十九
十九
おれは、愉快な思いに心を躍らせていた。
なんと楽しい展開なのだ。
冴島冬輝という男は、あの女弁護士に警告を放ったのだ。
裁判中、それまでずっと黙秘を続けていた男が、それだけを口にした。
おれの接近を女に知らせた。いまとなっては、おれの正体を知る者は冴島だけだ。もちろん、おれをいさめたい勢力の中枢には、おれをよく知る者もいるだろうが、それはデータとしてだ。だれも人間としてのおれを知らない。
つまり、やつが警告しなければ、女はいつでもおれからの危険にさらされていたのだ。
こしゃくな真似だ。
だが同時に、冴島の欠点があの女であることが白日のもとになった。当然、それを見越して近づいたわけだが。
冴島は、あの女の父親を殺している。さて、これからあの女がどう出るか……。
みものだ。
いつでも殺せたが、殺さないでよかった。
そして冴島は、まだあの女の正体を知らない。
それを知ったとき、真の地獄がはじまるのだ。
まだまだこの世も捨てたものじゃない。
これから、どうやってあの男を苦しめてやろうか──考えれば考えるほど、身が猛る。
この心情を他人が知れば、恨みをもっているのは、おれのほうだと勘違いされそうだ。
「ふふふ」
意識せず、笑いがもれていた。
白昼の路上。だが、周囲に人はいない。
いや──。
おれは、何者かの気配を感じた。訓練を積んでいる動きだ。幼少より、おれの近くにはそういう人間がまとわりついていた。
どうするか? やつらが鬱陶しいから距離を置いているのに。
「さがしました」
冷徹な男の声が言った。
「なにしにきた?」
「もう潮時です」
この男は、遠峰といったはずだ。ある機関に属している気味の悪い男だ。感情がどこにあるのかわからない。
おれはサイコパスだが、ある意味、この男も病気だ。快楽で人を殺すおれが言えたものではないが、この男は命令があれば簡単に人を殺せる。
まだ、おれのほうが人間らしいだろう?
この男は、ただの殺人機械だ。
「帰れ。おれは自由だ」
「いい加減にしてください」
周囲から黒づくめの男たちが集まってきた。この男の手下だ。
遠峰自身も、ある人物の手下であり、またその親玉も、もっと大きな権力の手下なのだが。
おれは、その構図に加わるつもりはなかった。
「おれをつかまえるつもりか?」
「自主的に来てくれると願っています」
「なんて命令されてる? 言うことをきかなければ、殺してもいいと?」
遠峰は、答えなかった。
「あなたの境遇には同情しますが、これ以上は放置できません」
「もう少し待て」
「まだ楽しみをつづけるつもりですか?」
「もちろんだ。だが、殺しはしない」
「信じられるとお思いですか?」
ムリもない。それだけの人数をこの手にかけてきたのだ。
「おまえらだって、あの男のことは目障りに感じているだろう?」
「……」
遠峰は押し黙った。
「いざとなったら、おれにまかせろ」
「……殺しはやめてください。必要があれば、こちらでどうとでもできます」
「おまえらだって、やつを処刑するか、永遠に閉じ込めるつもりなんだろう?」
「法的な手続きをとるのと、ただの殺害とはちがいます」
おれにとっては、むしろ後者のほうが正当な行為なのだ。
「ムリだな」
「……なにがですか?」
「あの男は、おまえらにはムリだ」
「……」
それまで機械的だった遠峰の眼の奥に、炎のようなものがやどった。
「……そうですね、あなたよりも危険かもしれません」
「ふふ」
おれは、思わず笑ってしまった。この男は、おれを挑発したようで、同時に冴島のことも挑発したのだ。
「やつのことを囚われの身だとナメていたら、いずれおまえの飼い主にも飛び火することになる」
なんともいえないような瞳で、遠峰はおれのことを見た。
あなたにとっても飼い主なんですよ──そう言いたいのを押しとどめているようでもあった。
「おれの存在など、あいつは知らないだろ?」
「……」
「それにしても、おまえらとあいつが、こうして裏でつながってるのも不思議なものだな」
おれは揶揄するように言った。
「その話は、おやめください」
周囲には、この連中とおれしかない。それでも遠峰は、ほかに聞かれることを恐れていた。
「いっそのこと、おれごと消してしまえばラクなのにな」
こいつらは、本来なら人を保護をするような連中ではない。むしろ邪魔な存在をなかったことにするためのプロだ。
「おれはまだ、おまえらといっしょに行くつもりはない。どうしてもというのなら、いまここでおれを殺しておくことだな」
「強引につれていくと言ったら?」
「それを訊くか?」
おれは、この場にいる全員を殺せるか、頭のなかで思い描いた。さすがにムリだ。せいぜいが、三人。
だが、まず逃走して一人一人の状況にしたら五人はいける。そんな快楽をともなわない殺しはおもしろくないが、自由を奪われるよりはマシだ。
「あの男の裁判が終わるまで待て」
「そんな猶予はありません」
「そんなこと言うな。おれとゲームをしよう」
「ゲーム?」
「冴島冬輝と、おれと、おまえらで」
「……どんなゲームをしようというのです?」
「冴島の目的は、自分の裁判をつかって、おれの罪を糾弾しようとしている。おれは、冴島を殺したい。おまえらは冴島の口を封じたいが、おれのように直接殺すことはさけたい。なおかつ、死刑判決を出すのも世間から注目されてしまうから困る」
おれは、殊勝にも長々と説明をしてやった。
「おまえらにとってのベストは、冴島に長期刑をあたえることだ。無期でもいいかもしれないが、死刑より注目度はさがるとはいえ、それでも目立つことになる。二五年あたりが妥当か」
そんな判決の事件は、平和な日本とはいえ、ありきたりだ。そして冴島が出所したときには、もういまの権力者たちはすべて代替わりしている。そうなったら、おれが殺そうと、やつが告発しようと関係がない。
「裁判をねじ曲げてでも、やつに長期刑をあたえることができるか……冴島は、おれの悪行を世に問うことができるか。それとも、おれがやつを殺すか」
「どうやって殺すつもりですか? 彼は、拘束されている」
「方法は、二つだな。やつを出すか、おれが入るか」
「どちらを選択するつもりですか?」
「そのときによる」
やつを無罪にするために動くのもいい。
それがムリなら、おれが刑務所に入る。
死刑なら拘置所に入ればいい。法で裁かれるまえにおれが殺せば、それはおれの勝ちとなる。そうなったときは、次に首をくくられるのは、おれということになるが。
「……あなたなら、本当にやりそうだ」
おれは笑った。
じつは、もう一つ方法がある。しかし、それを教えてやるつもりはなかった。
「この勝負にのれ」
「……わかりました。もう少しだけ待ちましょう。ですが、裁判の終わりまで待つわけではありませんよ。幕引きは、こちらで判断させてもらいます」
「それでいい」
おれに約束など守るつもりはないが、それはこいつらも織り込みずみだろう。
「では、行っていいな?」
遠峰は無言だったが、部下たちに道をあけろと瞳で語っていた。
おれは連中のあだいを抜け、歩みを再開した。もちろん、遠峰のことを信用しているわけではないから、背後から襲撃されることも想定しながらだ。
不意の攻撃はなかった。
おれはそのまま、連中から姿を消した。
* * *
冴島は吟遊詩人のなかで、ある考えに恐ろしさおぼえていた。
当然のことながら、《A》のことだ。
あの男が自分を殺そうとしていることはわかっている。その方法については、二つある。
冴島が無罪になって、世に放たれること。そして、逆にAのほうが刑務所、もしくは拘置所に入ってくることだ。
しかし、もう一つの方法があるのだ。
裁判の場をつかう。
そう簡単なことではない。傍聴席から狙うにしても、刑務官がいるし、武器の持ち込みも難しいだろう。
だが、その難度を下げるやり方がある。
裁判に参加することだ。
証人として出廷すれば、被告人席とは距離も近い。明確な武器はやはり持ち込めないだろうが、たとえばペン一本でも人は殺せる。そしてAは、そういうことのできる人種だ。
なぜ恐怖しているのか?
自分が殺されることを恐れているわけではない。やつが裁判に介入するということは、この裁判にかかわるだれかを手にかけるという意味がある。
すでに標的も決めているかもしれない。
バランスを変えるつもりだ。
彼女は、そのことでわれを忘れてしまうだろう。
そのことが、冴島を怖がらせているのだ。
護送車が裁判所についた。これから公判がはじまる。
今日も、Aは来るだろうか?
もうまもなく、なにかがおこる。
そしてこの裁判は──いや、すべてのことで重要な局面をむかえる。
その悪い予感は、まちがいなく当たるだろう。




