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 花梨は、弁護士になって初めての相談をうけることになった。

 久世は、はずせない用事があるということで外出している。奥さんも、さきほどまでいたのだが、いまは買い物に出ていた。

「どうも、児玉です」

 事務所にやって来たのは、三十代の男性だった。気弱そうな外見をしている。

「佐藤です」

 男性は短く名乗った。

「ご相談内容のほうは……」

 なにぶん経験のないことなので、どういうふうに切り出せばいいのかわからなかった。それとも、むこうから話しはじめるのを待っていればよかったのだろうか……。

「あの……相談料は、無料なんですよね?」

「はい。相談をお聞きするだけでは、料金は発生しません」

 ほかの弁護士事務所のやり方は知らないが、ここのように完全無料で相談をうけるところは稀だろう。初回だけ無料のところは、よく広告で眼にすることはある。

「じつは……」

 近所の騒音問題を、男性は語りはじめた。

 どこの街にもあるようなトラブルだった。

「それで佐藤さんは、その騒音を出している方を訴えたいのですか?」

「あ、いえ……そこまでは……」

 やめさせるだけでいい──小さな声で男性は答えた。そういう内容で相談に来てよかったのか、不安に感じているようだ。

「では、わたしのほうからその方に話をしてみましょうか?」

「その場合……お金はどれぐらい……」

「話をするだけですから、無料で大丈夫です」

 それは完全に花梨の独断だ。が、久世なら同じように言うのではないか。事務所の実情を考えても、金のために弁護士をやっているわけではないだろう。

「いいんですか?」

 男性の声が明るくなった。

「はい。わたしは弁護士になったばかりですから、まだ見習い期間ということで」

 男性は、よろしくお願いします、と頭を下げて帰っていった。

 久世と奥さんがもどってきてから、そのことを報告すると、怒られることも覚悟したが、二人とも笑顔を浮かべていた。

「あなたも、もう弁護士なんですから、好きなようにやっていいんですよ」

 二人のあと押しもあったので、花梨はさっそく騒音問題をおこしている部屋を訪問することにした。

 午後。外は、これ以上ないほどに晴れていた。相談者・佐藤の話によれば、この時間帯から騒音をまき散らしているという。

 教えてもらった住所を頼りにたずねると、それらしいアパートがあったのだが、名前がちがった。『あすなろ荘』と聞いていたが、そのアパートは『コーポニシムラ』という名称だった。

 新しく変わったのだろうか?

 ちなみに、相談者・佐藤の自宅は、すぐとなりの一戸建て住宅のはずだ。

「ん?」

 よくよく周囲を観察してみれば、そのような家は見当たらない。アパートの表も裏も駐車場になっている。少し離れたところには、やはり似たようなアパートが建っているが、どうも話とはちがうようだ……。

 念のため住所を確認したが、まちがいではなかった。どういうことだろう?

 相談者の連絡先にかけてみた。携帯ではなく、固定電話の番号だった。

 通じない。不在ではなく、そもそも使用されていない番号のようだ。

「……」

 釈然としない思いのまま、事務所へもどった。その体験を久世と奥さんに話したら、よくあることだと言われた。

「こんなことが、まえにもあったんですか?」

「嘘の連絡先は、しょっちゅうだよ」

 ここまで手の込んだ嘘はないようだが、偽の連絡先を教えられることは、めずらしくないそうだ。

「相談しているうちに、後悔してしまうんだろう。もし話がこじれて、ますます嫌がらせをされたらどうしよう、と」

 だから、つい嘘の連絡先を口にしてしまう……。

「そうなんですか……」

 しかし、花梨は釈然としなかった。

 相談者の佐藤は、弱々しい印象がたしかにあったが、そんなことをするようには感じなかった。嘘を言うにも勇気がいる。詐欺師のように平常心で嘘はつけないのではないか。

「まあ、気にしないことだよ。弁護士をやっていれば、そんなことは日常茶飯事だから」

 相手方から恨まれる。裁判に負ければ、依頼者から罵倒されることもある。久世は、むかしを思い出すように語っていった。

 花梨は、このことを頭のなかから追い払い、三日後の裁判にそなえることにした。といっても、ただ久世のとなりにいるだけなのだが。



 その日の裁判も、淡々と進んでいった。いや、現実の裁判とは、そういうものなのだ。ドラマのような激しい展開などあるはずもない。

 検察による被告人質問。冴島は黙秘を続ける。とはいえ、「黙秘します」と宣言しているわけではない。裁判長も検察官も、しかしそれを黙秘と受け取っている。

 前回まで落ち着かなかった花梨だったが、その異常性にようやく気づけるだけの余裕が生まれていた。

 やはり、この裁判は根本からおかしい。あらためて思った。

「……にんは」

「え?」

 花梨はそのとき、耳を疑った。これまでひと言も発していなかった冴島の口から、なにやら声が漏れ出たのだ。

「どうしました? 被告人?」

 裁判長が言葉を投げた。検察官も質問を忘れ、冴島を見守ることになった。

「なにか発言があるのですか?」

「……犯人は、こいつだ」

 冴島は、指をさしていた。

 傍聴席。

「あ」

 閑散としたそこには、知っている顔があった。いままで裁判に集中していたので、傍聴席にまで気を配ることはできなかった。

 傍聴席にいたのは、佐藤だった。あの相談者だ。

 これは、どういうことだ?

「被告人、退廷を命じますよ!」

 裁判長の叱咤が飛んだ。

 その言葉に従ったわけではないだろうが、それ以降の冴島は、いつもどおり無言を続けた。

 異様な余韻を残したまま、その日の裁判は終了した。

 裁判所から出たところで久世とは別れて、花梨は周囲を歩いた。傍聴席でみかけた人物の姿をさがすためだ。

 冴島の発言の直後、その彼は退室してしまった。もしや、まだいるのではないかと考えたのだ。

 どうして、あの相談者──佐藤がいたのか……。

 偶然ではないだろう。たまたま傍聴マニアだったわけではない。

 意図をもって、裁判所にいた。

 ではそれが、どんな意図なのか?

「……」

 やはり見当たらない。あきらめて事務所にもどることにした。

 だが、すぐに足を止めた。

 ある場所が頭に思い浮かんだのだ。

 花梨の足は、自然にそちらへ向いた。到着したときには、陽が暮れそうな時刻になっていた。

 騒音を出している人物の住むアパート。が、実際にはそのようなことはないようだ。

 佐藤は、なぜそんな嘘をついたのか?

 騒音問題は本当にあったが、トラブルがさらに酷くなることを恐れて咄嗟に偽りを口にしたのか……それとも、まったくのデタラメだったのか……。

 そのとき、アパートの部屋から出てきた女性がいた。五十代ぐらいだ。

「あの……」

 思い切って声をかけることにした。

「はい?」

「このアパートなんですけど……なにか問題とかはないですか?」

「……あなたは?」

「あ、弁護士の児玉といいます」

 ちゃんと名刺を渡して挨拶をした。こういうときの対処がよくわからないので、もしかしたら名刺まではやりすぎだったかもしれない。

「問題ですか? あー、あのこと」

 ため息まじりに女性は答えてくれた。

 本当に問題があるようだ。佐藤の相談は真実で、たまたまあの日にはなにもなかったということなのかもしれない。だとしたら、あのときもこうして聞き込みをしておけばよかった。

「やっぱり、うるさいんですか?」

「うるさい?」

 女性は、ピンときていない。

「騒音じゃ……」

「え?」

 話が噛み合っていない。

「このアパートのまえの話でしょ?」

「まえの話?」

 どうやら、このアパートが建設されるまえのことを口にしているらしい。

「なにがあったんですか?」

「なんだ、知らないのね?」

「は、はい……」

「殺人事件があったのよ」

 声をひそめて女性は言った。

「殺人ですか!?」

 想像以上に物騒な内容だった。

「ちょっと、声が大きいわよ! あんまり近所で、この話はしないでよ。これを知っている住人は、家賃が安いのよ」

 新築当時は有名な話だったらしく、家賃が相場よりも安かったそうだ。歳月が経過し、いまでは相場どおりになっている。古くからの住人は、大家からそのことを口止めされているというのだ。

「何年ぐらいまえなんですか?」

「もう十年ぐらいにはなるわね」

 女性は買い物にでもいくのか、歩いて行ってしまった。

 十年前……おそらく、冴島の両親が殺害された事件だ。

 花梨もバカではない。佐藤の正体は、Aだ。

 冴島は、裁判でそのことを伝えたのだ。

「……知らない」

 花梨は、あることに愕然とする思いがした。

 冴島のことをなにも知らない。両親がAによって殺害されたことは知っていても、場所はどこなのか、どういう両親だったのか、過去の冴島冬輝とうきはどんな人物だったのか……そんなことすらわからない。

 Aが自分に接触してきた恐ろしさよりも、そのことのほうが心を重くした。

 きっとこの場所に、冴島の家があったのだ。そして家にいた両親がAによって殺害された。冴島について、ようやく知ることのできた情報だ。

 Aは、恐怖を植えつけようとした。

 そのことがわかっていても、むしろ感謝したい気持ちだ。花梨の調査能力では、どうやっても知ることはできなかっただろう。

 冴島冬輝のことを理解したい……。

 過去を知るすべがないのなら、せめていまの冴島の孤独を共有したい。それぐらいしか、できることはないのだ。

 花梨は周囲に注意を向けたが、警戒をすぐにといた。Aがそのつもりなら、相談したときに殺していたはずだ。

 それに、殺人鬼に本気を出されたら、二四時間の護衛をつけでもしないかぎり、防ぐことはできない。

 なるようにしかならない──。

 かつての自分なら、こんな気持ちにはなっていないだろう。それこそ、恐怖のあまり家から一歩も出られなくなっているはずだ。

 いまは、おびえている場合ではない。やるべきことがある。

 裁判で最善をつくす。

 それが、どういう結果をまねいたとしても。


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