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 一

       一


 主文、被告人は無罪──。


 この裁判は、はじまるまえから異常だった。

 殺害されたのは、元裁判官で弁護士の児玉信三(63歳)。全身をメッタ刺しにされ、肉をそぎ落とされるというむごたらしい殺害方法だった。

 警察は、すぐに容疑者を特定した。

 冴島冬輝とうき(22歳)。無職。精神科への通院歴があった。ここ最近、精神状態が不安定で数々の異常行動を近所で目撃されていた。

 報道では、冴島の名前は出ていない。

 容疑者A氏。そう呼ばれている。

 精神鑑定が必要な事件であることは、素人でもうかがいしれた。犯人の刑事責任を問えるのか……市民の関心は、そこに集中した。

 そんな状況ではじまった裁判。

 その過程で、裁判員・傍聴人、それどころか検察官や裁判官ですら眉をひそめるような真実が明らかになった。

 容疑者は、そぎ落とした被害者の肉を食べていたという。

 嘔吐した裁判員もいた。

 おぞましい。ただそのひと言につきる。

 そして裁判も終盤にさしかかったころ、だれもが戦慄をおぼえる出来事がおこった。

 被害者遺族の傍聴席には、児玉信三の23歳になる娘・花梨がいた。それまでうつろな眼をしていた冴島が、ニヤッと傍聴席の花梨を見やった瞬間だった。

 座っていたはずの冴島が、重力を無視して飛び上がった。

 信じられなかった。人間の跳躍力とは思えなかった。猫がのりうつったかのようだ。

 被告人は、傍聴席の花梨の位置まで数メートルを一気に飛んだことになる。法廷は、たちまち混乱に陥った。

 花梨にのしかかった冴島は、その首筋を噛みちぎろうとした。

 やめろ! やめろ!

 だれともわからない怒号が飛び交い、しかし刑務官が冴島を取り押されたので、大事にはいたらなかった。

 冴島は、狂ったように笑っていた。

 退廷を命じられたあとも、その哄笑がいつまでも法廷内の壁にへばりついているようだった。

 再開されてからも、冴島の狂気だけが浮き彫りになっていた。だれもが、判決の内容を予想した。

 そして──。

 冴島冬輝に、無罪が宣告された。

 刑法三九条。

 心神喪失者の行為は罰しない──。

 被害者遺族、その他の傍聴人、検察官、裁判員、判決を言い渡した裁判官すら、その表情には落胆がはりついていた。

 そしてなにより、このニュースを眼にした一般市民の憤りは想像するにかたくない。

 無罪になったとはいえ、完全なる自由があたえられるわけではない。それは、みなが知っている。これから冴島冬輝は、医療施設へ入所しなければならない。

 心神喪失者等医療観察法。

 検察官の申し立てで、ます鑑定入院しなければならない。その結果をもとに地方裁判所が入院の措置を決定することになる。三九条が適用された段階で、まちがなくそうなるはずだ。

 そして裁判から二ヵ月後──。

 冴島冬輝の身柄は、とある閉鎖病棟にあった。窓には鉄格子がはまり、施設の外どこか、部屋の外にすら出られない。厳重に管理された、ある意味、監獄だ。

「様子はどうですか?」

 その冴島に面会をする者がいた。当然、通常の病院のようにはいかない。直接会えるわけではなく、部屋の外からなかをうかがうことしかできない。

「あいかわらずです」

 その人物は、医師からの話を神妙に聞いている。

 冴島はベッドで上半身を起こして、ぶつぶつとなにかを唱えていた。

 それを頑丈なガラス越しに見る男性の眼には、強い意志がこもっていた。冴島の裁判で弁護士をつとめた男だ。

 名を戸倉という。

 戸倉は、思い出していた。

 六年前を──。



 20歳の大学生が、40代の夫婦を刺し殺すという凶悪事件が発生した。逮捕されたとき、犯人の大学生は意味不明なことしか口にしなかった。

 すぐに精神鑑定がおこなわれた。二人の鑑定人が別々の結果を出したが、検察は起訴に踏み切った。

 戸倉は、弁護人として裁判に挑んだ。

 国選ではなく、ちゃんとした依頼があったのだ。被告の知人と名乗る人物だった。困難な裁判だと覚悟はしたが、提示された費用も高額だったので、なかばそれにつられて引き受けたようなものだ。

 戸倉は、自分自身でも立派な弁護士だとは思っていなかった。損得勘定で動く、腐った俗物だ。所詮、人間などそういうものだろう──そんな開き直りもあった。引き受けはしたが、被告人が死刑になろうが、無罪になろうが、どうでもよかった。

 戸倉は裁判の争点を、被告人の心神喪失にのみおいた。情状酌量を狙って無期か有期刑を狙うより、確率が高いから──その理由だけだった。

 被告人は戸倉との接見時にも、意味不明のことしか口にしていなかった。本当に頭がおかしいと思っていたこともあって、迷わずにその裁判戦術にうってでた。

 被告人が詐病ではないかと疑い出したのは、公判がはじまってすぐのことだった。どこがおかしいとか具体的なものではなく、それこそなんとなくという曖昧なものだ。しかしそれでも、疑うには充分だった。

 だからといって裁判では『心神喪失で無罪』の方針は変更しなかった。

 裁判は、戸倉にとって理想どおりに進んでいった。検察の追及は甘かったし、裁判員の雰囲気も心神喪失で流れていることは明白だった。傍聴席にしてもそうだ。

 長期化するのではないかと心配された公判も、想像以上に短くすんだ。

 判決は、無罪。

 世間は騒然となるかと思われたが、この判決が出たころには、人々の関心はなくなっていた。マスコミも、ほとんど報じることもなかった。

 凶悪な殺人事件は、あっけないほど簡単に終わりをみた。困難な裁判のはずだったのに、戸倉の脳裏には、なんの印象も残っていなかった。

 いや、一つだけ残ったものがあった。

 公判中、つねに強い眼光で睨んでいた少年がいた。まだ中学生か高校生ぐらいの男子だった。その瞳の色だけが、どうしても脳裏から離れなかった。

 裁判が終わり、数年が経った。

 時間が経つにつれ、不可解さがわかるようになっていった。決定づけたのは、ある噂を耳にしたからだ。

 犯人の男は、すでに退院して野に放たれていると。

 無罪判決を受けたからといって、次の日から自由が保障されているわけではない。精神科での強制入院が待っている。

 その期間については、だいぶ個人差があるといわれる。むかしは短期間で出られるケースが多かった。かつての措置入院制度は、人に危害をくわえるおそれがなくなったと担当医が判断したら、すぐに退院させなければならないという取り決めがあったためだ。

 過去に傷害事件をおこしたが「責任能力なし」という判断で無罪になり、措置入院になった男が、その後、小学校を襲って多数の死者を出すという事件がおこった。その反省から『心神喪失者等医療観察法』が制定された歴史がある。

 それ以降、厳格になっているから、簡単に退院できるものではなくなっている。一応、厚生労働省がかかげるガイドラインには、一年半の入院を経て、三年の通院(二年の延長もある)と想定されている。ただし、これはあくまでもモデルケースで、犯罪の重さまでは加味されていない。軽い傷害事件と大量殺人では当然かわってくる。入院期間の上限が決められているわけではないので、ヘタをすれば死ぬまで強制入院という可能性すらあるのだ。

 それなのにあのときの犯人は、わずかの期間で一般人としての生活をおくっているという。

 さらにべつの噂もあった。その彼が、さる大物の親族にあたるというのだ。

 真偽はわからない。都市伝説のたぐいかもしれない。だが、それで納得できる部分があったのも事実だ。

 なぜ裁判が、ああも簡単に運んだのか……。

 あっけなく「責任能力なし」の無罪を勝ち取ることができたのか……。

 もしかしたら、検察が起訴に踏み切ったのも、なにかの思惑があったのかもしれない。不起訴と、裁判で無罪判決をうけるのでは、やはりちがう。不起訴では、一事不再理は適用されない。裁判での無罪が確定すれば、同じ犯罪での罰は永久にうけることはない。いわば、法によって守られることになる。

 そんなときだった。あのときの少年が──成長した彼が、戸倉の前にあらわれたのは……。



「一日中、意味不明のことを口ずさんでいます」

「率直にお聞きします。彼は、いつごろ出られますか?」

「具体的には……」

 むかしとちがって、主治医だけで判断をくだすことはできない。最終決定は医師の判断によるものだが、保護観察所に設置される社会復帰調整官とのすりあわせが不可欠だ。

「では、早めに出していただきたい」

 無理難題を遠慮なく戸倉はぶつけた。

 医師は一瞬、鼻白んだ。

「あなたも、いわば共犯なんですよ」

「……脅すつもりですか?」

「脅しではありません。脅迫です」

 周囲を気にするように、医師が視線をさまよわせた。ほかにはだれもいないことを確認すると、少しだけ安堵したようだ。

「……あなたがたは、なにをするつもりなんですか?」

「知らないほうがいいでしょう。私も、わかりません」

「本当ですか?」

「ええ。ですから、そのことを気にする必要はありませんよ」

「……」

「私たちには、責任があります……彼をこんなにした責任が」


     * * *


 ベッドの上で、冴島冬輝は呪文のように謎の言葉をつぶやいていた。

 いや、そのつぶやきを止め、一瞬だけ正気の瞳で囁いた。

「まず一人──」


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