十七
十七
冴島の予想を超えていたが、全能者にとっては想定内のことだろう。
いや……冴島にとっても、まったく考えていなかったことではない。しかしそれにしても、まさか本当に弁護士になるとは……。
その後も、何度か公判の打ち合わせで彼女とは顔を合わせた。とはいえ、吟遊詩人にとっては、だれであろうと楽しい夢のように見えているだろうが。
月日をかさね、東京高等裁判所での控訴審がはじまった。
裁判員裁判ではないから、一審以上に閑静な雰囲気がある。傍聴席には、あきらかに傍聴マニアだとわかる二人しかいない。児玉花梨は弁護士席。あの記者は来ていない。
裁判は、淡々と進んでいった。児玉花梨は、あくまでも補佐としているだけのようで、すべての発言はいつもの老弁護士がおこなっていた。
この裁判は、一審の無期懲役判決を不服として、被告側が控訴したものだ。つまり、冴島自身が申し立てたことになっている。
実際には、そこに冴島の意思は介在していない。逮捕以降は、つねに吟遊詩人が支配しているから、控訴の意思は弁護士の意思ということになる。
この控訴審……はたして、検察側はどう出るか。
死刑をめざすなら、検察側も控訴することができた。が、それをしなかったということは、このまま無期懲役、そうでなくても長期刑が望ましいと考えているのだ。
死刑のかかった裁判となると、死刑執行に反対する団体の眼にもとまることになる。そうなれば、世間にいらぬ関心を生む。検察側は、それをさけたいようだ。
かといって、そこまで長期刑に固執するというのも奇妙な話だ。いっそ殺してしまったほうが、あとくされがなくていいはずだ。
Aに殺害をさせたくないのだとしても、それこそべつの人間を雇ってやればいい。金で殺しを請け負う人間など、いくらでもいるだろう。
検察側=Aを守りたい勢力ではあるが、Aに殺しをやらせたくない彼らは、想像よりも上品な人種なのかもしれない。
そうだとすると、やはり政治の家系か。
いや、政治家が上品なのは表面上だけだ。裏では暴力団よりも冷酷に人を屠る。自分の手を汚さないから、そのぶんタチが悪い。
吟遊詩人が黙秘を続けるなか、裁判は一審と同じように退屈に過ぎていった。
証言台から被告人席にもどされるときだった。虚ろな視線を吟遊詩人が傍聴席に向けた。
もうその日の裁判も終わろうかというときになって、入ってきた人物がいた。
その人物を眼にしても、吟遊詩人は反応しない。
「……」
だが、そのなかで眠っている人格たちが騒ぎだした。
Aだ。
やつが、おもしろい娯楽を眺めるような顔で傍聴席に座った。
冴島は、頭を回転させた。ここまでやつは近づいてきた。あの男の望みは、この裁判で無罪となった冴島が自由の身になることだ。
そのうえで、殺そうとしている。
やつは、どう動く?
いや、さすがに裁判の場ではなにもできない。ただ見物することしかできないのだ。
冴島は、口元をゆるめた。
実際には吟遊詩人が支配しているので、表情に変化はない。最初から笑っているように口がひらいている。
しかしAも、つられるように凄絶な笑みを浮かべていた。
この男には、冴島の──奥にひっこんでいる人格までもが見えているのだ。
背筋が震えた。
ここまで他人を恐ろしいと思ったことは初めてだ。
Aは、冴島=吟遊詩人ではなく、べつの人物へ眼を向けていた。
児玉花梨だ。やつは、彼女を凝視していた。
その視線は、なにを意味しているのか……。
児玉花梨は、その瞳に気づいていない。ただの傍聴人としか思っていないだろう。この法廷でAの顔を知っているのは、冴島だけだ。凶悪犯がこんな近くにいることを、だれもわかっていない。
裁判で無罪になった過去の事件だけなら、なんの問題もない。だが、この男は戸倉を殺害している。そしておそらく、それだけではないだろう。数多くの人間を快楽のために葬ってきたはずだ。
人は、冴島も怪物に思えるだろう。
だがこの男は、それを大きく凌駕するほどのバケモノだ。
これから、そのバケモノと戦っていくことになる。そのためには、弱点をもつことは許されない。が、はやくもバケモノは、その弱点をついてきた。
それが、児玉花梨だ。
どうする?
吟遊詩人と変わるか?
彼女に警告を──そう考えたところで、冴島は笑いがこみあげてくる感覚を味わった。彼女にしてみたら、Aであろうと、冴島であろうと、冷酷な殺人鬼だ。
そんな自分が、警告だなんて……。
聖人君子にでもなったつもりか?
結局、吟遊詩人のままで、その日の公判を終えた。Aのパーソナリティを考慮すると、いますぐに彼女をどうにかすることはないはずだ。
狙った獲物を簡単には仕留めない。
冴島は……道化師はちがう。恐ろしいほど簡単に殺そうとする。殺人鬼にも、いろいろタイプがあるということだ。
はたしてこのことについて、全能者はどう読んでいるのだろう。
こうして傍観していれば、そのほかの人格の考えも理解できる。しかし全能者の思考だけには、そういう芸当はできない。
全能者であれば、Aの奸計などお見通しだろう。
バケモノにはバケモノを……。
* * *
風は朝から夜に流れ、光は夜から朝に昇る。
おれにとって常識は常識であり、非常識もまた常識なのだ。
殺人は、空気のようだ。
あって当然。空気を吸おうと思って吸う人間はいない。生をうけた瞬間から、意識せずに呼吸している。
殺しとは、その程度のものだ。
それを人間は愚かにも、法律などと窮屈なものをつくって自らを縛りつけている。もしくは道徳という、やはり形のないものを無意味に崇拝している。
人間とは、つくづく滑稽な生き物だ。
おれには、しかしそんなしがらみはない。
生物として、ほかよりも進化しているということなのだ。
選ばれた人類のなのだ。
名前は、そうだな……神とでもしておうか。
「くくく」
自分が狂っていることは承知している。
だがそれは、この世の常識に照らし合わせてのことだ。その常識がまちがっているのだから、狂っているのはその他の愚かな人間たちのほうだ。
理解してもらおうとは思わない。
この世界に、理解できる人間はいない。
いや……。
一人だけ。
だった一人だけ、その可能性のある人間があらわれた。
その人物は、どうやらこの神のことを挑発するために犯罪を重ねているようだ。ターゲットにされた獲物たちにおぼえがあった。おれをあぶりだすために、わざとそいつらを狙って殺している。
ちがうか。
実際に殺しているのは、その人物ではない。おれと同じように殺しを楽しんでいるのは、べつの人格だ。
甘い甘い。
多重人格のせいにして人を殺すなんて、殺人の本分をわかっていない。
しかし、見所があるのも事実だ。
だからおれは、挑発に乗ってみることにした。
やつのことを調べたら、あの戸倉という弁護士にいきついた。そこで思い出した。会っていたのだ。あの弁護士にも、やつにも。
いつかの裁判で、その弁護士が担当になった。自分で依頼したわけではなく、国選でもなかった。おおかた、猟奇殺人犯を身内から出したくない連中が手配したのだろう。
その裁判では、いろいろ裏から手をまわしたようだ。金もかけたのだろう。その結果、おれは無罪になった。その功労者ともいうべき弁護士……。
そして、その裁判で被害者遺族だった少年……。
なるほど。すべてを悟った。
復讐なのだ。
だとしたら、くだらない。
そんなものを殺しの理由づけにするなんて、殺人への冒涜だ。殺しは、もっと楽しまなくては。
そんな連中を許すことはできない。
警告をかねて、弁護士の前に姿をさらした。
だがやつは、おれの襲撃を覚悟していたようだった。どういうことだ?
しかも、おれへの挑発を忘れていなかった。
おまえは、勝てない──。
弁護士はそう言ったのだ。
おれは、笑った。
弁護士のことを嘲笑ったのではない。その心意気が愉快でたまらなかったのだ。
おれは、この世に冷めていた。このまま生きていても、無感動な生活が続いていくだけだと考えていた。
一筋の光明というやつだ。
あの弁護士にそう言わせた冴島冬輝という男が、これからどう健闘してくれるのか……楽しみでしょうがない。
しかも、自由の身のおれとはちがう。やつは、無期懲役をかけて裁判をあらそっている。
みものだ。
だがおれも、ただ高みの見物をするつもりはない。殺しは、呼吸なのだ。やめようと思ってやめられるものではない。
おれはいま、ある場所をめざしている。
そこにいる人間を生かすも殺すも、今日の気分次第だ。




