたしたちも……」
殺すんですか──その恐ろしい言葉は、声にならなかった。
「それでは話の筋が通らない」
遠峰という男は言った。些細な社会問題を論じ合っているかのごとき、冷静な口調だ。
「この騒動は、すべて彼の仕業になる。精神疾患をもっている男が引き起こした凶行……そう報道されるでしょう。顔写真はおろか、本名が表に出ることもない」
「……わたしたちは?」
「被害者として認知される。罪に問われることはない。あなたの犯した罪も、彼がもっていってくれる」
すべてを理解したうえで、遠峰はそう語っているようだ。
「……」
「冴島君のほうは、このまま裁判が続く。その結果まで、われわれは関知していないがね」
心なしか、煙が薄くなっているような気がしてきた。
「これからあなたたちがどういう人生を歩もうとも、われわれとは無関係だ。そのことだけは忘れなきよう──」
遠峰は、この場から退出しようとしていた。
「まて」
呼び止めたのは、冴島だった。それがなければ、花梨が止めていただろう。
本能的にその声が、もとの冴島のものだと悟っていた。
「Aの正体は……何者だったんだ?」
過去形での問いかけだ。安否は確認していないが、すでにこの世の者でないことはまちがいない。
「それを知るときは、死ぬ時だけです」
それだけを言い残して、遠峰は去っていった。
結局、正体は謎のまま……。
煙が晴れ、武装した警官隊が突入してきた。
花梨はもちろんのこと、冴島も抵抗することなく、警察の指示に従った。
「犯人はこの男だな?」
捜査員の一人に尋問された。
倒れたAのことを見ていた。
「……ちがう」
「この男だな!?」
もう一度、強く念を押された。
「……」
べつの答えは受け付けてくれない……そうあきらめた。
花梨は、ゆっくりとうなずいていた。
エピローグ
その後、裁判が再開され、冴島は無罪を言い渡された。
再び心神喪失が認められるかたちになったのだ。
そのときには久世が復帰していたので、花梨は補佐の役目にもどっていた。
裁判所でおこったあの事件のことは、遠峰という男が口にしたとおり、犯人Aの暴走ということで片付いている。薬物を使用したAが、錯乱状態で裁判所を襲った……そういう筋書きだ。
その場で死亡していた大沢を殺害したのも、久世夫婦を襲ったのも、戸倉を亡き者にしたのも、Aの犯行。
心は痛んだが、真実を告白する勇気はなかったし、たとえ警察に自首したところで、それが認められないことはわかっていた。
冴島が強制入院してから、三ヵ月が経とうとしていた。かつてのように、短い期間で出てくるようなことはない。今度こそ、適正に心神喪失者等医療観察法が執行されるはずである。
冴島が自由の身になるのは、まだずっとさきだ。
いや、治癒が認められなければ、永遠に出てくることはないのかもしれない。
花梨は、めまぐるしかったこの数年を、まるで夢のなかの出来事のように感じていた。
悪い夢だった……。
あれから別人格は出てきていないが、いつかまた邪悪な自分が顔をあらわすかもしれない。
しかし、もう支配されない勇気だけは、大沢から受け取っていた。
それに、いまの花梨は、弱者に手を差し伸べる弁護士なのだ。
もちろん、自らの罪が消えたわけではない。
都合がいいのはわかっていたが、せめて弁護士として困った人たちを助けることで、少しでも罪滅ぼしができたなら……。
新米弁護士としての忙しい日々が続いていた。
* * *
『山野幸助先生ですね?』
「どちら様かな?」
『《機関》の者です』
「……用件は?」
『すべて済みました』
「そうか……ごくろうだった」
『ですが、よかったのですか?』
「なにがだね?」
『これで、あの方の血筋が途絶えることに──いえ、まだあなたがいますが』
「私は、正統ではないよ。不肖の甥が、もう少しまともだったらよかったが……」
『正統でなくても、残るのはあなたしかいないのではないですか?』
「いるんだよ、もう一人ね」
『そうですか……まさかとは思っていましたが……』
「なぜ不肖の甥が、彼の両親を殺害したのか……」
『では、残る血統はやはり……』
「兄弟で殺し合いをしていたということさ」
『どちらにしろ、危険ではありませんか?』
「そうだよ。むしろ危険度が増したかもしれん……」
『恐ろしいことだ……』
「これで君たちの任務は、終わりかね?」
『いえ、数年はあの二人を監視対象におくときめていましたが……その事実がわかった以上──』
「二人?」
『はい。彼にとって重要な女性です』
「ほう」
『意外ですか?』
「そんなことはない。それが本当だとしたら、少しは希望があるのかもしれんな……」
* * *
神奈川県庁は、ここ数か月で激動していた。
知事が贈収賄で逮捕されるという不祥事におそわれ、辞任。
急遽おこなわれた選挙で、あっさりと引退を撤回した前県知事の倉持健吾が返り咲き当選をはたしていた。
この日、新県知事の初登庁により、庁舎内はいつもよりにぎわいをみせていた。
知事が一人で部屋にいたのは、ほんの数分のこと。
「知事!?」
秘書が発見した。
血まみれで息絶えていた倉持健吾の姿を──。
これで、十年前の裁判に関係した人間は、みな……。
ひっそりと県庁舎から遠ざかる女弁護士の姿に、注目する者はいなかった。




