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あの決意の日から三年。
冴島の無期懲役判決から半年──。
花梨は、自分でも信じられない思いにかられている。
「やっぱり、サラブレッドはちがうな。まさか本当にやり遂げてしまうとは……」
「教官がよかったからですよ」
「いやいや、才能だね」
感嘆の言葉を贈ってくれたのは、山口のおじさんだった。
「それも、首席で卒業とは」
司法研修所。埼玉県和光市と東京都練馬区との境に位置する。司法試験を合格した者は、ここで司法修習生として、裁判官、検察官または弁護士をめざすことになる。
花梨は、あれから一年というわずかな歳月で、司法試験予備試験を合格。さらに一年で司法試験をトップの成績で合格した。
そして司法修習生として、一年。
卒業のためには、司法修習生考試というものに合格しなければならない。司法試験とは、いわばそのための前試験のようなものにすぎないのだ。
予備試験をうけている花梨にとっては、三回目の重大試験ということになる。
「児玉も、よろこんでると思うよ」
あれからすぐに、山口のおじさんは最高裁長官を退任した。そして、この司法研修所の所長に就任した。
これまでにも長官のあとに所長となった人物はいたそうだが、山口の場合は辞任に近いかたちで退任し、自らの意思で研修所に来たという経緯がある。
しかも所長という立場でも、教官として司法修習生たちを教えていた。
「これで花梨ちゃんは、判事補になったんだ」
司法修習生考試に合格した段階で、判事補(任官して十年未満の裁判官)、二級検事、および弁護士登録の資格を得たことになる。
「本当に、裁判官になるつもりはないのかい?」
「はい」
晴れやかに花梨は答えた。
「わたしは、弁護士になることしか考えていません」
そしてそれも、冴島の弁護をする──ただ一つの目的しかない。
「でも、これだけは最後に確認させてくれ……彼は、お父さんを殺した男だ。そんな人間を、本当に弁護できるのか?」
「できます」
即答した。おじさんの懸念もわかっている。そして、質問したおじさん自身も、花梨が深く覚悟していることを知っている。そのうえで、決意を確かめたのだ。
「そうか……花梨ちゃんなら、きっと最高の弁護士になれるさ」
気休めなのはわかっていたが、それでもうれしい言葉だった。
翌日、花梨はある場所を訪れた。
下町にある雑居ビルだった。
スーツ姿の花梨の襟元には、真新しい弁護士バッジが飾られていた。
「ここね……」
久世法律事務所。冴島の弁護を担当している弁護士事務所だ。お世辞にも、繁盛しているとは口にできない。
建付けの悪い扉を開けると、そこには年老いた弁護士がデスクで読み物をしていた。
「こんにちは……」
「あなたが、児玉さんですかな?」
花梨のほうは法廷で眼にしているが、老弁護士のほうは初対面ということになる。
「そうです。児玉花梨です」
「それで、うちで働きたいというのは……」
「はい! ぜひお願いします」
「ですが、ごらんのとおり、うちはあなたのような若い方が来るところではないですよ。もっと大きな弁護士事務所へ行ってはどうですか?」
「いえ……ここでお世話になりたいんです!」
「そうですか……でも、給料はよくありませんよ。なんせ、依頼人もあまりいないですから」
老弁護士は、戸惑ったように言葉をつむいでいる。
「ぜんぜんかまいません!」
「いいじゃないですか。こんなに頼んでるんですから」
事務所のなかには、もう一人、年配の女性がいた。事務員だろうか?
「いまは裁判も抱えていますし、若い人に入ってもらったほうがいいでしょう?」
「そうなんだが……」
「あなたも、もう年なんですから」
どうやら会話の様子から、この二人は夫婦らしかった。
この小さな事務所を二人で切り盛りしているのだ。こういう弁護士を町弁というのだろう。
「それじゃあ……お願いしようかな」
「はい! ありがとうございます」
花梨は頭を下げた。
「でも、どうしてうちなんかに?」
「先生は、冴島冬輝の弁護をなさってますよね」
そのことを告げると、不思議そうな顔をした。冴島の事件は、世間的にはあまり知られていない。
「彼に興味があるのかね?」
「はい」
ここは素直に答えておいた。ただし、父親のことは伏せておくつもりだ。普通の感覚では、父親を殺害した男の弁護をしようとは考えられないだろう。
「君にも弁護してもらうことになる。よろしく頼むよ」
「はい!」
その夜、久しぶりに大沢から連絡があった。司法試験に合格し、司法修習生になってからは会うことはおろか、電話すらなかった。こちらからかけても、いつも留守電にしかならない。折り返しもなかった。
「大沢さん?」
『遅れましたが、弁護士になれたこと、おめでとうございます』
「ありがとうございます」
『もう、私の正体はわかっていますよね?』
「なんとなく……」
大沢は、冴島の事件を追って花梨に近づいてきた。しかしそのわりに、大沢の事件記事を読んだことがなかった。
あるとき、ふと眼にした旅行雑誌に、大沢の記事が載っていた。それを読んだときから、冴島を追っていたわけではないことを予感していた。
大沢に冴島を追う動機がないのなら、だれかに頼まれて花梨に近づいたことになる。そうなると、疑いのある人物は二人だ。
冴島自身と、戸倉。
しかし冴島には、そんなことをする理由がない。
「戸倉さん……なんですよね?」
戸倉と会うことになったのは、大沢があらわれたからだ。そうでなければ、戸倉と話す機会は一生なかっただろう。
『戸倉さんには、恩があってね……街で酔った人にからまれてる女性を助けたことがあるんだけど、相手を怪我させてしまったんだ。傷害致傷にされるところを、正当防衛にしてもっらたことがある』
「戸倉さんは、どうして?」
『それはよくわからない……とにかく児玉さんに近づいて、戸倉さんの事務所に行くことを指示された。そのあとのことは、児玉さんの行動に合わせてくれと』
「わたしの?」
『あなたは冴島を追い、こうして弁護士になった。もしかしたら戸倉さんは……』
そのさきを、大沢は言わなかった。
もしかしたら戸倉は、そこまで予想していた……。
そんなことがあるだろうか?
「わたしが、冴島を弁護すると考えたというんですか?」
『どうでしょうね……でも、あの人には見えていたものがあった……』
「……」
なんと返していいのか言葉が出なかった。
『……そして亡くなったのを知ったとき、こうも思いました。あの人は、殺害されることも悟っていたのではないかと……』
「え?」
『それは考えすぎかもしれませんが……』
考えすぎたと思う。さすがにそれがわかっていたのなら、殺害されないように普段から防衛していただろう。
『私はこれから、影としてあなたを応援していきます』
「大沢さん……」
『気をつけてください。冴島に近づくということは、Aの標的になるかもしれないということです』
「わかっています」
その実感はないが、用心はしているつもりだ。
最後に、全力をつくしてください──と言い残して、大沢のほうから通話を切った。
もう会うことはないのかもしれない……真相はどうあれ、彼がいてくれたから目標をもつことができた。
冴島への恐怖でなにもできず、いまでも暗闇を恐れていたかもしれない。
ありがとう。
花梨はつぶやいた。
切るまえに伝えておくべきだったと後悔した。
翌日から、弁護士としてのキャリアがスタートした。東京拘置所にいる冴島との接見が、最初の仕事となった。
花梨の姿を見ても、冴島の表情に変化はなかった。
「彼女は、新しくうちの弁護士になった児玉花梨さんです」
無反応な冴島に、久世が一方的に話をしていく。
「彼女と私の二人で、これからの控訴審を戦っていくことになります」
「児玉花梨です」
花梨は、久世と合わせるように挨拶をした。冴島からは、なんの反応も返ってこない。
「そうですか、これからも冴島さんの弁護を続けますので、よろしくお願いしますよ」
なぜだか、久世と冴島の会話が成立しているのではないかと錯覚してしまう。
「では、次の公判で」
久世は立ち上がり、すぐに面会室を出ていった。
花梨は残って、冴島が刑務官にもどされる様子も見ていた。意思は通っているのか、刑務官にはおとなしく従っている。自我がないようで、こうして面会を許可されるわけだから、最低限の意思疎通はあるのだろう。
冴島が退出するその一瞬、彼の口元に、それまでとはちがう笑みが浮かんだような……。
刑務官は気づいていない。花梨だけに見えていた。
「……」
それまでの人格は、裁判で眼にしている黙秘をつらぬく人物だ。
一瞬だけ垣間見えたのは、冴島本人のなのか……それとも……。




