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「どうして、そんなことを知ってるんですか!?」
大沢の言葉は、詰問口調だった。
仕事終わりに、いつもの喫茶店で待ち合わせをしていた。直接会って、あの話をしたかったのだ。
「本人から聞きました」
「ですから、どうして!」
花梨は、戸倉を尾行した晩のことを正直に話した。
公園で襲われかけて、冴島に救われたことも……そのときに部屋の住所を教えられたことも……。
そして部屋へ行って、最高裁判所長官を次に狙っていると聞いたことも。
「なんて危険なことを……あの男に殺されていたかもしれない」
たしかにそのとおりだ……だが、冴島に助けられてもいるし、部屋に入っても危害をくわえられることはなかった。
「……本当に冴島は、最高裁長官を殺すと言ってたんですか?」
「はい」
釈然としない思いをのみこむように、大沢は話を進めた。
「そういうニュースはないですよね?」
「ありません。もし犯行が実際におこなわれていたとしたら、いまごろトップニュースになってますよ」
では、まだ実行前なのだろう。
「ですが……」
大沢は、なにかを続けようとしていた。
「最高裁長官を狙うということは、長官が七年前の裁判になにかしらの手をくわえたということになるはずです」
「そうですね」
復讐する理由がないのに殺害するのだとしたら、それこそただの猟奇殺人鬼だ。
「七年前は、いまの長官とはちがう人物だと思います」
最高裁長官の任命資格は、最高裁判所判事と同じであるらしく、四十歳以上の者で、定年が七十歳と規定されているそうだ。しかし実際には六十歳以上から選ばれていて、長官の任命もそれにならっているという。
つまり、六十歳で長官になったとしても、最大で十年間しかできない。七年前だと同じ人物である可能性もあるが、おそらくは前任者であるだろうと、大沢は語った。
「では、その人物を狙ったということですか?」
「そうだった場合にも、ニュースになっているはずです」
それもそうだ。花梨の父が殺害されたときも、元裁判官ということで大々的に報じられていた。裁判官の長ともいえる役職にいた者が殺害されたとしたら、それ以上になるだろう。
「じゃあ、これから狙うということですね……」
「もしくは──」
大沢は、意味深長に言葉を止めた。
「?」
「……もうすでに狙った」
「え? でもそれなら、ニュースになってるはずじゃ……」
「だから、まちがいだと冴島も気がついた」
「殺そうとしたけど、途中でやめた──そういうことですか?」
大沢は、うなずいた。
いまの長官を襲った?
「襲うまえに気づいたのかもしれませんが、襲ってから確かめているかもしれない」
「それでも、ニュースにはなってるんじゃないですか?」
「怪我をしてなければ、事件になっていないかも……」
「だとしたら、いまの長官に話を聞ければ……」
すぐに非現実なことだと花梨はあきらめた。現役の最高裁長官と簡単に会えるはずがない。それに、冴島が本当に襲撃していたとしたら、不審な人間に会うことはしないだろう。
「直接話ができれば、冴島の話を聞けるかもしれない……」
「会ってくれないですよね……」
わたしたちなんかに──と、つけくわえそうになったのを花梨はこらえた。
「ただね、いまの長官は、かなりの変わり者だって噂なんだ」
「変わり者?」
「ああ。判決文が通常よりも長くなりがちで、しかも小説のようにストーリー性が高い。やりすぎだという批判もあったが、わが道を変えず、を貫き通した。出世する裁判官は、国家に有利な判決を出すものらしいですが、そういうわけでもない」
どうやら、話せばわかってもらえる人物、と評したいようだ。
花梨も個人的に興味が出てきた。
「杓子定規じゃないから、なんとか会ってもらえれば……」
しかし、そのきっかけをつくるのが難しい。
「その方は、なんというのですか?」
「山口志郎」
「山口?」
「どうしたんですか?」
その名前には、おぼえがあった。
「山口のおじさん……」
「え?」
「父の上司でした」
そのときの父たちの役職まではわからないが、まだ小さかったときによく遊んでもらった。
「知り合いなんですか?」
「はい……」
「そうですね、同じ裁判官同士なんだから、知っていてもおかしくない」
大沢の顔は、期待に満ちていた。
「まさか、わたしにどうにかしろと思ってませんよね?」
「連絡先は、わかりませんか?」
「家を調べれば、わかるかもしれませんけど……」
なしくずし的に、連絡をとることになった。
すぐに自宅へ帰った。母はすでに亡くなっているので、父が殺害されてからは、実家での一人暮らしとなっている。
「ちょっと待っててください」
リビングに大沢を待たせると、父の書斎に入って、連絡先の書かれているものをさがした。
五分ほどでみつかった。
「本当にかけるんですか?」
大沢の顔から期待は消えていなかった。
「もしもし? 山口のおじさまですか? わたし、花梨です。児玉信三の娘です」
少し親しげすぎる呼びかけだったが、思い切ってそうしてみた。山口のおじさんとは、小さいとき以来、会っていない。
『花梨ちゃんか!? おお、元気にしてるか?』
心からうれしそうな声が返ってきた。
『お父さんは残念だったね……葬儀にも行けなくて、もうしわけない。言い訳になってしまうが、当時は忙しくてね。ちょうど就任したばかりだったんだ』
長官に、という意味だろう。
「あの、ヘンなこと言ってしまうかもしれないですけど、冴島という男と会いませんでしたか?」
『ん? どうしてそのことを?』
訝しむ声になった。すぐに思い至ったように、
『そうだな……花梨ちゃんにしてみれば、憎むべき相手だからな』
そう続けた。
『そのとおりだよ。今朝、冴島に会った。そのときには、二人も殺している……君のお父さんを殺した男だとは思い出せなかった』
後悔の念を感じさせる言葉だった。
冴島の顔は、一般には公表されていない。名前すら「犯人A」と表記されている。裁判官とはいえ、担当している事件でもないかぎり、知らなくても仕方のないことかもしれない。
「怪我はないんですか?」
『ああ。それは大丈夫だ』
「なにかを話しましたか?」
『私を殺そうと思っていたようだが……』
「当時の長官のことを言っていましたか?」
『……そうなんだ。どうしてそのことを?』
答えに窮した。
『まさかとは思うが、お父さんの仇を討とうとか考えちゃいけないよ。いずれ、法律が裁いてくれる』
「でも、法律が悪を裁くとはかぎりません」
『……一度会って、話をしようか』
むこうのほうから言ってくれた。
花梨は大沢の顔を見て、表情でそれを知らせた。
「はい! ぜひ会って話したいです! お時間は大丈夫ですか?」
『ああ。花梨ちゃんなら、いつでも歓迎するよ』
「急なんですが、明日とか……」
『わかった、ちょっと待ってくれ』
スケジュールを確認するようだ。
『昼食の時間でいいかな? それぐらいしかあいてないんだ』
「わたしはいつでもいいです! それと、わたしの知り合いを同席させてもらってもいいですか?」
『いいよいいよ』
あのころの、気の良いおじさんとしての返事だった。
通話を終え、達成感のようなものに包まれながら、携帯をテーブルに置いた。
「会ってくれるって?」
「はい。明日の十二時です」
会話の内容から、大沢も同席できることは理解しているはずだ。
「うまくいきましたね」
大沢は、どこか自慢げだ。自身が言い出したことだからだろう。
「では、明日ですね。待ち合わせは、永田町駅にしますか?」
さすが、最高裁判所の場所をよく知っているようだ。たしか東京地方裁判所や高等裁判所とは少し離れているはずだ。父が現役だった当時、地方裁判所にはたずねていったことがある。
ここは、大沢にまかせたほうがいいだろう。
そう思ったときに、家の呼び鈴が鳴った。
こんな時間にたずねてくる人は、普段ならいない。近所の回覧板がまわってくるぐらいだ。
少し警戒したが、いまさら冴島が襲ってくることはないだろう。やる気なら、部屋へ行ったときになにかしたはずだ。
「どちらさまですか?」
扉の前で、そう問いかけた。すぐ後ろには大沢もついていた。
「警察の者です」
大沢と顔を見合ってしまった。警察官が、こんな時間にたずねてくるだろうか?
いまの時代、警察を名乗る犯罪者は星の数ほど存在する。
ドアチェーンをかけてから、扉を開けた。
「警視庁の桐野といいます」
警察手帳をかかげていた。それでも信用できない。
「お一人ですか?」
見たところ、私服で、その男性のほかにはいないようだ。制服ではないから、刑事ということになるはずだ。そうならば、必ず複数で捜査活動をすると耳にしたことがあった。
「そうです」
桐野と名乗った男性は、堂々としていた。犯罪者には見えなかったが、刑事に成りすまそうとする大胆な人間がうまく化けているだけかもしれない。
「なんのご用でしょうか?」
「児玉花梨さんですか?」
「そうです……」
「以前あった傷害未遂についてお聞きしたいのですが」
「え?」
意外なことを言われた。
「公園で襲われたかけた事件です」
「は、はあ……」
あの件は、終わっているはずだ。たしかに警察を呼びはしたが、被害届は出していない。病院に搬送された犯人が、冴島による暴行を訴えることはしないだろう。それこそ自らの強姦未遂を追及されるおそれがある。
「そちらの男性は、ご主人ですか?」
「い、いえ……ちがいます」
「失礼ですが、どういったご関係ですか?」
「知り合いとしか……」
大沢との関係は、言葉で表現するのは難しい。
「私がいっしょだと、なにかマズいのですか?」
大沢が割って入った。
「どこまで、ご存じなのですか?」
そこで気がまわった。この刑事は、強姦未遂であったことを配慮してくれたのだ。
「大丈夫です。知っています」
花梨は一度ドアを閉め、チェーンをはずしてから開けなおした。その配慮が、本物の警察官だと証明していた。
「あの、最初に言っておきますけど、わたしは被害届は出していませんよ。出すつもりもありません」
「いまは、強制わいせつ罪は親告罪ではなくなりました。被害届がなくても、捜査はできるんですよ」
そのことは知っている。強姦も『強制性交等罪』という名称に変更されて、被害届がなくても犯人を逮捕することができる。普段、法律に関心がなくても、女性としては注目すべき事柄だ。
強制わいせつ、と耳にしたからか、大沢が青ざめたようになっていた。
「大げさです。なにもされていませんし……」
大沢を安心させるためにも、そう口にした。
「強制性交等罪は未遂だったかもしれませんが、強制わいせつ罪は成立している可能性があります」
その理屈はわかる。押し倒されたときに身体のあちこちは触られているからだ。
「いえ、ですから……」
「ことを大きくしたくないんですよね?」
刑事は言った。
「それは、なぜなのか? あなたをそのとき助けた男性がいる……そう証言してますよね? 何者かはわからず、助けたあとなにも言わずに姿を消したと」
「え、ええ……」
「本当は、知っている男性だったんじゃないですか?」
ドキリとした。この刑事には、すべてを見透かされていると感じた。
「だから、その男性に迷惑をかけないように被害届を出さなかった……ちがいますか?」
「……」
「単刀直入に訊きます。その男性は、冴島冬輝じゃないですか?」
表情が固まってしまったことを自覚していた。
どうして、そこまで断定できるのか……。
あの公園には監視カメラはなかったと思う。だが、そういうことでないかぎり、冴島ということまでわからないはずだ。
「なぜそこまでわかるのか、という顔をしてますね? 私はまず冴島のことを捜査するにあたって、弁護士の戸倉氏をたずねました。冴島の居場所を知らないとトボけたので、尾行することにした。わざとわかるようにあとをつけた。戸倉弁護士に会ったことはあるんじゃないですか? ああいう人間は挑発に反応したくなるものだ」
戸倉がそれに反応するような人間には思えなかったが、もしかすると、そういう性格なのかもしれない。
あの夜、花梨が尾行したことも、たぶん戸倉は知っていて、わざと冴島の住居の近くへ行った。いわば、あの公園に誘われたのだ。きっとこの刑事にも、同じことをしたのだ。
「そして、あの広い公園に導かれた。ヒントだと思った。そこで私は、その公園でなにか特別ことがなかったか、近くの交番で問い合わせた」
「……それで、わたしのことを?」
「まちがいないと思ったね。あなたのことを少し調べただけで、冴島との接点がみつかった。あなたのお父様は、冴島によって殺害されている。もしかしたら冴島の所在をつきとめるために、私と同じように、あの弁護士を尾行したのかもしれない」
完全に見破られている。
「……おかいしと思いませんか?」
花梨は、ただ言い当てられたことが悔しかったので、挑発してみることにした。戸倉が挑発に弱いというが、じつはこの刑事のほうが弱いような気がしていた。
言い替えれば、戸倉の挑発に、この桐野がのったともいえる。
「なにがですか?」
「わたしが冴島に公園で助けられたとして、どうしてそのことを隠す必要があるんですか?」
「それこそ、あなたのことを助けたからですよ」
「でも、冴島は父の仇なんですよ? そんな人間をかばう必要はないはずです」
「……そこなんですがね」
桐野は、困った表情になっていた。
「ここからは、かなり乱暴な推理になる」
その前置きが、重々しく玄関に響いた。
「冴島とあなたは、加害者と被害者家族の関係をこえている」
「どういう意味ですか?」
花梨の声には、不快なものがふくまれていた。
「ただ憎んでいるわけではない。ある種のシンパシーのようなものをあなたは抱いてしまった。そして……それはおそらく、冴島がただの快楽殺人者ではないからだ」
乱暴な推理、と口にしたことが嘘のように、桐野の言葉には確信を感じさせる強さがあった。
「……では、なんだというんですか?」
「それは、おれにはわからない。だからそれを教えてもらうためにここへ会いに来ました」
私から「おれ」になっていた。そちらのほうが似合っていると思った。
「あがってもいいですか?」
図々しくも、桐野は言った。
花梨は、大沢と顔を見合った。
ここで重要なことは、警察官とお近づきになることで生じるメリットとデメリットだ。
もっと杓子定規な刑事ならば、デメリットのほうが大きいだろう。花梨たちの行動を制限され、もしかすると見当違いの方向へ捜査を進めるかもしれない。
だが、この桐野という男性は、そうではない……。
答えは出た。
どうやら大沢も、同じ結論を出したようだ。
花梨は言った。
「どうぞ、あがってください」




