20
20
裁判所へ向かう時間になっても、久世はやって来なかった。
これまで自宅から直接向かうことはなく、必ず事務所から出発していたのだが……。
電話を入れても、出てくれない。久世だけではなく、奥さんにも連絡してみるが、やはり出ない。
おかしい。
久世の住居は、事務所から歩いて十分ぐらいのところにある。歓迎会をひらいてくれたので、そのときに一度だけ訪れたことがあった。
花梨は急いだ。夫婦そろって連絡がつかないというのは、非常事態があったということだ。
脳裏に、傍聴席の男の顔が浮かんだ。あれがAだとすれば……。
なぜ花梨に近づいてきたのかわからないが、冴島の弁護士である久世を狙っていたのかもしれない。しかし、だとしても……なぜ?
疑問も不安も膨らんでいくばかりだった。
近づくにつれ、不可思議な既視感が胸に広がっていた。
つい最近、いまと同じ道を進んでいる。
いや、だからそれは歓迎会のとき……。
ちがう。数日前のことではない。もっと束の間の時間──。
「……」
ただのデジャブのたぐいだろう。気のせいだ。
そんなことを考えているうちに、久世の家についた。
平均的な大きさの一戸建てだ。周囲は住宅街で、静かな環境だった。その印象だけを信じるのなら、なにもおきていない。平和な街並みに乱れたところはなかった。
呼び鈴を鳴らしたが、応答はない。
ドアに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
胸が張り裂けそうになりながら、花梨は扉を開けた。
「先生!?」
呼びかけても、沈黙が返ってくるだけだ。
花梨は、なかに入った。廊下のすぐさきは居間になっていた。
「先生!」
二人が倒れていた。
「先生! 奥さん!」
絶望が頭のなかを駆け抜けた。
「先生!?」
二人から出血はないようだ。
久世の身体をゆすった。反応はないが、身体は温かかった。
息はしている。
「先生! 先生!」
意識はもどらないが、生きていることに安堵した。奥さんのほうも似たような状況だった。
すぐに救急車を呼んだ。五分ほどで来た。
救急隊員が呼びかけているときに、久世の意識がもどった。
「先生!」
「……ここは?」
「先生の自宅です!」
「妻は……」
花梨は、奥さんを診ている救急隊員を見た。どうやら、彼女も気がついたようだ。
「大丈夫です!」
「そうか……」
「だれにやられたんですか?」
「わからない……だれかに後頭部を殴られたと思うんだが……」
室内は荒らされている様子がないから、強盗目的ではないだろう。
犯人にしてみれば、意識をなくしたあと、息の根を止めることもできたはずだ。それをしなかったということは、殺人が目的ではなかった……。
「さ、裁判のことは……まかせましたよ」
「先生……」
「離れてください!」
救急隊員に注意された。二人がストレッチャーで運ばれていく。
警察も到着した。花梨は、私服警察官から詳しく事情を訊かれた。
「仕事上で、なにかトラブルはありませんでしたか?」
「い、いえ……」
犯人は思い当たっていたが、それを口にできなかった。事情が複雑すぎて、警察も動きようがない。Aだと思われる人物の本名すらわかっていないのだ。
「なにか知っているなら、ちゃんと言ってください」
厳しい口調だった。
「あの……いまでもいるのかわからないのですが」
「ん?」
「警視庁の捜査一課に、桐野という刑事さんがいると思うのですが」
「桐野?」
警察組織は、人事異動も多いという。あれから三年も経過している。冴島が逮捕されてからしばらくは連絡をとっていたが、花梨が正式に弁護士をめざして勉強をはじめてからは疎遠になってしまった。
「桐野さんには以前、たいへんお世話になったんです」
話を聞いた捜査員は、べつの同僚のもとへ行き、そのことを話していた。小声だが、耳をすばせば聞き取ることができた。
「桐野っていう人、知ってる? 捜一だって」
「え? あの?」
「知ってるの?」
「ああ、有名人だよ。おまえ、本当に知らないのか?」
「だって捜一と仕事したことないし」
「おまえ、このあいだまで交通課だったからな」
そんなやりとりがあってから、捜査員はもどってきた。
「桐野さんとは、どのような関係なんですか?」
「ですから、お世話になって……」
もう一度、その捜査員は同僚と相談をはじめた。同僚は、携帯でどこかに連絡をしている。その通話が終わるまえに捜査員がもどってきた。
「以前にも、事件の関係者になったことがあるのですか?」
「ええ、まあ……」
どこまで口にすればいいのか、花梨には判断できなかった。
電話をしている刑事の声が大きくなっていた。
「そうです、児玉花梨さんという弁護士の方です。はい……そうですか……はい、はい」
通話を終えて、その刑事は言った。
「桐野さんのお知り合いで、まちがいないそうです」
花梨は、ほっと安心した。桐野は、まだ第一線で活躍していたようだ。
「身元は、桐野さんが保証すると……」
「あの、このあと法廷があるのですが」
このタイミングで花梨は切り出した。
「これからですか?」
「そうです」
裁判所に連絡したいところだが、彼らに通話を禁じられていた。冷静に考えれば逮捕されているわけではないから、連絡は自由にできるはずだ。
「わかりました。何時からですか?」
「もうまもなくで、はじまってしまいます」
「でしたら、われわれがお送りします」
桐野のおかげで、ここまで待遇が変わった。
その言葉に甘えることにした。久世から託された以上、この事件を理由に休むことはできない。警察車両のなかで裁判所に連絡入れた。事件のことを伝え、少し遅れる旨も伝えた。
裁判所へは、三十分ほどで到着した。
急いで法廷に入った。
裁判長をはじめ、書記官や検察官も席についていた。
「大丈夫なんですか?」
「はい」
花梨が返事をすると、被告人が入廷した。
冴島の様子は、いつもとかわらなかった。もちろん、囚われの彼には久世が襲撃されたことなど知るよしもないだろう。
厳粛な空気につつまれるべきだが、本日はどこか浮足立った印象が法廷に流れていた。それは花梨だけでなく、裁判官や検察官も同様のようで、傍聴席にいる数人もそう感じているのではないだろうか。
冴島だけが、平常運転だ。
「裁判長、最終弁論をまえに、もう一度、被告人質問をおこないたいのですが」
裁判の開始とともに、花梨は切り出した。久世のいないいま、事態を進展させるには、これまでと同じことをやっても意味がない。
これは、チャンスでもあるのだ。
「ですが……」
裁判長は口ごもった。黙秘を続ける被告に質問しても──そう言いたいのをこらえたようだ。
本来なら、黙秘を続けるからこそ、もう一度、質問をするべきなのだ。裁判長の心の裏には、どうせ話は通じない……その思いがある。
「事件の解明には必要なことです。お願いします!」
「それは無駄でしょう」
検察官が、あきれたような声をあげた。
「無駄かどうかは、やってみなければわかりません」
花梨は強く主張した。
「それとも検察官は、被告が会話できる精神状態でないことを認めるのですか?」
「そ、それは……」
こうして裁判を続けているということは、あくまでも冴島は黙秘をしているだけ──そうでなくては、検察も裁判所も名分を失う。
「裁判長も、いいですよね?」
「……わかりました。許可します」
冴島が証言台に立たされた。
花梨は傍聴席を見た。例の佐藤はいない。あたりまえか。久世夫婦を襲っておいて、のこのこやって来るはずがない。
「冴島さん、あなたが犯行をおこなった動機には、十年前の事件が関係しているのではないですか?」
裁判長と検察官の顔色が、瞬間的に変わった。
「異議あり! 本件とは、なんの関係もない事件です」
すかさず、検察官が手をあげた。
「異議を認めます。弁護人は質問を変えてください」
「いいえ、変えません!」
花梨はつっぱねた。
それには、裁判長も鼻白んでいた。
「な、なにを言って……」
久世が襲われたことで、花梨のリミッターは壊れてしまった。
しかしそれでいて、こんな行動をとりながら、これこそがAの挑発なのではないか、ということもわかってきた。だからといって、引くわけにはいかない。
「質問を続けます」
混乱を利用して、花梨は押し切った。
「十年前、あなたのお父様が殺害されています。犯人は、無罪。心神喪失が認められている。あなたは、それを模倣したのではありませんか?」
「弁護人、やめなさい! 退廷を命じますよ!」
法廷に静けさがおとずれた。
「……呼べ」
その声は、唐突に小さく響いた。
冴島の口から漏れ出たものだ。花梨は、その意図をくみとった。
「次回法廷で、そのときの犯人Aを、弁護側証人として呼びたいと思います!」
「な、なにを言っているのですか!? 本日が最終弁論で、次回は判決を言い渡す予定です!」
「いいえ、その証人の話を聞かなければ、結審することはできません!」
花梨は暴論を口にしているようで、冷静に状況を分析していた。
この要求は、確実にのまれる……。
「呼ぶといっても、現在の所在はわかっているのですか?」
「むこうのほうから、来てくれるはずです」
そのとき、傍聴席側の扉が開いた。
入ってきた人物も、注目されていることはわかっていたようだ。
まるでスポットライトをあびる演者のように、その男は輝かしい表情でたたずんでいた。
「証人として出廷してくれますよね? ミスターA」
「もちろん、いいですよ」
佐藤=Aは、軽やかに答えた。
「なんでしたら、いまからでも」




