十一
十一
当時の最高裁判所長官は、いまでは政治家に転身していた。ただし国会議員ではない。現在の神奈川県知事が、その人だ。
県庁の廊下を愚者が歩いている。多くの職員の眼に、愚者は“ただの人”にしか映っていない。
知事室の前についた。ノックをせずに扉を開けた。
室内には、知事の姿だけがあった。
「ん?」
不審な眼を向けるも、職員の一人だと考えたのか、大声をあげたり、人を呼ぶような素振りはなかった。
「なにか用かね?」
「……」
「はやく用件をいいたまえ」
「……」
「どうした?」
「もう少しまて……いまかわったばかりだ」
「かわった? なんなんだ、君は? はじめて見る顔だな?」
すでに愚者の意識はなく、道化師が主導権をとっていた。
「──時間がないから、簡潔に答えろ」
「あ? なんだ、その態度は!?」
「七年前の裁判についてだ」
「なんことだ?」
「おまえは裏から手をまわして、裁判員をコントロールしたな?」
「ん?」
「いつもやってるから、どれのことだかわからないようだな」
「警備員を呼ぶぞ!」
「ハンディマンが、すべて吐いた」
「だれのことだ?」
「ハンディマンだよ。死んだばかりだろ」
そこでようやく、この男にも事の重大さがわかったようだ。
「お、おまえは……まさか!」
道化師は、後ろ手で鍵をかけた。
「おまえの指示で、裁判員を仕込んだそうだな」
「……な、なんのことだ!」
「もうバレてるんだよ」
「や、やったのは……おまえなのか!? 谷村を殺したのは!」
ハンディマン=谷村正憲だと理解しているのは、この男がクロである証拠だ。
「殺しや拷問は、おれの役目なのでな」
「こ、殺さないでくれ!」
「答えるまえに命乞いか。おまえの名前は、チキンに決定だ」
「こ、答える! なにが知りたいんだ!?」
「七年前の裁判だ。だれの命令をうけて手心をくわえた?」
「ど、どの事件のことなんだ!?」
チキンは本当にわかっていないようだった。思い当たることが多すぎるのだろう。
「ハンディマンに裁判員を用意させたときだ。青の裁判員」
「ど、どんな事件だったか……そうだ、あれか……」
「はやく答えろ。だれの命令だ?」
「い、言えん! それを言ったら、私は殺される!」
「いや、ほら、言わなければ、おれが殺すから」
チキンの愚かさに、道化師はあきれた。
──たとえ正直に告白しても、殺すがな。
「……あ、あれだろ……さるお方の息子の裁判のことだろ……」
「息子? 命令したやつのか?」
「ちがう……もっと上の人間だよ」
「だれの息子なんだ?」
「名前は知らない……」
「知らないわけないだろ」
「ほ、本当だ!」
嘘ではないようだ。
「どういうことなんだ?」
「わ、私レベルでは、そんなことまで話は降りてこない!」
かつて最高裁判所長官の職につき、現在は選挙で神奈川県知事に選ばれた人物ですら、こんなことを口にするとは……。
「まて、ちょっとまて」
「信じてくれるのか!?」
「いや、おれだとよくわからん。べつのにかわる」
「かわる? さっきから、なんなんだ!?」
道化師は闇の底へ沈み、べつの人格が浮き上がってくる。
「お待たせした」
「?」
「知りたいことは、もっと単純です。あなたに命令した人物はだれですか? それなら言えるでしょう?」
「命令されたわけじゃない……」
チキンは、質問しているのが全能者にかわっていることなど気づかずに答えた。
「細かな状況はいいです。だれが仕組んだんですか?」
「……政治家だ」
「こういうことですか? 政治家から指示をうけて、政治家をつかって裁判員を用意した」
まわりくどい。その政治家は、なぜ直接、ハンディマンを動かさなかったのだ?
「その政治家とは?」
「……それを知れば、いろいろ面倒なことになるぞ!」
「こちらへの配慮は必要はありません」
道化師にくらべれば、口調は丁寧だが、底知れぬ圧力が増している。
「野党だ」
「?」
「山野幸助」
「嘘ですね」
山野幸助というのは、左派政党の人間で、党内ではなんのポストにもついていない一介の議員でしかない。
「嘘ではない……なぜおまえは、山野の名前を知っていた? それが嘘でない証拠だ!」
そのとき、ノックの音がした。
「知事! 知事!」
全能者は、チキンを殺すか、逃走するかを選ばなくてはならなくなった。
次に捕まれば、もう一生、外には出られないかもしれない……。
「これだけは言っておきます。道化師に狙われた人間は、必ず殺される。どこに逃げてもムダです」
それだけを言い残すと、全能者は意識の奥に沈んだ。
上がってきたのは……。
「……」
愚者は、鍵をあけた。
「どうしたんですか、知事!? 視察の時間です」
秘書らしき男が、室内に入ってきた。
それをすり抜けるように、愚者は出ていった。
「知事?」
「け、警察を呼べ!」
* * *
戸倉は、朝から用事があって、裁判所へ行った帰りだった。用事自体は、すぐに終わるものだったので、まだ九時半を少し過ぎたばかりだ。
その人物を見かけた瞬間、身体の動きが止まった。
「……」
知っている人物……。
すべての元凶。
七年前の犯人A──。
Aは、駅へと続く通りを歩いていた。
冴島が、さがし求めている男……。
あとをつけずにはいられなかった。
あの裁判で無罪になって以降、これまでまったく消息がつかめなかった。生きているのか、死んでいるのかも不明だった。
生きていたのは、まちがいなかったようだ。
最初は駅に向かっているかと思われたが、そうではなかった。細い路地に入っていた。
そこで戸倉は、自らが同じことをした経験を思い出していた。児玉花梨とあの刑事を、公園に導いた。
どうやらこのAに、ここへ誘い込まれたのだ。
「……私に会いに来たようだな?」
ほかにだれもいない路地で、戸倉は声をかけた。
Aは、足を止めていた。
「あんたには世話になったからな」
「いまはなにをやってるんだ?」
「それを知る必要はない。蟻が人間のやってることなど理解できるはずはないだろう?」
この特権意識は、あのころにはわからなかった。いや、心のどこかでは予感していた。
「そうか……警告をしにきたのか」
この男は、冴島が追っていることを知っている。そして戸倉の死をもって、冴島への警告にしようとしている。
「やめておいたほうがいい」
「おれに命乞いが通用すると思っているわけじゃないよな?」
この男の残虐さと、無慈悲ぶりはよくわかっている。
「そんなことじゃない……彼を本気にさせるな」
「彼? 蟻がごときが、なにをしたって同じさ。それに、すでに本気を出しているからこそ、おれの近くに来れたんだ。といっても、まだまだ遠いがね。人間にとっては一歩でも、蟻にとっては遥かな道のりだ」
「このさきおまえは、どちらが蟻かを思い知るだろう」
「ふふ」
Aは笑った。
「最後に残す言葉はないか?」
「おまえは、冴島に勝てない」
その直後、激痛とともに血がしぶいた。
* * *
冴島は、戸倉にコンタクトをとる必要が生じた。
チキンを殺さなかったこともあるが、チキンの口から山野幸助の名前が出たからだ。
山野幸助とは、日本の政界にとっては重要な存在ではない。野党のいち議員にすぎない。が、山野のバックには赤い国々が控えている。
具体的にあげると、中国、北朝鮮……。
そっち側に染まっている。公費をもらっているスパイ、と揶揄されている人物だ。
ただし、与党のなかにも中国の息がかかっている議員は多いから、それ自体が問題になっているわけではない。
山野が一躍有名になったのは、何年か前に北京で中国の国家主席と会談したことだ。むこうのトップが、一介の議員に会うことは異例中の異例だ。
とはいえ、国内で山野が頭角をあらわすことはなく、現在にいたる。
山野は、レッドチームの何者かの肉親なのではないか、と噂されていた。だから、へたに手を出せないアンタッチャブルな存在なのだ。
山野のことは、戸倉にも知らせておくべきことだ。政治の世界に詳しくない冴島でも知っている山野幸助という人物からは、一筋縄ではいかない危険なものを感じる。
それは冴島だけの錯覚ではない。冴島のなかに住む《全能者》も察知しているものだ。
戸倉との連絡を冴島のほうからすることはない。頃合いを見計らって、戸倉のほうが部屋をたずねてくるのだ。
電話でのやりとりはしない。携帯は位置を特定される可能性があるので、使うつもりはなかった。
戸倉の事務所へ向かう途中で、愚者に入れ替わっていた。監視・防犯カメラを避けるためだ。愚者には、それらを見抜く特殊能力がある。そして、どんな場所にも潜入し、脱出することもできる。神奈川県庁からも、やすやすと逃走することができた。
こうして戸倉の事務所を訪れるのは、はじめてだった。住所も電話帳に載っていた広告で調べたのだ。
事務所には、だれもいないようだった。
「?」
愚者は、違和感に従った。
扉に鍵はかかっていない。なかに入り、奥へ進んだ。
普段、戸倉が使っていると思われるデスクの上に、血のついたナイフが置かれていた。
愚者の身にあまる事態だった。
すぐさま、冴島本人にかわった。
机の上に残されたのは、ナイフだけではなかった。文字が記されている。
冴島は、指でその文字に触れた。
血だ。
『A』と書かれている。
あの男だ。まさか、むこうのほうから姿をあらわすとは……。




