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冴島の逮捕から、数週間が過ぎた。
花梨は複雑な思いで、これまでの時をすごしていた。
報道はされていない。容疑が殺人未遂だけだからだろう。谷村正憲殺害については、いまのところ関連づけられていないようだ。
本来なら、花梨の父と、検察官の上田を殺害した過去も、報道で取りざたされていなければおかしい。だが、そういうマスコミの動きもないようだ。
なにか大きな力を予感せずにはいられなかった。
「で、どうなりそうなんですか?」
花梨の家に、大沢と桐野が集まっていた。
「どうでしょう」
ため息をまじりに、桐野は言った。
「冴島の様子は?」
大沢が問いかけた。
「取り調べは、おれがしたんですがね……ずっと黙秘しています」
桐野の言動には、ふくみがあるようだ。
「やはり、やつは一人じゃない」
「なにがあったんですか?」
「黙秘というより、現実がわかっていないような……あの部屋で会った冴島とは別人だ」
それだけではない。花梨の首を絞めた冴島も、それまでの冴島ではなかった。
思い起こせば、裁判で襲われたときも別人だったのだ。
通常の冴島。
殺人鬼の冴島。
黙秘する冴島。
すくなくとも冴島のなかには、二つの別人格がいることになる。
いや、通常の冴島も別人格の一つで、本当の彼は、まだほかにいるのかもしれない。
「おれは専門ではないので断言はできないが、精神鑑定をしても無罪になってしまうかもしれない」
「詐病ではないんですか?」
「そうは感じさせない」
大沢の質問には、そう否定した。
「あれを演技でやっているのなら、天才的だ。いや、やつはいろいろと天才か……」
気を取り直したように、桐野は続けた。
「やつが多重人格者なら、そういうことが可能なのかもしれない」
「本当の精神異常者が、別人格のなかにいるということですか?」
花梨の問いに、桐野はうなずいた。
「警察としては、やることはやっています。起訴をするかどうかは、検察の判断になる」
「裁判になると思いますか?」
「なると思います」
根拠があるわけではなくて、そうならなくてはいけない、という意見を主張しただけのようだ。
「圧力はないんですか?」
言ったのは、大沢だった。
「どうでしょう? 上のほうにはあるのかもしれないが、こっちまではおりてこない」
たとえおりてきたとしても、桐野なら従うことはないだろうと思えた。
「報道はされてませんよね」
「そうですか……」
花梨の発言については知らなかったようだ。刑事が普段から報道に関心がないものなのか、桐野が特別なのかは判断できなかった。
「だとしたら、それが圧力なのかもしれない……ただ、逮捕はあくまでも、あなたへの殺人未遂ですから」
花梨も考えていたことを、桐野は指摘した。
「神奈川県警からの抗議はありましたか?」
大沢が訊いた。
「さあ」
そういう動きも、桐野のところまではおりていないようだ。それとも、彼がそういう面倒なものに無頓着なだけなのか……。
そんな気もする。桐野という刑事は、公務員的ではないし、組織の歯車というつもりも自覚もないようだ。
「首は大丈夫ですか?」
花梨は、室内でもスカーフを巻いていた。いまでも冴島の指のあとが消えない。
「はい」
痛みや苦しみに耐える返事ではなかった。裁判で襲われたときは怖くて怖くてどうしようもなかった。だがいまは、恐怖を塵ほども感じていない。
「わたしは平気です。それよりも、今後のことが気になります。仮に裁判になったとして、公平に裁かれるのか……」
「難しいかもれない。圧力うんぬん以前に、絶対に必要なものは、優秀な弁護士です」
戸倉が亡くなった以上、それが一番の問題かもしれない。
「このままだと、弁護士はどんな人になるんですか?」
「たぶん、国選でしょう」
大沢が言った。
「冴島が、べつの弁護士を雇うあてがあるのなら、その心配はなくなるが……」
それはないだろう。花梨にもわかる。
それに、詐病であるにしろ、そうでないにしろ、現在の冴島の様子を考慮すれば、弁護士を指名できるとは思えない。
「国選弁護人で裁判が進んでいけば……どういうふうになるんですか?」
父親が裁判官だったとはいえ、いままで興味を抱いたことがなかったので、花梨はそんなことすらわからない。
「弁護士は、まちがいなく精神鑑定を求めるでしょう。心神喪失で無罪を狙ってくる」
それしかない──桐野は確信をもって発言していた。
「でもそれなら、冴島の思惑と同じですよね」
大沢の意見に、桐野はかぶりを振った。
「それはあくまでも、一般的な弁護士にあたった場合です。国選ですから、なかにはやっつけ仕事の弁護士もいるでしょう」
「そんな弁護士だった場合は……」
「情状酌量のアピールだけをするかもしれない。反省している、という意思をしめすだけ」
「でも彼は、その意思をあらわしていないんですよね?」
「やっつけ仕事の弁護士は、そんなことなんて気にしない」
辛辣な桐野の言葉が、室内を虚しく流れていく。
「高い報酬をもらって弁護するわけでもないんだ。被告が無罪になろうが、死刑になろうが、大きな問題じゃない」
責めているというよりは、現実的な話をしているだけなのかもしれない。
「それじゃあ……弁護士が必要ですね」
「あてはあるんですか?」
花梨は、首を横に振った。
「裁判の長さは、どれぐらいになると思いますか?」
「それは、殺人未遂だけではなく、議員殺害の件で起訴されたとしてですか?」
「そうです」
花梨への殺人未遂だけなら、すぐに終わってしまうことは、さすがにわかる。
「弁護士の戦術によるでしょうが……短くはないでしょう」
「二、三年ぐらいは、かかりますか?」
「どうでしょう……裁判の専門家ではないので」
桐野は、少し困ったように答えた。
裁判員制度が導入されてから、日本の裁判はそれまでよりは短くなったといわれている。とはいえ……現状でも長くかかるものは、やはり長い──そんな印象が日々のニュースから感じとることができる。
「場合によっては、殺人罪は無視されて、未遂だけの短い裁判になるかもしれない。が、それだと冴島はすぐ出てくることになる。圧力をくわえている勢力としては、そうしたくないから動き出したんだと思う」
その言い方にも、ふくみがあった。
「それにも裏があるんですか?」
「すべての元凶である《A》にしてみたら、冴島にはすぐに出てきてもらいたいでしょう」
拘置所や刑務所のなかが、ある意味、一番安全であり、犯人からすれば、一番手を出しにくい場所ということになる。
つまり、勢力とやらが主導権を握っているのか、それともAのほうが主人公として君臨しているのか……。
「どうして、裁判の長さを気にしているんですか?」
大沢が素朴な疑問を投げかけた。
「……笑わないで聞いてくれますか?」
花梨は意を決した。
「え、ええ……もちろん」
大沢は桐野と視線を交えて、困ったように声を出した。
「わたし、弁護士になろうと思います……」
二人が首をかしげた。
「おかしいですか?」
「い、いえ……それは、弁護士になって冴島の弁護人になるという意味ですか?」
「はい」
二人は、複雑な表情になっていた。
「ムリなことは承知しています。でも、やってみようかなって」
むろん、自信があるわけではない。法律に無知な自分がなろうなど、甘い考えなのもよくわかっている。
だが、チャレンジするのに制限があるわけでもない。遅すぎることはないと、山口のおじさんも言っていたではないか。
「わたし、じつは法学部に受かってたんです」
「え? どこの大学ですか?」
「父と同じです」
二人は顔を見合わせた。すぐに、父の出身大学を二人が知らないことに思い至った。
「東大です」
「え!?」
あからさまな驚きだった。
「行かなかったんですよね?」
「ええ。べつの女子大に通いました」
「どうして……」
「父と同じ道に進むことがイヤだったんだと思います」
いま考えても、自分でもよくわからない。そもそも、なぜ東大の法学部を受験したのか……裁判官の父が嫌いだったのに。
「じつは、父も知らないんです」
法学部に合格していたことを知っていたら、父はどう思っただろう……ふと、考えてしまった。
「大学に入りなおすんですか?」
「いいえ。大学には行かずに、司法試験をめざします」
おじさんに教えてもらった司法試験予備試験を受けて、それに合格して本試験に挑むつもりだ。
「おもしろそうだ」
ボソッと、桐野が口にした。
「一審にはまにあわないでしょう……でも、高裁や最高裁までもつれれば、まにあうかもしれない」
その言葉で、希望がわいてきた。
「そういうの、おれは好きだね。あきらめの悪い人間の発想だ」
褒められてるのか、けなされてるのか……。
「おれも一人、あきらめの悪い人間を知ってる。どんな逆境にあっても、どんな暗闇のなかでも、けっして前進をやめない。それこそが、本当の勇気だ」
「桐野さん……」
その言葉こそ、花梨にとっては勇気となった。




