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児玉花梨のもとに、ジャーナリストの大沢と名乗る男がたずねてきたのは、花梨が日常生活をどうにか取り戻しかけたころだった。
「どんな用件でしょうか?」
マスコミの人間が自分のところに来るということは、父親の事件にほかならない。気分の良いものではなかった。
「冴島冬輝が、いまなにをしているか……興味ありませんか?」
呪いの言葉が大沢の口から出た瞬間、花梨の脳内に、あの悪夢が思い起こされた。
「大丈夫ですか!?」
倒れそうになった身体を、大沢に支えられた。勤める会社からの帰り道。陽は、まだ暮れていない。事務の仕事をしているが、定時よりもまえに帰ることを許されている。夜が怖いのだ。
花梨の年齢は、今年で二四になる。まだ大学生のときに、父親が被害者となった。心に傷を負ったまま卒業し、なんとか就職はできたものの、会社のほうには迷惑をかけっぱなしだ。
場所を移動した。近くの喫茶店に入った。
「どういうことですか?」
落ち着きを取り戻してから、花梨は真実を求めた。
「ですから、冴島冬輝のことですよ」
その名前は、世間的には広まっていない。『犯人A』もしくは、『被告人A』と呼ばれていたからだ。ただし、裁判では本名が明かされている。だから被害者遺族である花梨は知っているし、裁判を傍聴した報道の人間も知っている。
「……犯人なら、病院でしょう? それとも、死んだんですか?」
もったいぶってそう切り出すということは、それしか考えられない。
「いいえ。生きています」
大沢は言った。年齢は三十歳ぐらいで、ラフな雰囲気のなかにも清潔感がある。顎髭を生やしているが、もう少し年齢をかさねれば貫録が増すのだろうが、彼の年齢ではむしろ、お洒落な印象をあたえている。
「それでは……」
「普通に生きているんです」
「どういうことですか?」
言っている意味がわからなかった。
「病院にいるんですよね?」
「いいえ、すでに退院しています」
信じられないことを伝えられた。
「そんな……ありえません!」
残忍な殺人者が……いくら心神喪失で無罪になったとしても、殺人を犯した人間が、わずか一年で自由の身になるなど信じたくもなかった。
「その、ありえないことがおこっている……そういうことです」
大沢の声は、あくまでも冷静だった。
「精神病院に強制入院させられるんですよね……そういう法律があるんですよね!?」
「はい。心神喪失者等医療観察法において、最低でも一年半は病院から出られません」
それはあくまでも最低ラインのはずだ。必要であれば、もっと長期間の入院もできる。明確な上限はもうけられていないはず……。
「どうしてなんですか!?」
「それは、わかりません……ですが、いろいろとね……」
大沢が、急に言いづらそうになっていた。
「なにかあるんですか? 言ってください!」
「……どうやら、冴島冬輝という人物にいわくがあるのかもしれない」
「まさか、権力者の子供だとか……」
そういうことしか考えられなかった。
「いえ、それはないでしょう。こちらの取材でも、そんなことは出ていない」
「では……なにがあって……」
「冴島の過去なんですがね……以前にも、事件に関係してるんです」
「まさか、まえにもこういう事件をおこしているんですか!?」
これまでの報道では、冴島に前科があったとはいわれていない。裁判でも同様だ。
「ちがいます。冴島本人ではありません……」
「え?」
「冴島の両親が、事件に巻き込まれているんです」
「巻き込まれた? 犯人ということではなくて?」
「はい。被害者です」
それは、どういうことだろう?
「いまから七年前、住宅に押し入った犯人によって、冴島の両親が殺害されています。犯人は逮捕されましたが、その後、裁判で無罪判決が出ています」
「え!?」
驚くしかなかった。
父の件と、まったく同じ展開ではないか……。
「どうして無罪になったんですか?」
答えはわかっているようなものだったが、訊かずにはいられなかった。
「心神喪失です」
「……どういうことなんですか?」
「話は、ここからです」
まだなにがあるというのだ……。
「その七年前の裁判なんですがね……判決をくだしたのは、あなたのお父様なんですよ」
「そ、そんな……」
では、冴島は……復讐のために……。
「そうだと思います」
花梨の表情を読み取ったのか、大沢はそう続けた。
「そんなの……逆恨みじゃない」
意味のない言葉だと、すぐに花梨は心で打ち消した。
復讐だろうと、快楽殺人だろうと、父が死んだことにかわりはないのだ。
「でね、ここから提案なんですが……」
提案、というワードに警戒感をおぼえた。はじめて会ったばかりの人間を信用するほど、世間知らずではない。
「担当弁護士のところに行ってみませんか?」
「……いっしょに、ということですか?」
「ええ」
屈託なく、大沢は答えた。
「七年前の事件も、お父様の事件も、同じ弁護士なんです」
「え!?」
それすらも、同じ……。
花梨も裁判で会っている。検察側の証人として出廷したときに、その弁護士から反対尋問もされている。
たしか、戸倉といったはずだ。
「どうして……わたしと……」
「じつは、すでに話を聞きに行ったんですがね、マスコミの取材には答えられないと、つっぱねられたんですよ。そのときにね、記者でなければ話をしてくれるのか、と質問したんです」
「それで?」
話の終着は予想できたが、そう声にした。
「事件の関係者になら、話をしてくれるそうです。あなたは被害者遺族だ。話を聞く権利はあるでしょう?」
「ですけど……」
弁護士は、依頼人の利益に──。
依頼人になれば真摯に対応してくれるかもしれないが、いわば花梨は敵にも相当する立場だ。かりに会ってくれたとしても、ちゃんとした話はしてくれないだろう。
「もう、どちらの裁判も終わっています。私は、真剣に話してくれそうな気がしますがね。だからこそ、こうやってあなたにお願いしているんだ」
実際に弁護士と接触して、そういう感想をもったのなら、それが正しいのかもしれない。
「……わかりました」
「これから、どうですか?」
「これから……ですか?」
あまりにも早い展開に、さすがに戸惑った。
「むこうは、大丈夫だと思います」
「べつにかまいませんが……」
というより、冷静に考える時間もないから、そう承諾してしまった。
「では、向かいましょう」
弁護士事務所についたのは、午後六時前だった。
事務所は最寄駅から十分ほどのところにあり、雑居ビルの二階だった。大きなところではなかったが、室内は小綺麗に整頓されているから悪い印象ではなかった。安心が第一の弁護士事務所だけはある。凶悪犯ばかり弁護しているという腹の立つ思いが強いぶん、そのギャップは奇妙に感じた。
「お忙しいところを、もうしわけありません」
大沢が、とってつけたような言葉を吐いた。
「いえ、かまいませんよ」
弁護士の戸倉は、迷惑そうな感情を顔に出すことはなかった。
「今日は、ご遺族をおつれしました」
「存じています。裁判のときにお会いしていますから」
戸倉はそう言うと、あらためて視線を向けた。
「その節は、失礼しました」
軽くだが、頭をさげた。
「い、いえ……」
花梨は、しどろもどろになりながら返事をした。なにに対しての「失礼しました」なのかわからなかった。
加害者の弁護をしていたからなのか。それとも反対尋問を気にしてのことだろうか?
しかし花梨自身は、なにを訊かれたのか記憶していなかった。犯人への憎悪で頭がいっぱいだったのだ。
「さっそくですが、よろしいですか?」
来客用のソファをすすめられてから、大沢が切り出した。
「どうぞ。まあ、あなたからというのには引っかかりますが、あくまでも取材ではなく、児玉さんからの質問ということで受け付けましょう」
「先生は、冴島冬輝の弁護をして無罪を勝ち取りましたが──」
戸倉が、発言を手で制していた。
「勝ち取ったわけではありません。冴島が無罪というわけでは──あ、これは道義的にという意味ですが、冴島が殺人を犯したことは事実です」
「ですが、無罪判決をうけたのは確かですよね?」
「ええ。しかし、それが刑法三九条です。心神喪失者は罰せず……とはいえ、なんのペナルティーもないわけではない。とくにいまは、心神喪失者等医療観察法がある。以前はたしかに、ほんの短期間の入院だけですんだケースも多かったようですが、現在において、それはない。まったくの自由というわけではありません」
「本当ですか?」
「どういう意味ですか?」
「私の得た情報では、すでに冴島冬輝が退院したことになっていますが」
「退院は、本当です」
戸倉は、あっさりと認めた。
「どういうことですか? あなた自身がいま、心神喪失者等医療観察法についておっしゃいましたよね? 最低でも一年半は強制入院になるはずです。しかしあの裁判から一年しか経っていません……その最低ラインすら守られていないというのは、どういうことですか!?」
「退院の決定は、本人はもちろん、弁護士が関与できるものではありません。その決定ををくだした病院や保護観察所──正確には、社会復帰調整官というのですが、そちらのほうに問い合わせてください」
「そんな言葉で納得できると思いますか?」
「大沢さん、でしたよね? あなたは入院の最低ラインが一年半と言いましたが、それは法務省および厚生労働省のガイドラインとして想定されているだけで、必ず一年半と決められているわけではないんですよ」
「それにしても、わずか一年で自由になるのでしたら、むかしとかわらないじゃないですか」
「それは、法律を制定した国会議員にでも言ってください」
身も蓋もない言動だった。
「話は、それだけですか? あ、言っておきますが、彼の現住所を教えることはできませんよ」
被害者遺族に犯人の居場所が通知されるケースはあるそうだが、今回はそれにはあたらないと、裁判後、担当検察官から説明をうけていた。
まったく納得がいかない。
花梨は、裁判中にあろうことか襲撃されたのだ。あの男が、自分を襲おうとする可能性だってある。
その主張を、戸倉に伝えた。
「それについても、私に言うのはお門違いです。適切な場所に訴えてください」
「……」
悔しかった。
だが、大沢は意に介したふうもない。所詮は部外者なのだ。
「では、もういいですね?」
「いえ、まだありますよ」
大沢の顔には、切り札を持っている余裕のようなものが漂っていた。
「先生は、七年前にも似たような弁護をしていますよね?」
「……」
それまで一部の隙もなかった完璧な弁護士の表情に、曇りのような影がさした。
「さあ、どうでしたかな」
「そのときも、心神喪失で無罪になっている」
とぼけようとするも、大沢はそれを許さなかった。
「……そういうこともあったかもしれないですね。ですが、個別のことにはお答えしかねる」
「よくあることなんですか?」
「なにがですか?」
「心神喪失が認められて、無罪になることですよ」
「完全な無罪判決を受けることは少ないでしょうね。心神耗弱で減刑……もしくは、最初から不起訴にして裁判自体がおこなわれないか……」
「では、あなたはそのめずらしいケースを立て続けに二件も経験したことになる」
「そういうこともありますよ。たまたまです」
「なにか裏があるんじゃないですか?」
花梨の眼から見ても、大沢は大胆に切り込んでいた。
「……裏とは?」
「あなたは、被告人を無罪にするような、なにかをもっている」
フ、と戸倉は吹き出した。
「私は、ただの弁護士ですよ? それとも大沢さんは、陰謀論者なのですか?」
傍観している花梨の判断では、この二人の言い合いは、互角。次の一手は、どちらが握るのか……。
「あ、そうそう」
なにかを思い出したように、戸倉は続けた。
「陰謀をお疑いなら、私ではないほうを調べてはいかがかな?」
私ではないほう……。
なんのことだ?
花梨は、大沢の顔をうかがった。
表情に変化はない。意味が伝わらなかったというより、戸倉がそう言うことを予想していたかのように思えた。
「そうですか、そうしてみます」
大沢は言って、立ち上がった。
「児玉さん、行きましょう」
「え、ええ……」
煮え切らさなと、簡単に引き下がってしまう無念さで混乱しながら、花梨もあとに続いた。
事務所を出てからも、花梨は釈然としない思いに支配されていた。
「どう思いました?」
それまで無言だったのに、大沢から、ふいに問いかけられた。
「どうって……」
答えに困った。被害者遺族としては、腹立たしさしか感じない。だが加害者の弁護士に会えば、こうなることはわかっていた。
しかし大沢は、そんな感情論を質問しているわけではない。
「私ではないほうを、ってやつですよ」
あの弁護士に陰謀はないが、べつの側にはあるかもしれない──そういう意味なのだろう。
なんのことなのか……。
「私ではないほうって、犯人ですか?」
「犯人も『私のほう』でしょう」
たしかにそうだ。では、そうなると……。
「検察とか、裁判所ですか?」
「裁判所ではない。裁判所は、どちらの側にも立っていない。検察ということかもしれませんが、それよりも被害者という意味のような気がします」
「被害者……父ですか?」
「そうなりますね。もしくは、七年前の事件の、ということかもしれない」
「もしかして大沢さんは、そのことをうすうす勘づいていたんじゃないですか?」
大沢の首は、縦にも横にも動かなかった。
「大沢さん?」
「……じつは、七年前の加害者なんですがね……」
「え?」
「すでに一般の生活をしてるはずなんですが……」
冴島冬輝と同じように無罪となった犯人。
「いまだに本名はつかめないし、どんな人物だったのかも知っている者がいないんですよ」
「どういうことですか?」
「すべてが謎なんです。いくら実名や顔写真が世に出てなくても、マスコミの人間には情報が流れてくるものです。ですが、そういうものがいっさいない」
「で、でも……裁判を傍聴していた人だっているでしょう?」
「そのはずなんですがね、当時を知る人があらわれない。弁護士の戸倉。裁判官だった、あなたの父上……」
「……わたしの父が、なにかを知っていたと?」
大沢の言動は、まるでその陰謀に関与していたのではないか、と表現しているようだった。
「それはわからない。でも、調べてみる価値はある」
気持ちの悪い沈黙がおとずれた。
おたがいが足を止め、夜の通りにたたずんでいた。
「……わたしは、なにをすればいいんですか?」
大沢は、それをたくらんでいる──花梨は思った。だからこうして巻き込んだのだ。
「お父様のことを調べてください。遺品のなかに、そういうことを書き残したものがあるかもしれない。日記などはつけていなかったですか?」
「日記ではありませんが、手帳によく書き込んでいたのは覚えています」
「では、それを──」
花梨はうなずいた。このまま、もやもやした感情で生活するのはいやだった。
「私は、もう一人……七年前の裁判に関係していた人物をあたってみます」
それは? という瞳を、花梨は向けた。
「当時、検察官だった上田という男です。いまでは法務省にいて、事務次官に最も近いとされる人物ですよ」